告解、信ずるべきもののいない世界へ

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 この狭く陰鬱とした告解部屋であなたを待つ間、神父様、私はきつく両手を組んでおりました。いえ、祈っていたのではありません。たとえようのない感情の高ぶりをなだめるために、そのために両手を組んでいたのです。ともすればこの部屋から逃げ出したくなる自分を押さえ込むために――。  *  神父様、本日はありがとうございます。  いえ、確かに告解に耳を澄ませることは神父であるあなたの責務なのでしょうが、それでも私はあなたにお礼を言いたい。  このようなことを心に秘めたままでいることには、もう耐えられそうになかったのです。  ですから今朝、あなたのその低く静かな声で告解することをほのめかされた時、私は怯えと恐れの波に息苦しさを覚えた後、確かに安堵したのです。ええ、深く深く安堵したのです。  神父様、私はまずこのことをあなたに打ち明けなくてはなりません。  私はもう神を信じておりません。  ……ああ、その長く深いため息があなたの語りたいことのすべてを物語るようです。  薄い板越しでも、実際に姿を見ていなくても、私にはあなたの様子が手に取るように分かります。  申し訳ありません、ずっとあなたの世話になってきたというのに。孤児だった私を懐に抱き、養い、学を施し、そして神の元へと続く麗しい道に招いてくださったというのに。恩をあだで返すとは、まさに私のような愚か者のためにある言葉です。これほどまでに重い罪を自ら背負うことになろうとは、私も思っておりませんでした。  ですが神父様、あなたはきっとお気づきだったのでしょうね。  私が信心を失いつつあることに、あなたはお気づきだったのでしょう?  なぜこれまで何もおっしゃらなかったのですか。  それが試練だと思われた、とでも?  ええ、確かに私も「このこと」をそのようにとらえていた時期がありました。あの頃の私は今よりも純でしたし、未来とは自分の心がけや努力次第でいかようにも変えられるものだと勘違いしておりましたから。  ああ、神父様。あなたがそうだと言っているわけではありません。私もまたあなたほどではありませんが、道を踏み外し奈落の沼に沈んだ人々を幾人も見てきましたから。だからよく知っている、そういうことなのです。そしてそういう人々の多くが、始まりは天使さながらの無垢な幼子であったということもよく知っているのです。  はい、私はうぬぼれていたのです。すべての苦難を引き受けるだけの強さを、私こそは有している、と。他の多くの平凡な人々とは違うのだ……と。  なぜなら、それだけの人生を歩んできた自負があったからです。だからこそ、すべての宿命に耐え抜くことで、己の価値を再確認できるとまで思い込むことができていたのです。  自分自身とあなた、そしてこの世界を与えたもうた神。この三つを至上のものとして額に掲げてさえいれば、私は心穏やかに暮らすことができていたのです。  そうやって人生という名の荒れ地を固く踏みしめたかったのです。  *  あなたの名を騙っていたことがあります。  あなたが週に一度本土へとお出かけになる水曜日の夜、この部屋で、私はとある女性の告解を聞いていたことがあるのです。神父様のふりをして。  いえ、最初は偶然のことでした。あの夏の日、あなたがこの部屋から出てこられた時、非常に汗をかいておられたことが気になったのです。それで私は部屋を拭き清めておこうと考え、この部屋に近づいたのです。  そちら側――神父様の入る側の部屋に足を踏み入れた瞬間、私は二つのことを思いました。  一つは非常に狭いな、ということ。こちら側よりもそちら側の方が狭く、私はあなたの日々の務めの厳しさにあらためて思いを馳せたのです。  もう一つは……そう、不敬でしょうが、私は嬉しくなったのです。ええそう、正直に申し上げますと、私はあなたに、そして神に近づいたような気持ちになったのです。  部屋の隅々を指でなでさすりながら、じわじわと興奮の熱が高まっていったことを、私は今でもはっきりと覚えています。ちりちりと焼けつくようなその熱のなんと甘美だったことか……。  いつか私もあなたのようにこの部屋で誰かの告解に耳を傾けるのだろう。そして神の名のもとに信徒に赦しを与えるようになるのだろう。そうだ、この小島で唯一の修道士である私こそが、あなたと共に暮らす唯一の私こそがそうなるべきだ。そのようなことを考えたのです。  ひどく傲慢ですよね。ええ、私にも分かっております。