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第二話 波風
爽やかな初夏の午後。
美しく軽やかな鳥の囀りが、其処此処から聞こえていた。
一際高い鳴き声の方へガゼボで休んでいるヴィクトワールの顔が向く。
丁度、庭園の草花の間を抜けた風が、涼やかな音を立てながら渡ってきた。
顔や体を優しくひと撫でした風は、ヴィクトワールの憂鬱を少しだけ奪って、替わりに花の香りが仄かに混ざった夏草の芳香を置いていく。
心地良さと残った憂鬱。2つの理由から溜息が漏れた。
夫に与えられた衝撃で心が砕け散りそうになるのを必死で堪えて夜を越えた。
今日は朝から領主夫人の仕事に着手して休みなく働き、今はその小休止。
暫く城でゆったり過ごすようにとリシャールには言われていたが、ヴィクトワールの今の立場でのんびり過ごすことは出来なかった。
蓋を開けてみれば、女主人不在のまま長く廻っていたこの城のやり方は独特で変えねばならぬことは多い。
けれど変革には大抵反発が起きるものだ。元より簡単には行くとは思ってなかったが状況が悪かった。
ただでさえ反感を抱かせないよう物事を慎重に進める必要があるというのに、折悪しく使用人達の間で愛人に対して同情的な空気があるという。
心からの敬意と歓迎を見せているのは料理長くらいだ。やり難いことこの上ない。
問題は山積みだった。まずは居心地の悪いこの城を早く掌握しなくてはと気は焦るばかり。
実際のところ焦って上手く行く試しもなく、良い考えも生まれない。精神的に疲弊しているヴィクトワールには短時間でも心を休めて気分転換をする必要があった。
今の城内では到底寛いだ気分にならず、味方が少なく馴染みのない城から僅かでも離れて心を休めたかった。
結婚にあたり手を入れたという庭園を見たいからと理由をつけて、ここへ来た。
この場に居るのは実家から連れてきた侍女たちだけ。その安心感がヴィクトワールから身体の強張りを解いていった。
また出てしまう溜息。今度は身体の疲れを含ませて。
景色を見るヴィクトワールの目は遠くなる。
初夏特有のどこまでも澄んだ空の青。
物の輪郭を光らせている午後の日差し。
焼き付いたように出来た影。
葉ずれの音、夏の始まりの匂い。
鳥が歌い、蝶が舞っていた。
ガゼボが作る日陰から美しい庭園をぼんやり眺めていると、これまでの出来事が夢だったように思えてくる。
王都から遠く離れた土地に嫁いだことも。
昨晩初めて入った夫婦の寝室で起きた全ても。
朝食室でリシャールと演じた芝居のことも――。
*
閨事に貴賤なし。
初夜を過ごす若い男女だ。当然、起床は遅いだろうと城内の誰もが思っていた。
ゆったりと朝を過ごそうとしていた下級使用人たちは、侍従と侍女のそれぞれから領主夫妻の起床を告げられて慌てに慌てた。
大混乱の下級使用人たちを叱責し、てきぱきと指示を出した上級使用人たちも内心激しく動揺していた。
朝食室で主人達を待つ間、誰からともなく目配せをして口に出せない懸念を伝え合う。
(これは初夜が不首尾に終わってやしないか。)
(もしや、城に住まわせたあの子の存在を打ち明けてしまったのではあるまいか。)
(まさか。よりによって初夜に。)
愛人カトリーヌ。リシャールが爵位を継ぐ夢さえ見れない時代から愛おしんできた恋人は領民たちにも愛される鍛冶屋の娘。
彼女が領民に愛されるのには理由があった。
カトリーヌは小さい頃から日曜日の礼拝で欠かさず歌い、信心深い領民たちの心を慰めてきた。
慈雨の如き神の無償の愛を。人から神への絶えぬ敬愛を。古から意味を変えない聖なる歌をカトリーヌはその声で歌った。
これまで司祭は何度か変わったが、就任した司祭達は例外なくカトリーヌに特別目をかけた。
今の司祭はこの領地に配属されて六年になる。彼は一番多感だった時期のカトリーヌをそば近くで見守った。
だから爵位を継いだリシャールに強く望まれて日陰者になる道を選んだと聞いたとき、神からの祝福は得られないと司祭は必死で思いとどまるよう説得を試みた。
けれどカトリーヌの決意は固く、これまでのような関係で居られなくなることを承知で、彼女は辛くとも恋人を愛し続けることを決めたという。
