3 雨上がりの放課後

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3 雨上がりの放課後

 あの人、一体どういうつもりなの!  周りの視線から逃げるように教室へ駆け込むと、私は後ろ手に閉めた扉に張り付いた。 「あれ、杏奈どうしたの?」  息の乱れた私を見て、愛理が問いかけてくる。 「ちょっと色々あって」  この手の話が好きな愛理の耳に入ったら、しばらく質問責めにされてしまうだろう。そう思った私は、詳細をぼかして答えた。 「杏奈! ちょっと杏奈ってば!」  いつもは落ち着きのある早希が、興奮した様子で駆け寄ってくる。嫌な予感がした。 「さっきのは何! めちゃくちゃびっくりしたんだけど!」  それは私が言いたい。  まさか早希に聞かれていたとは思わず、私は額を押さえて身を屈めた。 「こら早希。そんな騒いだら迷惑でしょ」  遅れてやってきた舞子が、早希を嗜めてくれる。 「えっ、何々? なにがあったの?」  けれど、時すでに遅し。早希の落ち着きない口ぶりに、愛理はしっかりと食いついてしまっていた。 「愛理、聞こえてなかったの? 杏奈ってば、男子に告白されてたんだよ! それも廊下の真ん中で!」 「何それ! 漫画みたい!」  きゃっきゃと話す二人の声で、周りのクラスメイトもわずかにざわめき立ってくる。穴があったら入りたいとはこの事だ。 「それで? 杏奈は何て答えたの?」  愛理が興味津々な顔で、私を見つめてくる。 「断ったに決まってるでしょ」 「えーっ! つまんないのー!」 「全く、そういうことを言うんじゃないの」  むくれる愛理の額に、舞子は呆れた様子でデコピンをかました。 「杏奈の家は厳しいんだから、それどころじゃないでしょ」 「あ、そっかぁ」  愛理は納得しながら、同情の眼差しを向けてくる。  そういうことじゃないんだけど、まあいいか。  少し的はずれだけど、助け船を出してくれた舞子に心の中で感謝した。 「ていうか、今年はみんな恋愛する余裕なんてないでしょうよ」  舞子が言うと、愛理の顔から一気に血の気が引いていく。そして、耳を塞いで机に倒れ込んでしまった。 「やだ! 聞きたくない!」 「数学、赤点記録更新するかな」 「わーっ!」  悪魔の囁きを、愛理は大声で掻き消そうとする。私は舞子と早希と一緒に、思わず声を上げて笑ってしまった。  この話は、これで終わりだろう。  そう思っていたのに、倉科くんは翌日から、私のもとを度々訪れるようになった。 「寺重さん、ちょっと話が……」 「ごめん、今忙しいの!」  私は彼が来るたびに当たり障りなく、しかしはっきりと断っていた。それなのにもう一週間は続いている。雑草並みのしつこさだ。  いつまで相手をすれば気が済むのだろう。昼休みなのに全く気が休まらない。  彼の存在にうんざりしていた私は、自分の席で項垂れた。舞子たちは用事で出払っている。帰ってくるまでの間存分にだらけようと決め、私は重い目蓋を閉じた。 「あー、もう疲れた」 「どうしたの? 何かあった?」 「あぁ、大丈夫。何でもな……」  次の瞬間、私は勢いよく後退りした。声を掛けてきたのが噂の張本人だったからだ。 「な、何っ? 一体何なの?」  突然だったこともあって、私は酷く取り乱してしまった。その大声に、彼は焦げ茶色のつぶらな目をさらに丸くしている。眉は程なくして八の字に曲がり、申し訳なさそうな表情に変わっていった。 「驚かせてごめん。この前のこと謝りたくてさ」 「え?」  謝るって何を? 公開告白で恥ずかしい思いをさせられたことだろうか?  私が考えている間に、彼はマイペースな動きで、背もたれを抱くようにして前の席に腰を落ち着けた。 「あの言い方じゃ誤解させたよね。あれ、告白じゃないんだ」 「はい?」  