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2 宝の地図
僕たちは、にわか雨に降られたように走っていた。
砂ぼこりを巻き上げながら、人気のない体育館裏に飛び込む。大きな日影の真ん中くらいまで進むと、誰が言うでもなく足を止めた。ここまで来れば、もう大丈夫だろう。
肩を上げ下げしながら辺りを確認する。そこには、僕ら以外人っ子ひとりいなかった。完全に逃げ切れたらしい。
三人がぜーぜーと呼吸を整える音を聞き、謎の達成感に浸る。吉田先生は嫌いじゃないけど、捕まると説教が長くていけない。
「おい瑶太! やっぱり廊下でやるのは止めようぜ」
しばらくして、哲也が少し不満そうな顔で言った。
「えーっ、何でだよ?」
「あのなあ。お前、俺らが一応受験生だってこと分かってんのかよ」
僕の返事に、哲也は声を荒らげた。あまりピント来ていない僕に、哲也は呆れた様子で溜息をつく。
「見つかりやすいっていうのもあるけどさ。教室で勉強してる奴もいるし迷惑だろ? ほら、寺重さんもずっとこっち見てたじゃん。あれ、やっぱうるさいって思われてるよ」
「寺重さんって誰?」
聞き覚えのない名前に首を傾げると、弘樹と明人まで「こりゃダメだ」と言わんばかりに額を押さえ、肩をすくめてしまった。
「有名人じゃん。学年で一番頭の良い子だよ」
「噂で聞いたことくらいあるだろ?」
そう言われても、僕の記憶の引き出しの中には影も形もなかった。勉強や成績関係の話は、きれいさっぱり消されるように出来ているのだから仕方ない。終わりに差し掛かっている高校生活は、四人で馬鹿をやって笑い転げた記憶だけでいっぱいだ。
「もーっ!」
僕が答えずにいると、哲也は若干苛立った様子で、伸ばしかけの髪を掻き乱した。
「俺たち三人は専門だから気楽な感じでいるけど、他の奴らはピリピリしてんだからな」
それを聞いた明人が、思い出したように顔を上げる。
「そう言えば最近、母ちゃんがうるさいんだよな。書類出せば入れるような所なんだから大丈夫だっつってんのに、勉強しろ勉強しろって」
「それ分かる! まじでうっさいよな」
弘樹が同調したのをきっかけに、話題は自然と変わっていく。
文句を言いつつも楽しそうに話す三人を見つめ、僕はどことなく寂しさを覚えた。
何でだろう。友だちと一緒に騒いでいるのに。
同じような違和感は、これまでにも時々あった。確かにここにいるのに地に足がついていない、無重力空間にいるような不安な気持ち。
その正体を考えていると、ホームルームの始まりを告げる鐘が、校内中に鳴り渡った。スピーカーの割れた音が、ビリビリと空気を揺らしている。
「あ、やべ!」
顔をしかめた弘樹に続いて、哲也と明人が校舎に向かって駆け出していく。そんな中、僕はその場に立ち尽くしてしまった。
目でもおかしくなったんだろうか。自ら走っているはずの三人の姿が、まるで校舎に吸い寄せられているように見えた。なぜか自分と三人の間に隔たりがあるようにさえ思えた。いつもと変わらない日のはずなのに、どうしてこんなことを思うんだろう。
「おい、何してんだよ! 行くぞ!」
哲也に遠くから呼ばれて我に返る。
ぼーっとするなんて、僕らしくないな。
自分の行動を不思議に思いながら、僕は遅れて三人の後を追った。
その日の夕方のことだった。
「いい加減、勉強しなさい!」
ベッドに寝転がりゲームをしていると、母さんから特大の雷を落とされた。けれど、普段から被雷している僕にとって、これくらい痛くも痒くもない。
僕は携帯ゲーム機の影から、母さんの顔をちらりと覗き見る。そして、どうせ怒られるだろうなと思いながら、ぼそっと呟いた。
「嫌だよ。面倒くさい」
「文句言うんじゃないの! 何も一番の成績を取れって言ってるんじゃないのよ! 人並みで良いから、将来困らないようにしておきなさいって言ってるの!」
ほらやっぱり。
間髪入れずに放たれた怒号に口をひん曲げる。
普段から怒りっぽいけど、今日は輪をかけて酷い。僕は思わず耳を塞いだ。
「だいたいねえ、あんたは将来のことを考えてなさすぎなのよ。自分のことなんだからもう少し真剣に……ってちょっと! 人の話はちゃんと聞きなさい!」