ラングロア領は領民も一致団結して国境を守ってきた長い歴史を持っている。領主の不利益になる情報を漏らす不忠義者は、今もこの領内にはいない。
鍛冶屋の娘と領主三男との身分違いの恋は有名で、領内の者なら誰でも知っていた。表立って応援は出来ないが、陰ながら支えたいと思う者は多い。
そんな理由から愛人カトリーヌの存在は、領主の身辺を探る領外から来る者達から自然に隠された。
そうは言っても、さすがに同じ城内で暮らせば到底隠し切れるものではない。
もしも、主がそれを見越して新妻に全てを暴露していたら、自分たちはこれからどのように振る舞えばよいのか。
上級使用人達が、そんな風に気を揉んでいたところへリシャールが新妻を伴って悠然と現れたものだから、彼らは大層度肝を抜かれた。
「こ、これは旦那様! 奥様も……おはようございます。……良い朝でございますね」
驚きを完璧には隠せないまま仲良く連れ立った辺境伯夫妻に朝の挨拶をする。
衝撃から素早く立ち直った執事がやんわりと探りを入れた。
「今朝はお二方とも思いのほか早いお目覚めで。お疲れは取れましたでしょうか」
妻の椅子を恭しく引いていたリシャールは、執事の言葉の含みに気がついて軽く笑う。
「なんだ。様子が変だと思ったら、お前達は昨晩のことを気にしているのか」
そうだと馬鹿正直に言えるわけもない。執事は慌てて否定してみせる。
「いいえ! とんでもないことです。決してそのようなつもりでは」
取り繕った表情を出さないように苦心しながら、実はお詫び申し上げることがあると言って執事は進み出る。
「申し訳ございません。本日のお目覚めは遅いと私どもは考えておりましたもので、少々朝食の支度に遅れが……。お待たせしてはいけないと献立の変更を指示したのですが――」
普通の朝食なら急げば間に合っただろうが、執事の指示を料理長は断固として拒否した。知れば誰しも納得する理由はあった。
ジラール王が領主があげた素晴らしい戦果に見合う褒美として王弟グディエ公爵のご令嬢を花嫁と決めた。
この知らせは料理長を心底震え上がらせた。
二国の王家の貴い血を受け継ぐ、とんでもない資産家のご令嬢だ。口が肥えてるに決まっている。
恐ろしいことに、ご令嬢の舌と胃袋を満足させる大役をこれから自分が担うことになるのだ。
料理長は裸足で逃げ出したい気持ちを抑えて、この一年必死に腕を磨いた。
名実ともに主人の妻となった特別な日の朝に辺境伯夫人が口にするのは自分が提供する初めての朝食だ。
さばけた村娘とは違う。夫人になるご令嬢は初めての夜を過ごしお疲れになるだろう。
もしかしたら朝食ではなく昼食になってしまうかもしれないが、食べやすく舌も目にも美味しく心に残るものを出そうと、料理長は何ヵ月も前から構想を練り試作を繰り返した。
準備は抜かりなく整えてある。今さら間に合わせのものなど出せないと言うのだ。
「それなら仕方がないが、きみは大丈夫?」
立ったまま椅子の背越しに伺うと、座ったままリシャールを見上げたヴィクトワールは当然了承する。
「わたくしの為なのでしょう? もちろん待てますわ」
リシャールは向かいの席に座ると、事前の打ち合わせ通り使用人達の予想を裏切ることになった理由を説明し始めた。
「要らぬ心配をさせたくないから言うが、実は――」
昨夜、ヴィクトワールが余りにも緊張していたのでブランデーを少し飲ませた。それで緊張が解れたのか、少しづつ打ち解けた様子を見せてくれ話も弾んだ。思ったより長い時間話し込んでしまったと気付いた頃には、隣のヴィクトワールは既に眠りに落ちており、領地までの移動と緊張で疲れているのだろうとそのまま寝かせたと――。
ヴィクトワールが立てた筋書きだった。
初夜に何もなかったことは、情事の痕跡のない寝室を見ればすぐに知れてしまう。
この事実は下世話な憶測が混じった噂となって階下の使用人たちに、そして領内に静かに拡がり、新しい女主人の首をジワジワ締めてくるまでが容易く想像出来る。
情報は手の中で制御する必要がある。
偽りもハッタリも騙りも下々の専売ではない。貴族こそが使う手だ。上品にいとも優雅にされるので同じものだと認識されにくいだけ。