思わず顔を顰めた私に、彼は困ったような表情を浮かべる。 「初めて話したから緊張してたみたいでさ。ちょっと付き合って欲しいことがあるって話そうとしたんだ」 「あぁ、何だ、そういうこと」  私はひとまず胸を撫で下ろした。ここ数日の言動から、彼のことを粘着質で危ない人間だと思い始めていたからだ。一応、最低限の良識はあるらしい。 「それで、付き合って欲しいことって何?」  その言葉を聞くと、彼の顔はすぐさま綻んだ。取り合ってくれるようになったことが余程うれしかったらしい。素直な言動と見た目は、人懐っこい柴犬を思わせた。 「これを見て」  彼は、私の机の上に二枚の画用紙を広げた。見たところ一枚は地図のようなもので、もう一枚には何か文字が書かれていた。 「これは……?」  首を傾げる私に、彼は自信満々な様子で胸を張る。 「宝の地図!」 「……たからのちず?」  思いもよらない言葉に、私は自分の耳を疑った。頭の中にひらがなで浮かび上がった言葉を、落ち着いて漢字に変換していく。漢字に直した所で、到底男子高校生から出る言葉とは思えず、私は仰天した面持ちのまま彼を見つめた。彼はその視線に気づくことなく、意気揚々と説明を始めている。 「実はこの前、小学生の頃に埋めたタイムカプセルを掘り出したんだ。そしたら中からこれが出てきたの。町のどこかに宝が埋まってるらしくて」 「……そういえば、子どもの頃こんなの描いたかも」  驚きを残しながらも、私は努めて冷静に画用紙を手に取る。おじいちゃんが生きていた頃、彼の真似をして地図を描いたことを思い出した。時間も忘れて、画用紙と向き合っていたひととき。想像の世界と繋がっていた間、私は誰にも負けない多幸感を味わっていた。振り返れば、あの拙い手つきも、呼吸するための空気穴だったのかもしれない。  大きな画用紙いっぱいにクレヨンで描かれた地図を見て、私は懐かしさを感じた。 「見つけたのはいいんだけど、こっちの紙見て」  差し出されたもう一方の紙に目をやる。一番上に大きく「ヒント」と書かれていて、その下にいくつかの文章が書いてあった。もちろんこれがヒントなんだろう。けれど、鉛筆で書いてある文章は抽象的で、所々かすれているため正確に読むことができない。私は紙を凝視しながら首を捻った。 「何これ? どういうこと?」 「でしょ? 僕も全然分からなくてさ」  肩をすくめる彼を見て、私は勘づいた。 「えっ、まさかこれを一緒に探してほしいとか言うんじゃ……」 「そのとおり!」  彼は間髪いれずに、曇りのない笑顔で答えた。まさかの展開に困惑する。その直後、至極当然な疑問が私の頭を過った。 「ちょっと待って、何で私に頼むの?」 少しだけ眉をしかめた私に、彼は苦笑いを返す。 「初めは友だちに頼んだんだけど、断られちゃって。寺重さんは頭が良いって聞いたから、もしかしたらこの地図を解読出来るかなって思ってさ。こういう頭使うの苦手なんだよね」 「そうだったんだ……」  待てよ。  自分に声を掛けてきた理由に合点がいった後、私は一つのことに気が付いた。ついこの間のことなら、自分自身ではまだ大して考えてはいないんじゃないだろうか。  彼の他力本願な姿勢を見て、胸の中にじわじわと不快感が滲んでいく。  いや、もしかしたらそれほど困った状況なのかもしれない。私はそう思い直し、地図とヒントの紙を見返した。地図は大まかにしか書かれていないし、ヒントに至っては読むことすら出来ないので、考える以前の問題だ。私にはさっぱり分からなかった。 「ねえ、もう一つ聞かせて」  地図に目を落としながら言う。 「どうして今なの? 受験シーズンだって知ってるよね?」  真面目顔で問うと、彼は戸惑いの表情を浮かべた。 「実は小学生のときまで少し離れた町で暮らしてたんだけど、今度その地域一帯で大規模な工事が始まるんだ。