第二話 波風 2

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第二話 波風 2

 ガーデンテーブルに両肘を着き、組み合わせた手に軽く顎を乗せて目を閉じる貴婦人。幸せな夢の世界を漂っているように見える。  胸の内を荒れた暗い海のように激しく波立たせているなんて誰が気づくだろう。  愛人との関係継続を望む夫の考えが変わらぬ限り、この領地でヴィクトワールの心が凪ぐ日は来ない。 *  誰かに激しく心乱されるのは初めてのことではない。一年前ジラール王が『美しい姪のお前に国一番の夫をやろう』と言って唐突に婚約白紙と新たな婚約を命じてきたときも。その後、婚約者ではなくなったレナールが深夜バルコニーに現れたときにも胸を大きく掻き乱れされた。  そして、その出来事はヴィクトワールの心に小さくない傷と幾つかの教訓を残した。  ――1年前。あの日の夜は新月で闇が深かった。  一人寝台に横たわっていたヴィクトワールは窓に固いものが小さく当たる微かな音を耳にした。耳を澄ませても控え室から侍女が現れる気配はない。寝返りを打って一瞬ハンドベルに目をやる。もう一度コツリと控えめな音が聞こえると、ヴィクトワールは呼び鈴は鳴らさずに寝台から抜け出した。  そうして恐る恐るカーテンを開けて、バルコニーに立つ悲壮な顔の元婚約者を見つけた。咄嗟に叫び出さない為に口を両手で押さえる。  吐き出し窓をそろりと開けて周囲を伺う。誰もいないことを確認すると、ノックをする形で握られたままの手を素早く掴んだ。そのまま部屋に引き入れて、入り口から死角になる部屋の隅まで連れていく。部屋を少し覗いた位なら気付かれまい。気掛かりが一つ無くなりヴィクトワールの心拍も少し落ち着き始める。  言いたいことが溢れて口の中でせめぎ合うも、 まずは初めに問うべき言葉をかけた。 「なぜ、こちらに?」  ギリギリ届く極限まで押さえ込んだ細い声が疑問を投げ掛ける。  レナールは何から話したらいいのか迷ってしまい、すぐに返答出来ない。  応えが返る気配がなく、ヴィクトワールは躊躇いつつ口を開く。  この事がジラール王の耳に入れば顔に泥を塗られたと怒り狂い、グディエ公爵も娘の不名誉になる行動をとったレナールを決して許すまい。  彼らは等しく仇なす者に容赦無い。最悪な展開は二人で手を組み共通の相手に制裁を与えること。  今回は悪いことに、その可能性が高い。だから誰かに見られる前に、すぐここを立ち去るべきだ。  ヴィクトワールは小声で懸命に説得する。  王家から内々にされた新辺境伯への褒賞の打診は快諾され、二人の婚約は王命により強制的に白紙に戻された。それに伴い発生する損害は王家が賠償すると決まっている。  だがラングラン公爵家は感情的な面を抜きにしても将来設計をヴィクトワール込みで描いてきた。失うものが多過ぎて損害賠償だけでは納得できない。婚約白紙撤回を求め、ジラール王への謁見を何度も申し入れているという。  窓から離れたサイドテーブルの僅かな灯りの中でもレナールの目の下に出来た黒い陰が分かる。見る者全てが痛ましいと感じられる程にレナールは憔悴していた。  元来レナールに後先考えない大胆な行動を取れるような向こう見ずさはない。けれどレナールはヴィクトワールが国中の貴族たちの前で国を救った英雄に褒賞として差し出されると知ってしまった。  彼が今ここに居るのは、婚約解消の理由が他の男に与えるためと知り、生じた憤りが王と王弟の怒りを買う恐怖より勝った結果だった。  レナールはヴィクトワールをきつく抱き締めることで帰るつもりが無いことを行動で示す。仲を裂かれたことを嘆きながら覗き見た彼女の目が自分ほど悲しみを湛えていないことに気づくと、それを静かに詰った。 