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僕は君との別れの時を知っている。 それは、今夜二十時だ。 彼と彼女との出会いは、去年のクリスマス。 彼はカフェの店員で、彼女は客だった。誰もが家族や恋人、友達と楽しく過ごすその日、閉店間際にふらりとやって来た彼女は酷くくたびれた様子で、纏めた髪はほつれ、スーツ姿だった。皆が笑顔の中、遅くまで仕事をしてきたのだろうと感じた彼は、「メリークリスマス、お勤めご苦労様です」と、売れ残った小さな苺のケーキとコーヒーを差し出した。 「え、まだ頼んでませんけど、」 「サービスです。疲れた時は甘い物食べたくならない?残り物で悪いけど、良かったらどうぞ」 「…ありがとう」 「ごゆっくり」 それから間もなく閉店の札を出し、二人で他愛もない話をした。彼女はこの時、彼が誰であるか知らなかったが、彼は随分前から彼女の事を認識していた。 思わず弾んだ会話、不思議と二人は惹かれ合い、出会って三ヵ月後、二人は恋人となった。 彼女は、仕事場では見せないであろう、いつもは引っ詰めている綺麗な栗色の長い髪を下ろし、ふわりと淡い色のスカートを揺らして、背の高い彼に合わせるように少し高めのヒールを履き、愛情いっぱいに彼を見上げる。彼もカフェ店員のきっちりとした服装とは違い、ゆったりとした服装を好むようで、彼自身も穏やかな人物だ。異国の血が混じった青い瞳と爽やかな面影は男前で、彼は彼女の思いを受け止めるように優しく見つめ返す。 約一年と少し、二人は共に過ごした。春は桜を見て、夏は海や花火を、秋は銀杏の並木通りを手を繋いで歩き、会えなかったクリスマスの代わりに、年を越した一月後、数日の冬休みを共に過ごし、再び迎えた春はまた桜を共に、でもそれが最後だった。 この日、彼女と会うのは、約三ヶ月振りだった。桜並木の舞い散る花びらの下で彼女の長い髪は揺れていたが、今の彼女は出会った時と同じく、髪を引っ詰めたスーツ姿に、ヒールの低いパンプスを履いている。仕事帰りのようだ。それでも、彼を見上げる瞳は愛情に溢れ、彼も優しく見つめ返していた。 今日は夏祭り、イベントの最後を飾る花火を見ようと、多くの人々が夜の街に出向き、祭りの中心である神社に向かうその道すがら、露店で夏を楽しんでいる。 そんな中、彼らはとある橋に来ていた。街の間に流れる大きな川の上に掛かる橋、そこには恋人達が集っている。夏祭りの花火会場ではないが、この橋の上からでも花火は良く見えるという。そして、花火を見上げながらこの橋で愛を誓い合うのが、ここ数年の恋人達のお決まりの過ごし方だ。それと言うのも、以前ヒットした映画にこの橋が使われており、人気役者の二人が愛を誓い合ったシーンが女子のハートを射止め、真似をするカップルが続出しているのだ。 だから、彼らもここに来た。周囲は賑やかなお祭りムードから、甘い空気一色だ。 「ふふ、こんなに楽しいの久しぶりかも」 彼女は笑って彼の手に指を絡めた。 「僕もだよ、それに久しぶりに会えて嬉しい」 「ごめんね、ずっと会えなくて」 「仕方ないよ、仕事だったんだから」 「…優しいね」 彼は空いた片腕で彼女の体を抱き寄せ、両腕で包んだ。そのままさりげなく腕時計を確認する、時刻は十九時五十五分、花火が上がるまであと少し。 君との別れまで、あと五分。 彼女は彼の背に腕を回し、頬を擦り寄せる。 「あなたは、出会った時から優しかった」 「そうかな、君は出会った時から綺麗だった」 すると、彼女は顔を起こして彼を見上げるので、微笑む唇にキスを贈れば、もう周りの騒がしさは二人には聞こえない。見つめあって、寄り添って。夏の暑さも気にならない。 「ねぇ、出会った日の事覚えてる?」 「勿論、覚えてるよ。さて店を締めようかと思ってた時に、君がふらふらになりながらやって来たんだ」 イルミネーションに照らされた川面が、時折細やかな輝きを放っている。 「それで僕は、きっと不当な労働を虐げられたんだ可哀想にって、ケーキとコーヒーを持って現れた」 「そう、それでまんまと私の心はあなたに絆されてしまった。惚れ薬でも入ってたみたいに」 ふふ、と笑いながら、彼女は彼の腰に腕を回しくっついた。 「あぁ、入れずにはいられなかった」 トン、と人波に押され、彼は少しよろめいたので、二人して笑ってしまった。 二十時まで、あと一分。 彼は一瞬躊躇いを見せたが、再び口元に弧を描く。この場で彼女の手を引いて逃げ出す事も出来るが、でも、もう決めた事だ。 彼は彼女の腰から手を放し、そっとその頬に手を触れた。 「初めて会った時から君はとても魅力的で、僕の心を離さなかったから」 愛情深い瞳が揺れ動く。それはどちらの瞳だろう。彼女は少しだけ悲しげに微笑んで目を伏せると、彼の胸に手を当てた。 「嘘つきね」
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