今まで砂地だったところもコンクリートになるし、工事が終わった後だと見つけられないかもしれなくて……。だから、どうしても夏休み中に見つけたいんだ」  言い終えると、彼はしょんぼりと肩を落とした。口を開いたら泣き出してしまいそうなその表情に、心が激しく揺さぶられる。  その矢先、脳裏におじいちゃんたちの顔が浮かんだ。  地道に生きたほうが良いって、おじいちゃんも言ってたじゃない。  勉強を疎かにすることなんて許されない。  私は心を鬼にして、言葉を切り出した。 「ごめんね。私勉強で手一杯なの」  予想出来ない答えではなかったはずだ。それでも彼の目は、信じられないものを目の当たりにしたかのように見開いていた。裏切られたと言わんばかりの瞳に、きゅうとつねられたみたいに心が痛んだ。 「そっか、そうだよね。変なこと頼んでごめん」  彼は切ない顔で告げると、力無く立ち去っていった。  空になった席に、彼の悲しい気持ちの影が座っている。そんな気がして、私はしばらくその場を動くことが出来なかった。  それ以降、倉科くんが私のもとに来ることはなくなった。ただ、時折図書館を訪れると、彼が一生懸命地図を読み解いている姿が目に入った。クラスメイトに聞いて回っているところも見かけた。  何だ、別に私がいなくても大丈夫じゃない。  たった一人で奮闘する姿を見て、私はほんの少し寂しさを覚えていた。それと同時に、他力本願な姿勢に感じた憤りは鳴りを潜め、彼のことを少しだけ見直すようになっていた。  大事なことならすぐに人を頼るべきじゃないし、自分一人の力で頑張るべきだよね。  そう思いながらも、どこか心の隅に引っかかりがあるような気がしていた。  きっと、良心が痛んでいるだけだ。彼の表情が、捨てられた子犬のように悲しそうだったから。  私は教科書を抱える腕にぎゅっと力を込めると、自分を惑わす感情を振り払うようにその場を後にした。  けれど、その後も彼が奮闘している姿を見るたび私は足を止めてしまった。意識している訳じゃない。まるで自分の影を踏みつけられてしまったかのように、ぴたりと動かなくなってしまうのだ。  少しでも関わったことだから、最後まで見届けないと気が済まないだけ。きっとそうだ。  考えた末、自分にそう言い聞かせて、こっそりと彼の様子を見るようになった。 「杏奈、期末テストはどうだった?」  夏休みまで数えるほどとなったある日の夕方。みんなで食卓を囲みながら、お母さんは私に問いかけた。ちょうど週末の今日は、一週間ほど続いたテスト期間が終わったところだった。手ごたえを感じていた私は、迷わず口を開いた。 「問題ないと思うよ」 「さすが! これで心置きなく休めるわね!」  ここ数年、私がテストで悪い点を取ったことはない。正直いつも通りのことだけど、お母さんは毎度噛み締めるように喜んでいる。明日あたり、私の好物が夕飯に出そうなほど上機嫌だ。向かいの席に座っているお父さんも、表情が乏しいながらに「頑張ったな」と誉めてくれた。  お母さんは鼻歌交じりにお父さんのご飯をよそい終えると、突然「あっ」と動きを止めて私に振り返った。 「そういえば今年受験だけど、実家には行けそう?」  実家というのは、お母さんの生まれ育った家のことだ。お父さんの方は二人とも亡くなってしまったけれど、お母さん方のおじいちゃんたちは、隣の市にある一軒家で今も元気に暮らしている。お盆やお正月なんかの長期休暇になると、みんなで顔を見せに行くのが恒例だった。 「大丈夫だよ」  私が答えると、お母さんは安堵の表情を浮かべた。 「よかった。受験生だから無理に連れてく訳にいかないけど、おばあちゃんたちが杏奈にすごく会いたがってたからさ」  お父さんもお母さんも兄弟はいない。おじいちゃんたちにとってたった一人の孫である私は、小さい頃からとても可愛がってもらった。