なぜなら神は私を正しく戒める出来事を用意なさっていた。  それが先ほど述べた女性のことです。 「神父様」  女性の第一声に、私は神の平手を両頬に受けたような衝撃を覚えました。その声には切なる思いが込められており、話し相手への深い敬慕と従順さは、私ごときが受け取るものではない真摯さに彩られていたからです。  分不相応な自分を痛切に実感しました。誇らしげだった気持ちはあっという間に霧散し、今すぐここから逃げ出したい、そして屋根裏のほの暗い自室で慢心を悔いたいと、そう心から思いました。  ですが私が動くよりも先に、女性は今私が座るこの椅子に腰を下ろしました。  朽ちたウオールナットの椅子が軋む音が板越しに響き、 「ああ、よかった……」  続けて聞こえた女性の声はため息交じりで震えていました。 「神父様がいてくださって本当によかったですわ……」  鈴のような声だ、と、その時私は思ったのです。清らかで美しい声だ、と、その時私は思ったのです。さながら神の親指と人差し指でつままれた紐の先、左右に振り子のように揺らされる金の鈴のような――そんな声だ、と。  そのたとえは天啓のように閃き――それゆえ私はその場に留まることを選んでしまったのです。  * 「実はわたくし……夫のある身で他の方に想いを寄せているのです」  もっとも言いにくいことを吐き出すと、女性は己の秘めるべき心を、顔も姿も見えない私に向かってつまることなく語っていきました。  夫との婚姻は親同士が決めた。初めて顔を見たのは結婚式当日だった。まあ、このようなことはこのあたりまでは一般的ですよね。ですが女性いわく、その夫は非常に素晴らしい人のようでした。  婚姻の日、ベールの下から盗み見た夫は非常に美しい男性だった、と。夫は自分のことをとても大切にしてくれ、年も近く話も合う、と。三人の子に恵まれ、舅や姑もよくしてくれている、と。  ではなぜあなたは夫を裏切るのか。そう問いただし善なる道を説いてやりたい衝動を、話の間中、私は際限なく感じました。ですがそのたびに口を結び直し、延々と続く女性の話に耳を傾けました。  ああ、神父様。あなたはいつもこのような醜く下世話な話を聞いているのですね。しかもこのように狭く蒸し暑い部屋で。あなたは本当に素晴らしい方だ。この島でもっとも敬われるべき人は、やはりあなただ。そうあなたへの賛美を唱えながら、私はただただ耐えたのです。  女性は一通り話し終わると、 「また来ます」  そう言って部屋を出ていきました。  *  そして一週間後。  私はあなたが出かけた水曜の夜、同じ時間にこの部屋へ足を踏み入れていました。  なぜでしょうね。ですがそうしなくてはいけないと、その時の私は思い込んでいたのです。  やはりというか、案の定とでも言うべきか。女性は同じ時間にやってきました。 「神父様。聞いてください」  こちらに身を乗り出す気配は、薄板をへだてていても感じられました。女性は今すぐにでも想いを吐き出したいと、それだけを願ってやって来たのです。それもそうです、女性ははた目には幸福な女でしかないのだから。  言葉を発することのない私にかまうことなく、女性はあの鈴の鳴るような声で、毒と背徳に満ちた話を囀(さえず)り続けました。しかもこの女性、告解をしに来たはずなのに、なんら罪の重さを実感していないようでした。何度も自分のことを「罪深い女です」と卑下してはいましたよ。ですが、罪のなんたるかも告解の意味も、真に理解してはいないようでした。  罪人の語る甘ったるい懺悔、これに相反するかのような鈴の音のような囀り――頭がくらくらして仕方がありませんでした。それでも、私は最初から最後まで黙って聞き続けました。  そしてそれは毎週続いたのです。  *  蝉の死骸が道端に転がり、海風に冷たさを感じるようになる頃には、私にも女性の心境が手に取るように分かるようになっていました。  神父様もお知りになりたいでしょう? なぜ女性が手中の幸福に盲目になり、無謀な恋に血迷ってしまったのかを。  その理由は簡単でした。  恋をしてしまった、それだけだったのです。  恋という名の病にかかってしまった――その道に無知な私でもやすやすと診断できるほどに、女性は恋にうなされていたのです。  でも、だからこそ。女性は自分の罪を自覚し、また逆に恋の熱に抗えなかったのです。  だから私は女性の話を聞き続けました。  あなたも私の判断が正しいと思うでしょう? そこが告解という場でなくとも、この女性を現実に引き戻すには思いのたけを吐き出させることが最良ですよね?  