怖い顔をした母さんが、ずかずかと詰め寄ってくる。耳を塞いでいた僕の両手をためらいなく引き剥がすと、母さんはより一層大きな声を上げた。
「もう頭にきた! ちょっと来なさい!」
「えっ、何!」
母さんは僕の手首を掴むと、そのまま引きずるように歩かせた。年不相応な腕力に成す術もなく、ぐいぐいと一階まで移動させられる。そして、玄関の扉を開け放ち、僕とスニーカーを玉入れみたいに投げ出すと、これでもかと眉を吊り上げた。
「いい? しばらく外で将来のことを真剣に考えて来なさい! 答えが出るまで家には入れないからね!」
尻餅をついて呆然としているうちに、扉は壊れんばかりの勢いで閉められてしまった。ついでに施錠をされる音もした。
慌てて扉に飛び付いたものの、捻ったノブはガチャガチャと音を立てるだけで、開く気配は全くない。
その代わり、扉の奥からは母さんの怒気がヒヤリと漂ってきていた。とてもじゃないが戻る勇気はない。
僕は諦めてスニーカーを履くと、近くをぶらつくことに決めた。
重い足どりで住宅街を抜ける。外はすでに日が傾き始めていて、まばらな人波は、どれも僕に逆らって進んでいた。
「考えろって言われてもなあ」
母さんに押し付けられた課題が、ドラム缶を思い切り叩いたみたいに、耳の中でぐわんぐわんと反響している。
確かに、受験生の立場で何も考えていなかった僕も悪い。だけど、何も家を追い出すことないじゃないか。やることなすこと、いっつも横暴なんだから。
だんだんと母さんへの不満が出てきた僕は、次第に関係ない過去の話を引き合いに出し、胸の中で文句を唱えた。
父さんが、理科の教員免許を持っている影響なんだと思う。実験とか工作とか、とにかく面白いことが好きだった僕は、小さい頃からやらかしてばかりで、何遍も母さんに怒られてきた。いつも決まって五分間。同じような小言を繰り返されたけど、何がそこまで悪いのか、正直これっぽっちも分からなかった。
他人に迷惑をかけていないんだから、自分の好きなようにさせてほしい。誰しもその権利はあるはずだ。
選挙とか政治なんて全く分からないけれど、きっと僕と同じ考えの人はたくさんいるだろう。そんな人たちを集めて、圧倒的なシュプレヒコールを叫んでみたい。
子どもみたいな考えに、我ながら苦笑いが出る。いつかはこんな主張も、小さな時の玩具のように捨てられてしまんだろう。心の中で思うくらいは許して欲しい。
それに、僕だって全く何も考えていない訳じゃない。ただ、考えれば考えるほど、何から手をつけるべきか分からなくなってしまうだけだ。
止まってくれない時間の中で、いつも急かされるようにしてたくさんの気持ちが駆け巡る。
お腹空いた、遊びたい、眠たい、勉強したくない。せめぎ合う思いを整理しきれず、パンクしそうになっては考えることを放棄する。そして、手っ取り早く心を満たせるものに逃げてしまう。
それが正しいと言い切れるほど子どもでもない。けれど、悪いと律することが出来るほど大人でもない。何にもなれない中間地点から、その度に言い訳を求めて足掻いている。
おかしなことに、そういう時だけは上手く頭が働いた。その繰り返し作業は、まるで泥沼に足を取られているような感覚だった。
とりあえず進学したほうがいいのかな。やりたいことだけならたくさんあるけど。
煩わしさを感じながら歩いていると、いつの間にか最寄りの駅に辿り着いていた。
学校までは自転車で行ける距離だから、駅は滅多に利用しない。それに、大きな観光地までの通過地点でしかないこの地域は、駅舎も小さく、目ぼしい建物は寂れたコンビニが一軒だけだ。どうしてこんな所に足が向いたのだろう。
ふらりと駅の中へ入ると、窓口の上に掲げられた路線図が視界に飛び込んできた。ここから五つ先の駅で自然と目が止まる。父さんの仕事の都合で引っ越すことになった時、ちょうど中学校に上がる前まで暮らしていた町だ。
時刻表を確認すると、ちょうど次の電車が三分後に迫っていた。
半ば自棄になっていたんだろう。
ポケットに入れたままになっていた財布の中身を確認すると、僕は迷うことなく切符を買い、何の計画も立てないまま、ホームに足を踏み入れた。