いつも穏やかで優しい二人の顔が浮かび、私の表情は砂糖菓子のようにほろほろと緩んだ。 「私も会いたいな」 「そう言われたら二人も喜ぶわ」  お母さんは「忘れないうちに電話入れてくるね」と席を立った。元々暗い性格ではないけれど、良いことが続いたからなのか、その足取りは軽い。  いつになく明るい背中が廊下に消えると、お父さんが折を見たように話を切り出した。 「そういえば、大学は決めたのか?」 「うん。英明大学にしようと思う」  私は自分の目指せる大学の中で、一番の難関大学の名前を上げた。お父さんは待っていましたと言わんばかりの様子で、満足そうに鼻を鳴らしている。 「油断は禁物だが、杏奈の成績なら大丈夫そうだな」  その言葉に、私の胸はぎゅっと締め付けられる。お父さんの満足そうな顔と言葉は、まるで見えない鎖のようだった。 「……落ちないように頑張るね」  一拍遅れて言葉を返す。理由の分からない胸の苦しみは、しばらく続いていた。  翌週返却されたテストは、満点に近い結果だった。けれど、私の心は不思議と乾いていた。  夏休みまで残すところ一週間。うちの学校はテストが終わると、補習のない生徒に限り、終業式まで休みになる。  しばらく雨が続く予報で外に出ることもままならず、私は先に配られた夏休みの宿題を片付けることにした。普段から勉強を欠かさない私にとっては、さして難しい問題じゃない、はずだった。 「あぁ、もう! うるさいな!」  私は勉強に集中できず、ノートに向けていた顔を勢いよく上げた。  薄暗い窓の外では、降り続ける雨が砂嵐のように唸っている。  ひと際大きな雨粒が、さも室内で降っているかのように弾けた。そんな些細な音が、じりじりと苛立ちを加速させてゆく。  いつもなら気にならないのに、どうしてこんなに集中できないんだろう。  手を止めて考えてみても、理由は一向に浮かばない。  私は思い切り頬を叩くことで、締まらない気持ちを奮い立たせると、何とか宿題を終わらせたのだった。  終業式の日。長い教師の話を聞き終えた生徒たちは、解放感に満ち溢れた顔でぞろぞろと学校を去って行く。  日直だった私は、先生に日誌を渡し終えると、誰もいない廊下を歩いて教室に向かった。 「少し遅くなっちゃったな」  部活がないと手放しで喜んだ舞子たちは、私を置いて先に帰ってしまった。待たなくていいよとは言ったものの、どことなく寂しさを感じる。  生徒の去った校内では、外で降り続く雨の音が何にも邪魔されずによく聞こえた。こうして聞くと悪くない。  雨に濡れる外の景色を眺めながら歩いていると、ふと隣のクラスに目が行った。誰かが机で突っ伏して寝ている。後ろの扉からそっと中を覗くと、寝ていたのは倉科くんだった。  こっそりと音を立てないように近づいてみる。彼は宝の地図とヒントの紙に覆い被さって寝ていた。机の上には他にも十数枚のルーズリーフが散乱し、机から落ちそうになっている。その様子に、私は小さく笑った。頭を使うことは苦手だなんて、彼はちょっと自分を過小評価していると思う。いざ取り掛かれば、馬鹿みたいに一生懸命になれる。これもひとつの才能だ。  眠りこける彼を見つめながら、私は考えた。  こういう気持ちは何て言うんだろう。驚き? 尊敬?  少し唸った後、頭の中に、憧れの二文字がふっと浮かんだ。 「えっ」  私はぎくりとして一歩後退った。真後ろにあった机にぶつかり、ガタっと音が鳴る。 「んっ……?」  倉科くんが目を覚ましてしまった。反射的に身が固くなる。途端に心臓が内側で激しく暴れ始めた。その速度は、燃料が追加され続ける蒸気機関車のごとく、瞬く間に上がっていく。 「あれ、寺重さん……?」  目をこすりながら上体を起こした彼が、私を不思議そうに見つめる。  彼の視界に映ることが苦しい。この綺麗な瞳に映る、無気力な自分を見たくない。  