「君は平気なのか」  ヴィクトワールは悲しみも喪失による痛みも感じていたが、口に出しても意味がないと知っていた。それに身内だから分かる。彼らの考えを変えることは出来ないと。  既に知っていたと思しき伯母の王妃や両親の公爵夫妻から意思確認もされていない。娘として姪として充分に愛されていても、所詮ヴィクトワールは政治の駒なのだ。 「嘆いても、この決定は覆りません」  なぜなら王妃もグディエ公爵夫人も新しい縁組に否やを唱えなかった。それは次期公爵夫人になるより辺境伯夫人となった方が、国や領地により多くの利益を齎し、王家とグディエ公爵家の更なる繁栄に繋がると二人が判断したということだった。  ヴァングラースの二人が動かないのなら、今のヴィクトワールに出来ることはない。教えを受けていても未婚の身では体現する術はない。それは優れた剣術や戦術を学んでいても剣や軍隊を与えられていないのと同じだった。  もうこうなっては幾ら嘆こうと詰られようとレナールは将来自分の夫と名乗れない。分かりきっている事を言葉にするのは虚しすぎる。ヴィクトワールは腕の囲いの中から氷雨のような感情を浴びせかけられるに甘んじた。  恨み言を聞かせても腕の中の女は無反応。焦れたレナールはヴィクトワールの体を揺する。 「お願いだ。何か言ってくれ」  望まれている言葉を掛けることは出来ず、ヴィクトワールは苦しげに答えた。 「女は――未婚のうちは父親に従います。結婚すれば夫に。そして王から命じがあれば貴族として従います。――今回のように」  至極真っ当な答えにレナールは返答が出来ず言葉を詰まらせてしまう。  その動揺を気遣わしげに見ながらヴィクトワールは続ける。 「今のわたくしに出来ることは、貴族の責務を果たし、与えられた場所で継承したものを胸に、誇り高く生きていくことだけです」  重ねられた正論はレナールを項垂れさせた。  レナールも長く受け継がれてきた名を背負う重さは身を持って知っていて、公爵家嫡男としての責任も誇りも持っている。それは個人的な愛の為に捨て去ることは出来ない重いもので、爵位を継ぎ、次の嫡男を育て、爵位を譲るその日まで家名を背負い領地を守るのだと生まれてから叩き込まれてきたレナールの使命だった。    ヴィクトワールは元婚約者の冷静さを僅か取り戻した。腕の囲いが外れることこそなかったが、ふわりと緩んで心身拘束される息苦しさから開放される。けれど安堵のため息を吐くには早過ぎた。  帰るべきだと理性が諭すもレナールの心はそれに強く抗った。生涯変わらぬ愛を捧げると決めていた女だ。男として、どうしても手放し難い。決定的に物事が覆らなくなるギリギリまでレナールは足掻いていたかった。  それに違えた道を行く強い覚悟がある顔をしながらもヴィクトワールの目にはレナールへの思慕と気遣いが見える。もう婚約者ではないはずのレナールの抱擁にも抵抗を見せていない。そのことも余計この哀れな男を惑わせた。  互いの沈黙による静寂が訪れる。  布越しに感じるコルセットをしていない柔らかく女性らしい身体へレナールの意識が行く。  『これは大聖堂でヴェールをあげる日に自分のものになるはずだった』と胸の奥深くから囁きがある。自分の代わりにヴェールをあげることになるリシャール・ラングロアの顔が浮かぶと、口惜しさも極まって秀麗な顔は歪んでいった。  更に仄暗い欲望に満ちた心の声が『自分以外の誰の元へも嫁げないようにする方法はある』とリシャールを唆せば、声に応じるように思考がここから寝台までの歩数のあたりをつける。  背中に回っていた手が腰に下り、ヴィクトワールの腰を強く引き寄せたのは無意識の行動だった。 「レナール様?」  それを訝しく思ったヴィクトワールは小声で呼び掛けるが返答はない。  今夜、彼女を自分のものにする。とても良い考えのように思えてきた。償いなら生涯をかけてすればいい。