息をするように嘘を吐く術は、高貴なる令嬢だったヴィクトワールにも当然身についていた。
けれど社交に慣れきった貴族と武人は違う。平然と嘘など付けないだろう。
不自然な態度、棒読みの台詞だったとしても、夫は照れているだけだと言ってヴィクトワールは助けてやるつもりだった。
ところが、この朝食室で下手な芝居を見ることになると思っていたヴィクトワールをリシャールはこの局面で良い意味で裏切った。
上級使用人達の視線が注がれる中、リシャールは目を泳がせることも、話に詰まることも、声が上ずることもなく、ごく自然な口調で話し終えた。
武人の夫にお株を奪われたままで居るわけにはいかない。
次は社交に慣れきった典型的な貴族であるヴィクトワールの番だった。
勿論、夫に引けを取らない演技力を披露した。
恥ずかしそうにやや俯きながらヴィクトワールは少し恨めしそうな顔を作って夫を見る。
「気付けば朝なんですもの。酷くバツの悪い思いを致しましたわ。起こしてくだされば良かったのに」
リシャールは困り顔で緩く首を横に振る。まるでヴィクトワールが我が儘を言ってるように。
「あの安らか寝顔を見たら誰も起こせないよ」
思ってもみないことを言われて、ヴィクトワールの頬は羞恥で朱が差す。
明け方まで続いた話し合いのあと、主寝室にリシャールを残し、ヴィクトワールだけ私室の寝台で休んだのだから、寝顔なんて見ているはずがない。
頬を染めているヴィクトワールを微笑ましげに眺めたリシャールは尚も言う。
「ラングロア領は、きみにとって初めての場所だ。3日間の移動も体の負担だったんだろう。無理をして体調を崩してもいけない。実家に居るようにゆったり過ごしてくれ」
そう言って穏やかに微笑むリシャールからは年上の男の余裕すら感じられた。そこには昨夜の惨めさは欠片もない。
喉に何か引っかかったような違和感を覚える。
ヴィクトワールはそこへ意識を完全に向ける前に笑顔を返した。
「まあ、嬉しい。そんな風にお気遣いいただけるなんて」
にこり、にこりと微笑み合っている間に、料理長の気合いが感じられる豪勢な朝食が次々と運ばれて来た。
使用人たちの目にどう映るかを気にして内心緊張感でいっぱいだったが、二人は談笑を挟みながらのゆったりした食事を楽しんだ――ように装った。
そもそも二人は恋愛関係でもなく、体を交わした訳でもない。今はまだ甘い空気がないのも当たり前のことと、そこに使用人たちの疑問は生じない。
かろうじて一晩寝台の上で語り合った設定の通り、打ち解けあった空気は充分作り出せた。きっと意図しなくても、そんな雰囲気は出ただろう。なにせ深刻な秘密の共有をし、共犯の仲だ。
綺麗になった皿を前にナフキンで口元を抑えているヴィクトワールを見て、リシャールは安心した様子のリシャールは穏やかに笑む。
「よかった。きみの口にあったようだね」
ヴィクトワールは内心の腹立たしさを堪えて品良く微笑み返す。
明け方まで重い話をしていた。食欲などある訳がない。使用人に勘ぐられたくなくて無理に食べたのだ。
「わたくしの好みに合わせてくれたようですわ。美味しゅうございました」
ゆったり両手を組んだヴィクトワールは、うっとりと溜息を吐いてみせる。
「辺境伯夫人としての始まりの朝をこんな風に迎えることができるなんて。生涯忘れられない記念になりましたわ」
それを聞いた夫のリシャールは満足そうな表情でうなずいた。
「喜んでもらえて、わたしも嬉しいよ」
どんな気持ちでこの台詞を言ったのかヴィクトワールには読めない。
リシャールは傍に控える執事を振り返り、にやりと笑う。
「ボウマンが聞いたら泣いて喜ぶだろうな」
執事は生真面目な料理長を思い浮かべて神妙な顔で相槌を打った。
「――まこと、さようで」
※
胸が悪くなりそうな芝居だった。
生涯足を運ぶこともないような安い劇場で行われる芝居はきっとこんなだろう。
ヴィクトワールは自分の身が安く落ちたような気がして嫌悪で肌が泡立ってしまう。
悪いことにこの芝居は彼女がラングロア辺境伯夫人である間はずっと続く。
これがヴィクトワールの偽りで固めた歪な結婚生活の記念すべき始まりだった。
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