定刻に滑り込んできた電車の中は閑散としていて、楽々と座ることが出来た。運の良さに、少しだけ気分が良くなる。冷房も適度に効いていて快適だった。
すぐに扉が閉まり、電車は緩やかに走り出した。たたん、たたんと一定のリズムが眠気を誘う。柔らかい座席に僕の体温が移り、程よく汗が滲む暖かさになっていく。僕を包む全ては、赤ん坊の頃に味わった母さんの腕の中を彷彿とさせた。
僕はこんなにダメなのに、優しく背中を叩いて寝かしつけられているようで、何だか情けない。
いつの間にか熱くなっていた目頭に、僕はぎゅっと力を入れた。
約十分後。目的地に着くと、僕は足早に改札を出て辺りを見渡した。駅舎はなだらかな丘の上に立っていて、そこから町の様子が一望できる。山に隠れそうな太陽が町全体を橙色に染め、くっきりした長い影をあっちこっちに伸ばしていた。
点々と立ち並ぶ民家の周りには、寄り添うようにたくさんの緑が生えている。記憶の中から飛び出してきたんだろうかと思うほど鮮明な景色に、僕の胸はやさしく波を打った。
大きく深呼吸をしてから、再び町に視線を投げかける。せっかくここまで来たんだから、小学校でも見に行ってみるか。
そう思い立って足を向けた先に、僕はひとつの看板を見つけた。
それは近隣の山を切り崩したり、道路を舗装したりする、大がかりな工事の知らせだった。どうやら、僕の知らないうちに地域開発が進んでいたらしい。九月開始と書かれている。
思い出の詰まった町が様変わりしてしまう事実に、寂しさが湧き上がる。
もう少しで見納めだと分かった途端、町へ向かう歩みは自然とゆっくりになった。
この家で、こっそり柿を取ろうとして怒られたな。あそこの公園で日が暮れるまで遊んだっけ。あの細い水路は、友だちが落ちてびしょ濡れになった場所だ。
町での思い出を振り返り、しみじみと景色を焼き付けながら進む。
そう言えば、この近くにタイムカプセルを埋めたんだよな。
ふと、その存在を思い出した僕は、記憶を頼りに、タイムカプセルを埋めた町外れの空き地を目指した。
「あっ、ここだ」
十分ほど歩くと、伸びっぱなしの草木に囲まれている、だだっ広い空き地が現れた。ひんやりとした風が吹き抜ける。気づけばとっぷりと日が暮れていて、少しだけ心細くなってしまった。
「確かこの辺に……」
右から二番目。空き地を囲うものの中で一番立派な木のところに行くと、近くに落ちていた枝を拾って、木の根元を掘り始めた。ガリガリ、ガリガリと地面を削るようにして、乾いた土を捲り上げていく。
しばらくして、枝の先に何か固いものがカツンと当たった。手ごたえを感じて掘る手を速める。すると、小さな箱がひょこりと顔を出した。よくあるお菓子の詰め合わせの空き缶だった。
「おぉ~っ、懐かしい!」
僕は缶箱を拾い上げると、周りに付いた土を払ってさっそく蓋を開けた。中にはお気に入りだった玩具、ゼロ点のテスト用紙、満面の笑みを浮かべた友だちとの写真、そして折りたたまれた白い画用紙が入っていた。
「これ何だっけ……?」
それぞれにまつわる思い出がすぐによみがえったけれど、画用紙だけ、どうにも心当たりが浮かばない。
不思議に思いながら、画用紙を手に取る。二枚重ねて畳まれていたそれを、土汚れの付いた手で恐る恐る開いた。すると、そこにはまるで落書きみたいな地図が描かれていた。
「あっ!」
古ぼけていた記憶が、鮮やかに呼び覚まされる。
母さんと口喧嘩をした六歳の夏。僕は一人になりたくて、何も持たずに家を飛び出した。
きっかけなんて覚えていない。それくらい些細なことだったんだと思う。それでも腹の虫が治まらなくて、地面をありったけの力で蹴って進んだ。
小学校じゃ先生に怒られる。公園だと一人になれない。神社も駄菓子屋もきっとすぐに見つかる。
必死に考えを巡らせ、消去法で辿り着いたのは、裏手にある山だった。
そびえ立つ木々に、唾をごくりと飲み込む。友だちと来たことはあったけど、一人で入るのはその時が始めてだった。
大きな影が重なり合った砂利道に、そろそろと足を踏み入れる。辺り一帯を澄んだ空気が包んでいて気持ちが良い。けれど、何てことない鳥のさえずりが僕を追い出そうとしているように思えて、鼓動はドクドクと激しさを増していった。