いつまでも誰にも言えずにいるからこそ、青く酸っぱい葡萄も熟れて発酵してしまうものですよね?  そうはいっても、女性の恋はなかなか冷める気配をみせませんでした。それどころか、毎週この部屋へとやってくる足音は軽やかにすらなっておりました。それもそうです、秘め事を話す相手を得たことで、女性はようやく安住の時を持てたのですから。 「あの方とどうこうなりたいなんて、そんなふしだらなことは考えておりませんの」  女性は好いている者のことを「あの方」と呼んでいました。「あの方」は自分よりも五つ年上で、体が弱く、常に自室に籠っているそうです。どうやってそんな人と出会い恋をしたのか、そのあたりは詳しく説明してはくれませんでした。ですが、会話の端々から女性の想いの強さは明らかで、もうそれ一つで話を聞く私としては十分だったのです。 「わたくしには家族がおりますし、神様のお話を信じております。ですから、あの方と結ばれることは望んでおりません。ですが心で想うだけであれば……そうであれば神様もゆるしてくださいますわよね……?」  そんなわけないだろう、そう言ってやりたかった。あなたもそう思うでしょう? そんなことばかりでした。でもいつも口を堅く結び耐えましたとも。忍耐を学ぶために座っているように錯覚できるほど、辛抱ならない時間でした。  ですが女性の声の美しさはそれとは別でした。それはもう格別に美しい声だったのです。耳に言の葉が触れたとたん、直接心をくすぐってくる声――そこには人ならざる神秘性、希少性すら感じられました。修道士の生活は娯楽とは無縁ですから、この時間が格別のものになっていったのも仕方のないことだと……そうあの頃の自分を庇ってやってもいいでしょうか? 「神父様。わたくしは愛することの意味をあの方を通してようやく知りました」  女性は話の終盤には決まって愛の賛歌を唱えるのでした。 「何者にも代えがたいこの気持ち……愛……。ああ、愛するって素晴らしいことですのね。神様のおっしゃるとおりですわ……。毎日が特別な一日になりましたし、些細に思っていたすべてのことに感謝の念が堪えません」  あれほどまでに強く愛を賛美した人を、後にも先にも、私はその女性しか知りません。  そして女性は、最後には決まってこう締めくくるのでした。 「神様……。わたくしにこの生を与えてくださってありがとうございます」  真実そう思っていることは、声に含まれる艶めき具合で分かりました。うっとりとした表情で胸元にかけられたクロスに唇を寄せている女性の姿が……なぜか想像できました。  この時の声が、私はもっとも好きでした。  *  ですがそのような背徳の日々は一年で終焉を迎えました。  私も、そして女性も思いもよらぬ形で。  その日もひどく蒸し暑く、薄板越しの女性は暑さにも現実にも強い疲労を感じているようでした。 「……神父様。わたくしの恋するあの方は先日亡くなりました」  もうその頃には、女性にも、女性の恋する相手にも、私は親近感を覚えていましたから、その突然の悲報に強い驚きを覚えました。そしてこの小島で最近亡くなった人といえば――それが誰かは聞かずとも分かりました。ですがここでは言いますまい。  驚愕によって私は大きく息を吐いてしまいました。つられたのでしょう、女性がすすり泣き出しました。静かな慟哭は、それゆえに痛いほどの悲しみを伝えました。 「神父様、どうかあの方のために祈ってください。あの方が天国で幸せに暮らせますように、と……」  それと、と、女性は続けました。 「わたくしのためにも祈ってください。わたくしは今夜、あの方のあとを追います。無事天国に、あの方の元へたどり着くように祈ってください」  それを聞くや――私はとうとう禁を犯しました。  告解を聞く側は説教をしてはならない。ただ話を聞かなくてはならない。そのために相づちをうったり続きを促すことはあっても、聞く側は説教をしてはならない。  ですが私はとうとう言葉を発してしまいました。 「……それは無理です」 「どうしてですの?」  女性は私が神父様でないことには気づいていないようでした。 「どうしてですの? どうして祈ってくださらないのです?」  ただそればかりを必死で言いつのったのです。  応じる私はひどく冷静でした。 「自ら命を絶つ者には天国の扉は開きません。聖書にもそのように書いてあるではないですか」 「では……ではわたくしはどうすればいいのですか。あの方がいなくなり、わたくしは一切の光を失いました。光なしで、暗闇の中で……人はどうやって生活することができましょう」 「あなたは何か勘違いをなされているようだ」 「勘違い……?」 