一生傍に居て良い理由にもなると、夜の深い闇と温い湿気がレナールから正気を少しずつ削り取っていく。  事が成った後に付けられる重い手枷足枷。それに続く鎖の先はヴィクトワールが持ってくれる。  想像した罪の重さは心地好く、レナールは気分が良かった。  一方ヴィクトワールは顔を伏せて掛ける言葉に悩んでいた。  いつも沈着冷静なレナールが自分の感情で膨れて割れる一歩手前。そんな危うい様子の男を刺激したくない。  けれど時既に遅く、肌は不穏な気配を察知する。皮膚表面に微かな痛みを与えてヴィクトワールに警告を発していた。  レナールの乱れ始めた息遣いを髪に感じて、顔を上げたヴィクトワールは見てしまう。暗く陰った獣性を含む瞳が光るのを。  緊張で息が止まる。見たことを後悔しつつ目線を下げると、同時にごくりとレナールの喉が鳴る。  喉仏が上下するのが見えた。  ヴィクトワールは賢明にも悲鳴をあげたり、拒絶の言葉を吐いたり、腕の囲いから無理に逃れることもしなかった。ただ、レナールの腕の中の強張った身体が浅ましい考えを覚ったと如実に語っていた。  獲物を逃がすまいという本能がレナールを素早く突き動かしたので、瞬きする間もなくヴィクトワールの立っていた場所は壁際に変えられた。  壁と肉厚な体に挟まれた暗く狭い空間にはレナールの香り。以前ヴィクトワールが調香師に指示して作らせたものだった。  今は彼自身の匂いと興奮状態の雄の匂いとが混ざって濃く薫る。  軽く曲げられた右手の人差し指がヴィクトワールの頬をするりと撫であげる。  熱に当てられまいと身を固くしたままヴィクトワールは懸命に言葉を探す。闇落ちしかけている男の胸に届く一条の光になり得る言葉を。そして、その言葉は叶わぬ希望を植え付けるものであってはいけなかった。  忙しく思考を走らせる中、レナールの指は顔の輪郭を辿ってヴィクトワールの顎先で止まる。  この先を許せばレナールは濁流のようにヴィクトワールを飲み込んで本懐を遂げるまできっと止まらない。  そんな男の生理など知らぬヴィクトワールも超えてはならない線の間近までレナールがにじり寄っているのは感じていた。  こくりと唾を飲み込み喉を湿らせる。 「初めてお目にかかった時からずっと……どのようなときも。レナール様は、わたくしの気持ちを尊重してくださいました。とても……大切に扱ってくださいました」  顎にかかっていた指はピクリと動き、名残惜しげにヴィクトワールから離れていく。  感謝と旧懐を含む声が運ぶ言葉は、意図した通りレナールの胸に届いた。  これから実行に移そうとしている邪な考えは、今まで努めてきたものとは逆なのだ。暗い心の声に従えば、失望され軽蔑され、これまで培ってきた信頼を失う。  正気を取り戻せば簡単に思い至ることだった。  欲望はこの女を今すぐ自分のものにしろと執拗に命じてくるが、妻にする権利を卑劣な方法で得ても引き換えに心を永遠に失うかもしれない。そう思うとレナールの腕は力を無くし、だらりと体のあるべき場所に戻っていった。  ヴィクトワールの頭よりずっと上の辺りでゴツリと鈍い音を立てて固いものが壁に当たる。 「君を娶ることが出来るなら何でもする。どんなものでも引き換えにすると陛下に申し上げた」  押し殺した掠れ声がヴィクトワールの耳を打つ。  レナールはジラール王へ婚約解消の再考を願うために王宮へ何度も足を運んだ。余りの執拗さにジラール王は昨日謁見を許可し、直接叱責を与えたという。国益を考えろと。そこで初めてヴィクトワールの嫁ぎ先が内定しているとレナールは知ったのだ。  このことは幾人か介してヴィクトワールの耳に入った。  レナールとの婚約だって元々国益を考えて結ばれたもの。状況が変わり右から左へ。王家の貴い血を持つ娘が番う相手は替えられる。  