大丈夫と言い聞かせ、獣道に逸れてゆく。ぼうぼうと伸びた背の高い雑草を掻き分けて、進むこと数十メートル。開けた場所に出ると、そこにはテントのような三角のうろを持つ、大きな杉の木が待っていた。少し前に、友だちと決めた秘密基地だった。
僕はうろに収まるようにして、ぽつねんと座り込んだ。
夕方まで帰らなかったら、母さんは探しに来てくれるだろうか。
あれだけ言い争った後だと言うのに、僕は迎えに来て欲しいと思っていた。一人でいたいけど、そのことが寂しくも感じた。
「坊や、そこで何してるんだい?」
僕が落ち込んでいると、草むらの方から声が飛んできた。さざめく森によく馴染む、深く落ち着いた低い声だった。驚いて顔を上げると、そこには知らない男の人が立っていた。
眩しい木漏れ日が邪魔をして、顔はよく見えない。けれど、何だか落ち着いた雰囲気を持っている人だと思った。
「おじさんこそ、何してるの?」
「俺か? 俺はな、宝の地図を作ってたところなんだ」
「……宝の地図?」
その言葉を聞いて、僕はそわそわと気分が沸き立ち、静かに食いついた。
「そう。完成してさあ帰ろうと思ったところだったんだが、どうも道を外れてしまったみたいでな」
おじさんは僕の前でしゃがみこむと、へへへっと調子良さそうに笑った。
「君この辺の子だよな? 良かったら町まで案内してくれないか?」
一瞬忘れていた母さんの顔が、パッと頭に浮かぶ。その途端、吹き飛んでいた怒りが、いとも簡単に再燃した。思い出させる原因であるおじさんまで憎らしくなり、僕はリスみたいに頬を膨らませた。
「僕はしばらく帰らないよ。おじさん、大人なんだから一人で行けるでしょ」
「何だ何だ、寂しいこと言わないでくれよ」
困ったように笑うおじさんに、僕は無視を決め込んだ。静寂を取り持つように、風がひとつだけ、びゅうっと駆け抜ける。
「どうした、喧嘩でもしたか?」
僕の不貞腐れた顔で気づいたんだろう。おじさんは遠慮なく尋ねて来た。
「おじさんには関係ないでしょ」
「まあそうだな」
意地悪な言い方をしたのに、おじさんはあまり気にした様子もなく答える。
「だけど、関係ない人の方が楽じゃないか? 俺は通りすがりのおじさんだから、君がどれだけ相手の不満を言ったとしても、最後はすっかり無かったことになる」
からっとした言葉を訝しんで、下から睨みを利かせた。
「……本当に?」
「あぁ、本当だとも。俺はこの町の人間じゃないからな」
にっかりと笑ったおじさんを見て、僕は何だか話してみようという気になった。
勉強をせず、いたずらばかりで、母さんによく怒られること。それが何で悪いのか分からないこと。
そんなことを辿々しく打ち明けると、おじさんは「そうかそうか」と頷いてくれた。
「ここで会ったのも、何かの縁かもしれないな」
「えっ?」
そう呟くと、おじさんは懐から折りたたまれた画用紙を取り出した。
「君にこの宝の地図をあげよう。もし、今日みたいに辛いことがあったら開いてみなさい。この地図の先にあるものが、君を救ってくれると思うよ」
呆気に取られながら画用紙を受けとる。それを見届けると、おじさんは僕の頭をぐりぐりと撫でて立ち去って行った。残ったのは、何だか心がすっきりした僕だけだった。
ひと際冷たい風が吹いて、現実に引き戻される。
あまりにも遠い幻のような記憶は、僕の心を激しく揺さぶった。
この地図の先にあるものを見つけなければならない。そこに、今僕に足りない何かがある気がする。
根拠のない使命感に駆られた僕は、いつの間にか駅に向かって走り出していた。
「お願い!」
次の日の昼休み。授業が終わるや否や、僕は哲也たちを呼び止めた。顔の前で両手を合わせる僕に、三人は困惑した表情を見せている。
無理もない。あんな子どものお遊びみたいな地図を、一緒に解読してくれと頼んでいるのだから。
「いやー、いくらなんでも無理だわ」
「ちょっと厳しいな……」
「そこを何とか!」
合わせた両手を、ぐっと頭の上にやって念を押す。
「うーん、悪いな! 一人で頑張ってくれ!」
けれど、返事が変わることはなかった。