「ええ。この世を照らすもっとも尊い光とは神です。その光の前では何物もかないはしません」 「で、ですが」  なおも食い下がろうとする女性に、私ははっきりと言ってやりました。 「寿命を全うするのです。あの方への恋心を捨てろとは言いません。終生をかけてあの方の魂の平穏を祈りなさい。それ以外に道はありません」  それが私にできる最大限の譲歩でした。 「そんな……」  なおも抵抗する女性に、私はより厳しく説きました。 「あなたは肉体がなければ愛せないのですか。そのようなものは愛ではありません。私は神に愛を捧げています。ですが神は私達人間には姿を見せることはありません。神は見るものではないのです。心で感じるものなのです。神の思想も、気配も。どれも万物から感じ取ることができるはずですよ。愛も同じです。あなたにとっての愛もそういうものであるべきでしょう?」  私にできること、それは女性の自死をあきらめさせることだけでした。女性の恋する「あの方」の正体が分かれば、女性自身の正体も確信できていましたから。確かに女性には誰もがうらやむ夫がいて、その夫との間には三人の子供がおりました。上は十歳、下は三歳の愛くるしい子供達が。  週に一度、日曜日、教会に集う信者の中に、私は女性とその家族を見てきました。  だからどうしても――女性の自死を阻止しなくてはならなかった。 「愛とは……そうあるべきものなのですか……?」  鈴のような女性の声は、どんな風を受けてそよいでもこうは鳴らないと思うほど弱々しく、そして頼りないものに変貌していました。その声の中には、もう恋のきらめきは聴こえませんでした。現実の世界で一言二言声を交わす時の声と同質のものに成り下がっていました。ですが、 「ええ。あなたの愛がそれほどまでに純で尊いものであるならば」  彼女の声の変化にこそ、私は自らが放った言葉の力を確信できたのです。 「ですから祈るのです。あの方のために、そしてあなた自身のために。神への愛をよく知ることで、あなたのあの方への愛もより確かなものになるでしょう。美しく輝くでしょう。その時きっと、心の曇りも取り払われます。光が差し込みます」  長い沈黙の後、女性は席を立ちました。 「ありがとうございました」  それだけを言い去っていきました。  *  それから女性はこの部屋に来なくなりました。  私もしばらくは同じ曜日の同じ時間帯に待ってみたのですが、待つという行為に嫌気がさして足を向けるのをやめてしまいました。  ただその代わりに、日曜日の朝、私は女性の姿を盗み見るようになりました。  家族の一番後ろからそっと現れる女性は、他の女性同様、白いレースのベールで顔を覆いよく見えませんでした。ですが歩き方や肩の落とし方から、いつまでも心が浮上しない様子は見て取れました。あなたが聖書の一節について語っている間も、女性はどこか上の空で神の像を見つめていました。  いったいいつになったら女性は現実を正しく見るようになるのか。神への愛を理解できるようになるのか。正直、当時の私は苛立たしく思っておりました。  せっかく生を継続できているというのに。  素晴らしい家族に囲まれているというのに。  ほら、あなたの夫は逞しく頼りがいがあるだろう。あなたの子供達は皆あなたのことを慕っているではないか。それらはどれもがかけがえのないものなのだ。誰もが当たり前のことのように享受できるものではないのだ。  そのどれもが奇跡なのだ――。  それなのになぜあなたは見ようとしない。  なぜあなたは、あなたの幸福に気づこうとしない。  女性の姿を見るたびに、そのように内心では女性を罵っていたのです。  ですがこうも信じていました。  神は我々のことを慈悲深く見守ってくださっている。神の姿は見えないし神の声は聴こえない。だが神はいる。神はこの世界で起こることのつぶさを理解している。だからきっとこの迷える子羊のことも知っている。  ならば神は動くだろう。  女性のために、そして一切の罪のない女性の家族のために。  なんらかの方法で救いの道を与えるだろう。  そう信じておりました。  この家族は非常に敬虔な信者でしたから、余計にそう思えていたのです。  *  ですが女性は結局自死を選びました。  ああ、その知らせを聞いた時、私がどれほど悲嘆にくれたか、あなたは知らなかったでしょう。  その数日前、深夜に、女性は神の像の前におりました。ひざまずき祈りを捧げておりました。はかなげな蝋燭一本の灯りを頼りに、膝を折り、両手を組み目を閉じ祈る様は――まるで聖者のようでした。