揺れた空気

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揺れた空気

弥彦(やひこ)やーい!」  古ぼけた、隙間風だらけの粗末な家に人が訊ねてきてた。  村人の男性二人が少々呆れた表情でお互いの顔を見て苦笑しあっている。  男たちの声を聞いて、家の奥の扉がガタガタと大きな音をたてて開くと、少し老けて痩せているが昔は色白で美人と評判だった弥彦の母親が顔をだした。 「すまないね……息子は今日も穴にいっているよ」    息をするたびに小さな咳をする母親を見ると、男二人は丁寧に頭を下げて足早に家から離れた。 「まったく、弥彦は仕事が終わると直ぐに穴にいくんだから、せっかく今日は良い魚が捕れたというのに」  肩を並べて夕日を背にしながらお互いの家へと向かっていく。 今年も日照りが続き細い川は干上がる寸前まで来ている。  上流には未だに水源が少し残っており、そこへ行って魚を釣ってきたようだが、農作業をしたくとも肝心の水がないので思うように仕事ができない状況であった。  力と経験あるモノは山へいき、数が少なくなった山菜や木の根を見つけては、村人たちと分け合っている。    時は元徳二年(一三三〇年)の夏が始まったばかりの時期、政治を司る鎌倉では執権である高時が犬に惚けていると、このような谷の狭間にある辺境の地の小さな村にまで音が聞こえてきた。  この家の主である弥彦は、村一番の働き手でもあり知恵者でもあった。  幼いころより周囲の人々からも認められるほどの人物であるが、二年ほど前に村の近くにあった洞穴で、昔の武士が逃げ込んださいに持ち込んだ品に、奇妙な箱を見つけた。  盗賊たちに荒らされた洞穴には、持ち主を失った朽ちた品しか残っておらず、村人たちも近づかない場所であったが、興味をもった彼は一人洞窟へ忍び込み大きな岩の下に、手つかずの木箱を見つける。  その中には丁寧にしまわれた「本」が入っており、当時旅の途中で寄っていた僧侶に読み書きを習い、一人で読めるまでなっていた。    奇特な行動に村人たちは陰で笑っていたが、彼は辞めなかった。  それが今では当たり前になり、なんどもその「本」を繰り返し読んでいる。  内容は弥彦本人しか知りえない、いや、誰も興味がなかった。  お金になるわけでもなく、読むと雨雲を呼ぶような代物でもないので生きることに一生懸命な村人にとっては雑な分類にはいっていた。   「ん? もう日暮れか、帰って(かか)に飯を作ってやらねば」  洞窟へ差し込む光が薄れ、文字を読めなくなっていく。  大きく背伸びをし村に向かって歩き出した。 弥彦には妻はいない、もう嫁を貰える年齢になっていたが、弥彦自身には病気の母の感病などもあり、余裕がほとんどなく結婚を考える余裕がまるでなかった。  今日もどこかで人が死んでいる 二十歳を迎えるまえに土に埋められる人は後を絶たず、飢えと貧困だけがこの世界を支配していた。  家に戻ると、弥彦の母は床に伏しており、しきりに咳をしている。 「母、帰った。今から飯作るから」 「す、すまないね……」  今にも消えそうな声に彼は優しく微笑むと、食事の準備に取り掛かった。  灰汁の強い山菜を採取しては、母が呑み込めるようになるまで煮込むも味付けはない、ただ煮込むだけだ。  水は貴重で、毎日食べる分だけ汲むのが精一杯で農作物へは行き渡らない。   「できたぞ」    木のお椀に山菜のご飯を盛りつけ母へと持っていくと、外が異様な騒ぎをみせていた。 「ん?」 「どうかしたかい?」 「いや、なんだか」  弥彦は警戒しながら、戸を少し開け外を確認してみると、役人が数名で武装した武士に囲まれて税の取り立てにきていた。 「あいつら‼ もうここには何も残っていないのに!」    勢いよく扉を開けて飛び出しそうになる彼を母が静止をかけた。   「弥彦‼」  それを聞いた彼は、背中を震わせ血が出るほど下唇を強く噛んでいる。 「お願い……もう、私にはあなたしかいないの」  母の願いは、息子の無事だけだった。 ただ、この腐敗しかけた世界に生きる目的があるとすれば、それは己が愛した人の存在のみだけだ。  そうしている合間にも、役人たちは村人の家の中に押し入り、金目のモノを手当たり次第に巻き上げていく。  今日は五軒入られた。 近々弥彦の住む家にも押し入ってくるであろう。 「やっていることが、盗賊ではないか⁉ あいつら、なんのためにオラたちから奪う⁉ 犬のためだぞ!」  ふるふると、振るえる拳に力が籠る。 今日も人が死ぬ。 されど、止まない負の連鎖に終わりは見えなかった。
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