「大丈夫、お前なら出来る!」
「ファイト!」
僕の手に画用紙を収めると、三人は思い思いの言葉を掛けながら、申し訳なさそうに去っていった。
皆なら手伝ってくれるかもって思ったんだけどな。
僕は一緒に取り残された地図を見つめて、重い溜息を落とした。
昨日の夜。家に帰ってから解読に取りかかったものの、見事なまでにお手上げだった。時間が経っているから地図や文字が掠れていてヒントも少ない。一人で解読出来るとは到底思えなかった。
これからどうしようか。立ちっぱなしで考えていると、どこからともなく視線を感じた。
顔を上げた途端、引き合う磁石のようにバチリと目が合う。その相手は、廊下にいる生真面目な雰囲気の女子だった。開けっ放しになった後ろの扉から、こちらを見ている。
一体誰だろう。目が合ったことに気づくと、彼女は驚いた様子で顔を背けてしまった。そのまま、忙しない様子で扉の外へフレームアウトする。はためく長い黒髪が、彼女の残像を綺麗に拭い去っていく。その美しい光景に、僕は目が釘付けになった。
「おい瑶太、どうした?」
どうやら購買に行っていたらしい。惣菜パンを抱えた哲也が、棒立ちになった僕を訝しんで声を掛けてきた。
「ねえ、あの子誰か知ってる?」
僕は慌てて扉から身を乗り出し、走り去る後ろ姿を指さした。どこにでもいそうな長い黒髪は、丁寧なハーフアップに結われている。左右に揺れる艶やかな小さいしっぽを見て、哲也は「あぁ」と思い出したように声を上げた。
「あの子が寺重さんだよ。昨日話してた」
「ふーん」
学年で一番頭のいい子って、あの子の事か。
彼女の顔を思い出しながら、僕は間延びした返事をする。
分厚い本の文字が滲んだような曇りのない瞳は、少し吊り上がっていて、噂通り賢そうな印象を受けた。きっと、僕が知らないような難しいこともたくさん知っているんだろう。
「そうだ! 良いこと思いついた!」
諦めの悪さが功を奏したのかもしれない。すっからかんの頭にひらめきが下りてきて、僕は顔を跳ね上げた。
「急に何だよ?」
驚く哲也を置いて教室を走り出ると、僕は彼女の楚々とした後ろ姿に駆け寄った。
「寺重さん!」
勢いのままに声を掛ける。彼女は、凄まじい電流が走ったかのように、びくりと肩を震わせた。見るからに不安そうな様子で、こちらを振り返る。それはギギギっと錆びた金具の音が立ちそうなほど、不自然な動きだった。
「えっと倉科君、だっけ? 何か用?」
「あっ……と」
僕は自分から話しかけておきながら、途端に狼狽えてしまった。
どうしよう、何て言えばいいんだろう。
ひとまず場繋ぎのために「えっと」「その」と、落ち着きなく言葉を漏らしてみる。あぁ、彼女が「早くしてくれ」とでも言いたげにこちらを見ている。何か、何か早く言わなければ。
「あの!」
モヤモヤした空気を打ち破るように、大きな声を上げる。僕はキリッと顔を引き締めると、生徒たちが往来する廊下のど真ん中で叫んだ。
「僕と付き合ってください!」
「……はっ?」
彼女から、素っ頓狂な声がこぼれる。
周りに溢れていた生徒たちの話し声が一気に引いて、水を打ったような静寂が訪れた。
人に注目されるのは慣れっこだけど、今日はやたらと視線の数が多い気がする。
妙だなと思って顔を上げると、目の前にいる彼女の頬は、この世のどんなものよりも真っ赤に染まっていた。
「ごめんなさい!」
彼女は勢いよく頭を下げて、その身を反転させる。
「えっ、寺重さん!」
慌てて引き留めるも、彼女はそそくさと廊下の角を曲がって行ってしまう。僕は手を伸ばしたまま、彼女を見送った。
彼女が見えなくなったところで、周りにいた生徒たちが男女入り混じり、口々に慰めの言葉を掛けて来る。
「あんまり気落とすなよ?」
「そうだよ、倉科くん! どんまい!」
やけに温かい声を聞き、頭が急激に平静を取り戻していく。今の一瞬の言動を振り返って、導き出される結論は一つだけだった。
「ま、間違えた!」
「えぇぇっ!」
近くにいた生徒たちの驚く声は、廊下いっぱいに何度もこだました。
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