奏上した結果を言い出せないレナールに、既知のことだと理解して貰うためヴィクトワールは言った。 「わたくしは陛下から与えられた役目を果たします。この国の復興と繁栄の一助となるよう尽くしますわ」  彼女の言葉は自分の希望からかけ離れた場所にある。  胸の痛みからレナールは顔を歪めた。 「君が今夜わたしのものになってくれるなら、これから二人でそうできる」  聞こえてきた息を飲む音が拒絶を彼に予感させる。  レナールは合意なしの行為は諦めたが、合意を得ることは諦めていない。両腕を下げたまま顔を寄せヴィクトワールの耳に唇を寄せた。 「ヴィクトワール」  すがるように名を呼ばれヴィクトワールの目は困惑で揺れる。  レナールに名を呼ばれるのが好きだった。  愛称をつけて呼び合ったりしたことは今まで一度も無かったが、レナールの唇から紡がれる自分の名は特別な響きがあると。愛と祝福と賛美が込められていて、伴侶となることを定められたこの人にとって自分が神聖な存在なのだといつも感じられた。 「お願いだ。わたしのものになると言ってくれ」  違う願いならきっと叶えた。  未婚の令嬢にとって純潔は命と同等。場合によってはそれ以上の価値がある。  レナールの哀願であっても頷くことは絶対に出来ない。  十年かけてゆっくりと描き、今は失われた未来にヴィクトワールは思いを馳せる。  レナールが夫になっていたら。勿論傍らで全力で尽くしただろう。  ロングトレーンのウェディングドレスとロングベールは既に出来上がっていた。時折衣装箱から取り出して眺め、身に付ける日を指折り数えた。あとはその日を待つだけだった。 「僭越ながらレナール様のお幸せとラングラン家の更なる繁栄を心からお祈り致しますわ」  顔に多くの感情が滲んでなかったらレナールが怒り出していたかもしれない型通りの言葉。言葉にすると虚しく、自分の力でそうする筈だったという強い失意がヴィクトワールから感じられた。 「ヴィクトワール」  呼び声に失望と無念さが含まれていたが、やはり、じわりと胸に沁みいるものがある。  ヴィクトワールは切なさから一瞬目を閉じた。続く言葉が分かる。  そして、その言葉は頭頂への接吻と共に与えられた。 「わたしは、これからも君だけを愛し続ける」  ヴィクトワールは気が咎めてレナールの顔を見れない。 「……将来神前で婚姻の誓いを交わす方を愛して差し上げてください」  返事の代わりにぎゅっと握った拳が鳴る二つ分の音がする。  レナールが一歩下がったので、圧迫感が消えてヴィクトワールは安堵の息を吐く。 「誓いを交わす相手は君だ。わたしは諦めない。まだ時間はある」  ヴィクトワールが何かを言う前に、非常識な来訪の謝罪の言葉を述べて、レナールは静かに吐き出し窓から出て闇夜に消えた。  レナールは既にジラール王の不興を買っている。  勝ち戦で国中が沸いて気分が良いところに水を差していると。  ヴィクトワールはジラール王がレナールやラングドン家に手出ししないよう伯母の王妃に執り成しを願わなければならなくなった。  宣言通りレナールは諦めなかった。辺境伯との婚約が新たに決まった後も。  結婚の邪魔をさせないためにジラール王は、先手を打ってレナールに新たな婚約を強引にう結ばせて結婚を急がせた。  王家は何重にも手を回して外堀を埋める。  ジラール王妃が止めとばかりに今回の後処理と根回しをヴィクトワールに任せるとラングラン家は抵抗を止めて沈黙した。 *  ヴィクトワールは目を閉じたまま、思わずくすりと笑ってしまう。  失った多くのものの替わりに得たのが、今こんな気持ちで庭園に居る自分であり、既に愛人の居る夫であり、自分やグディエ家や王家を侮っている使用人や領民なのだから。
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