私は顔をしかめると、跳ね上がるようにして教室を走り出た。体の中心から押し出される熱が、自分に逃げろと訴えている気がした。 「えっ、ちょっと待って!」  彼は慌てて私の後を追ってきた。誰もいない長い廊下に、二人の足音だけが響く。  私が階段を数段飛ばして降りたその時、胸ポケットから何かが飛び出した。 「あっ!」  後方に飛んで行った物を目で追い、パッと振り返る。それはスローモーションできれいな放物線を描き、私たちの間に軽い音を立てて落ちた。私の顔は、見えない糸に引っ張られたように強ばった。 「あれ、何か落ちたよ」  階段の踊り場まで降りてきた彼は、呆然と立ち尽くす私に代わり、落ち着いた様子でそれを拾ってくれた。おじいちゃんの方位磁石だった。 「はい、これ」  彼はゆっくり近づいて、私の手にそっと方位磁石を乗せた。緊張していた私の顔は、飴が溶けるみたいに、じわじわと悲しく歪んでいった。 「……ありがとう」  放心したままの私に、柔らかい視線が注がれる。 「それ、大切なものなの?」  私は面食らった。 「どうして分かったの?」 「落としたときすごく悲しそうだったから、そうなのかなって」  ためらいがちに言う彼に、私の心は水を含んだみたいに重くなった。 「……これ、おじいちゃんからもらった物なの」  少し欠けてしまった外装が目に入り、私は切なく俯いた。横のつまみを押して蓋を開けてみる。中から覗いた星のような模様と方位のアルファベットは、執拗なまでに黒々としていて、今の私の目には痛いくらいだった。 「方位磁石?」  中を覗いた彼は、目を瞬かせて驚いているようだった。少し戸惑いつつも、私は静かに口を開いた。 「おじいちゃんは冒険家だったの。もう亡くなっちゃったけど、私、かっこいいおじいちゃんが大好きだった。小さい頃、一緒に冒険に連れて行ってってせがんだら、代わりにこれをくれたんだ。若い頃から使っていた物なんだって」  磁石を軽く横に振る。揺れが収まっても針は安定せず、ゆっくりと回り続けていた。 「元からボロだったけど、本当に壊れちゃった」  おじいちゃんから貰った、唯一の形見だったのに。  気を落とした私は、口を噤んだまま磁石を見つめた。ずっと見ていれば、いつか直るんじゃないか、なんて期待しながら。 「おじいちゃん、本当に冒険が大好きだったんだね」 「……え?」  思いもよらない言葉に顔を上げると、彼はいつも通りのお気楽そうな表情を浮かべていた。 「だってこの方位磁石、すごく使い込まれてるから」  私の手からひょいっと磁石を取ると、彼は何気ない調子でチェーンを広げ、私の首に下げてみせた。 「いつか一緒に連れて行こうって思ってくれてたんじゃないかな。自分の見た楽しい世界を分かち合いたかったんだと思う。大切な物を預けるって、きっとそういう意味だよ」  彼が優しく微笑んだ瞬間、私の中でおじいちゃんとの思い出が疾風のように駆け巡った。  大変なこと、辛いこと。冒険の途中で体験した幾多の苦難を、迫真の演技で語ったおじいちゃんは、最後に決まってこう言った。  だけど、楽しかった―――と。  そのことを思い出した途端、私の顔にありったけの熱が集まった。  何で気が付かなかったんだろう。  ついに確信に変わってしまった。私がおじいちゃんに憧れていること、今でもその夢を諦められないことが。  心の奥底にその思いを押しやったのは、他の誰でもない自分だった。おじいちゃんたちを言い訳にして、自分の気持ちから逃げていたことに気がつき、酷く恥ずかしくなる。私は、羞恥に耐えるようにぐしゃりと顔をしかめた。 「おじいちゃん、かっこいい人だね」  顔を隠した手の隙間から、倉科くんをちらりと盗み見る。沸騰したみたいに熱くなった私の顔を見て、彼は少しいたずらっぽく笑っていた。  彼に対しても、自分のことを棚に上げて説教していたことを思い出す。