神の戯れで揺らされる小さな鈴ではなく、一人の立派な聖者のようでした。  その日は奇しくも水曜日でした。ああ、偶然ではないのでしょうね。女性は告解をしたくてやって来たのでしょう。でも告解部屋には誰もおらず、それで神に祈りを捧げることを選択したのでしょう。  真夜中の訪問者、しかも想い人を失った女性の存在に、通りかかっただけではあったのですが、やはり気になり、私はしばらく物陰で様子を伺いました。女性の桜桃のような唇から紡がれる祈りの言葉は、距離が離れているのによく聴こえました。高く澄んだ声にあの鈴のような清らかな音が聴こえたのも、私の足をそこに留まらせる効果がありました。  その夜、女性は印象的な言葉を神に向かっていくつも投げかけていました。それらは祈りというよりも――問いかけでした。そう、神への問いかけだったのです。  そのうち今でも覚えていることを、ぜひあなたにも聞いていただきたい。  **  人は何のために生まれるのですか。  天の国で幸せになるためですか。  そのためには現世では労苦に耐えるほかないのですか。  なぜわたくしはこの恋を捨てられないのでしょう。  なぜわたくしはあの方に恋してしまったのでしょう。  あなたがわたくしにこの恋を授けた理由はなんだったのでしょう……。  なぜわたくしは神様の説く道を歩くだけでは満たされないのでしょうか。  このようなわたくしはどこかおかしいのでしょうか。  この恋が生まれた理由を……どうか教えてください……。  教えてください……。  ああ、神様……。  愛をとなえるあなた自身は心から満たされているのでしょうね。  あなたは今、幸せなのですよね……?  少なくとも……あなたは幸せなのですよね?  **    葬儀中、女性の家族は誰もが悲痛な面持ちでした。子供達は慟哭し、子供達を抱きしめる夫は唇をぐっと噛み締めて耐え忍んでおりました。女性は遺書を残していなかったようで、心が弱って衝動的にそのような行為に至ったのだと、不慮の死だったのだと、誰もがそう信じているようでした。  皆の前で別れの言葉を紡ぎつつ、私はそっと横目で女性の死に顔を覗きました。きっと苦しんで死んだのだろう、そう決めつけて。でなければこの世の真理とも、女性の家族の悲嘆とも、比類なき私の喪失感とも――何もかもと釣り合いが取れない。たとえ女性の恋が受動的な病だったとしても、それでも、女性は苦悩を感じながら死んでいなくてはならない。  ですが、箱の中で眠る女性は非常に健やかな面持ちでした。  幸福にまどろんでいるようでした。  それは私の予想を大きく裏切るものでした。 『あなたは今、幸せなのですよね……?』 『少なくとも……あなたは幸せなのですよね?』  純朴な問いかけが、その時、確かに聴こえました。  かつてのように喜びに震える女性の声が――確かに聴こえたのです。    その瞬間、私は神への信心を失ったのです。  *  神父様、話を聞いてくださってありがとうございました。  長い間お世話になりました。  ――これからどこに行くのか、ですって?  信ずるべきもののない世界へ行きます。  私は信ずるべきもののない世界へ行きたいと願っております。  ……あの女性は神を信じすぎました。  信じすぎてしまったのです。    だから神の幸福を確認したとたん、自らの不幸を受け入れてしまった。天の国への道を放棄し、恋するあの方との再会をあきらめたのです。そして現世での幸福を再考する必然性すら失ってしまったのです。  すべては神のために――。  神を信じすぎてしまったために――。  ですがそれもすべてまた、私が招いたことなのです。  私が神を信じすぎてしまったために。  神の説く道を歩むことを、あの女性に強要したがために。   ああもう、いやです。  いやなんです……。  信ずるべきものがあるせいで喜びに添えないこの世に、どうして未練などありましょうか……。  信ずるべきものがあるせいで他者の命を奪ってしまった私が、どうしてここで平然と暮らし続けることができましょう……。  神父様。私が自分自身の幸福を掴みましたら、きっとあなたにお知らせします。手紙を出します。本当は終生をあなたのそばで仕えたかった……。何も考えずあなたのおそばにいたかった……。  ああ、泣かないでください……。  大丈夫、私は必ず幸せになりますから。  幸せとは何か、それを知るために旅立つのですから……。
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