自分の力でやるべきだ、なんてよく大口が叩けたものだ。自分自身は大切な決断を他人に頼っていたのに。  耐え難い気持ちに駆られ、私は唇を強く噛んだ。 しばらく何も言わず顔の火照りが引くのを待っていると、次第にカッとなっていた頭も冷え、あるひとつの疑問が浮かんだ。 「名前の無い小さな星になりなさい」  この言葉を聞いてから、おじいちゃんは冒険家の道を選んだことを後悔していたんじゃないかと思っていた。でも、そんな訳はない。幼い私の目に映っていた輝くおじいちゃんの姿は、紛れもなく本物だった。  それなら、どうしておじいちゃんは自分を否定するような言葉を言ったんだろう。もしかして、自分が思っている意味とは違うのだろうか。 「僕も昔、そんなヒーローに出会ったことがあるよ」  倉科君が切り出し、私はパッと顔を上げた。彼は手すりに寄り掛かって、少し恥ずかしそうに目を伏せている。そんな姿が可愛く見えて、もっと話を聞きたくなった。 「素敵ね。どんな人だったの?」   問いかけると、彼は思い出し笑いを溢してから、ゆっくりと語り始めた。 「僕、小学生の時に家出したことがあったんだ。母さんと口喧嘩になっちゃってさ。それで、逃げ出した先で出会ったのがその人。顔も思い出せないけど、僕の話を真剣に聞いてくれる優しい人だった」  彼の笑顔がくしゃっと弾ける。 「この前見せた地図は、その人から渡されたんだ。辛いことがあったときに、この地図を開きなさい。この地図の先にあるものが君を救ってくれると思うよって」  彼の体が手すりからゆっくりと離れ、背筋が伸びる。 「僕には、地図の先にある何かが必要な気がする。だから、あの町の工事が始まる前に何としてもやり遂げたいんだ」  戸惑いの滲む、透き通った目が私を見つめる。 「今が大事な時期だっていうのは知ってる。だから、これは俺のわがままでしかないんだけど、もう一度だけ聞いてほしい」  彼は私に真っ直ぐ向き直って言った。 「僕との冒険に、付き合ってください!」  勢いよく下げられた頭を見て、私はぽかんとなった。まるで昔見た絵本の始まりみたいだ。何て心躍る言葉なんだろう。  けれど、その言葉からは痛いほどの焦りを感じた。何かに追われているように聞こえた。  その正体は分からない。でも、彼が何か問題に直面していることだけは確かだ。そして、宝探しをやり遂げたいという意思は、他の誰でもない彼自身の本心であるということも、強い眼差しから伝わってくる。  答えなんて、初めから出ていたのかもしれない。ただ、自分の中で育った歪な常識が邪魔をしていたんだろう。  ごくりと、大きな塊のような唾を飲み込む。心地よい鼓動が自分を後押ししているのが分かった。 「いいよ」  大胆な誘いに対して、あまりにもそっけない返事だっただろうか。  少し不安になった私をよそに、彼は一瞬の間を開けて勢いよく顔を上げた。 「本当っ!?」  すぐに信じられなかったらしく、彼は嘘じゃないかと言わんばかりに目を見開いていた。 「本当だって」  私は小さく笑いながら念を押した。少しばかり潤んだ彼の目に、希望の色が浮かんでいく。 「ありがとう!」  感激した彼は私の手を取り、ぶんぶんと上下に振り固い握手をした。暑さに負けず芽吹いた草花のような明るい笑顔に、私は思わず目を奪われてしまった。  彼の力になってあげたい。それに彼といれば、おじいちゃんの残した言葉の意味も分かるような気がする。  彼の後ろにある窓からは、からりと晴れあがった青空が覗いていた。  何て鮮やかなんだろう。  その眩しいコントラストは、長い眠りから私をすっかり目覚めさせた。  こうして、二人の夏休みをかけた冒険が幕を開けた。
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