第一話 隙間風

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第一話 隙間風

 初夜を彩るために焚かれた香の甘い薫りが室内を満たしていた。  今夜の舞台である四柱式ベッドの中央では、新妻のヴィクトワールが一人不安そうにしている。  寝室は明る過ぎも暗過ぎもせず、女主人を美しく見せるため、計算された場所に照明が配置されていた。  照明で作られた濃い陰影は、女性らしい豊かさや華奢な輪郭を強調し、不安に少し陰った表情に甘やかな隙を作り出した。    ヴィクトワールが心許無く思っているのも無理からぬことだった。  細かな刺繍が数多く入っていても、素肌に直接纏った白い薄物では、淡く色付いた胸の頂きや秘めたる場所の金の和毛(にこげ)を満足には隠せない。  当のヴィクトワールは今夜この夜着を身につけるのだと侍女に見せられた時に。  夫のリシャールは寝室に入って寝台の上の妻を見たとき、そのことに気付いた。  そして、このけしからん夜着が見る側に与える衝撃の程については、まさに今、互いに知ったばかり。  妻の美しくも艶めかしい姿を初めて目の当たりにしたリシャールは、叫んだり唸ったりする無様を晒すまいと、とっさに右手で口を覆う。  残念ながら努力は実らなかった。心に与えた衝撃が平衡感覚を奪ったからだ。無様にもふらりと傾いた身体は横に数歩分流れて、思わず手をついた壁がリシャールの身体を支えた。  その間も視線はピンで止めたように、今夜自分が自由にできる身体へ――。  その凝視されている時間は長かった。  耐えきれなくなったヴィクトワールは視線を避けるために俯く。  ヴィクトワールが密かに破廉恥極まりないと思っているこの初夜の装いは、花嫁道具として連れてきた侍女達が言うところの体をより魅力的に見せるためのもの。  見られて恥じらうのは良いが決して夫の目から体を隠してはいけない。そう言い含められていたが、目を伏せても感じる視線は思いのほか強い。  ヴィクトワールは背に流していた金髪の一部をそっと前に垂らして、ささやかな抵抗をする。  リシャールは視線と体の動きを奪っていた対象物が隠れて見えなくなったことで正気に戻り、大いに自分を恥じた。  女性経験のない男のような反応をしたことが情けなく、両手で顔を覆って表情を隠したのも一瞬のこと。流石と言うべきか、すぐに気を取り直した。  咳払いを一つすると、ヴィクトワールを正視しないよう気を付けながら寝台に近づいた。  きしり。  ついに夫が寝台に上がったのだと、軋む音がヴィクトワールに告げてくる。  きし。きし。  音と気配が間近に迫るとヴィクトワールの心臓は一層忙しく動き出す。  俯いたままでいいのか。それとも顔を上げるべきかを逡巡していたヴィクトワールの肩に、ばさりとガウンが掛けられた。  人肌に温まったガウンの柔らかな布地が緊張で冷えたヴィクトワールの体の強張りを解いていく。  5日前、王都の大聖堂で婚姻の誓いをしたあと、頬に唇を寄せられたときに初めて知ったリシャールの香りがガウンから立ち上る。  ヴィクトワールがそのことに気を取られていると、細く長い息を吐いてリシャールが告げた。 「この結婚を完全なものにする前に、きみには話しておきたいことがある」  気遣いが滲んでいたが、掛けられたのは想像していたような甘い言葉ではなかった。思わぬ固い声にヴィクトワールは思わず顔を上げる。    リシャールは顔を背けていてヴィクトワールとは目が合わない。  表情から改まった話をしようとしているのが察せられた。  ガウンを掛けてきた理由も、これから話をするのに気を散らさないためだろう。  ヴィクトワールは急いで襟を掛け合わせると裾を引っ張って脚を覆い、首から足首までを隠した。 「どのようなお話でしょうか」  顔を背けていたリシャールは横目で恐る恐るヴィクトワールを窺う。  滑らかで柔らかく芳しいものだと見ただけで分かる輝く白い肌。  美しく形造られた二つの双峰とその淡く色付いた頂き。  淫らがましい腰の曲線と臍の窪み。  若い牝鹿のような長くしなやかな脚とその間に見えた控え目な和毛。  清らかで犯し難い雰囲気を持つヴィクトワールがドレスとコルセットで武装し続けて、今日まで男の不埒な目から守ってきたものだった。  視線を釘付けにし一瞬で脳裏に焼き付いたそれら全てが、今は男物のガウンの中に上手く隠れていた。  見ても問題ないと分かると、リシャールから安堵と失望を含んだ軽いため息が漏れる。  正面を向いたリシャールが新妻ヴィクトワールに向けた言葉は、初婚の若い女にとって無情過ぎた。 「きみのことは辺境伯夫人として最大限尊重するが、わたしはきみを愛せない。だから、きみも自由にしていい」  ヴィクトワールは突然の告白に反応できず、二人は暫し無言で見つめ合う。  心は受け入れを一旦拒んだが、垂らした水が布に染みていくようにヴィクトワールは言われたことをゆっくり理解して行く。  リシャールはそれを瞳の動きから読んだ。  ヴィクトワールは少し手を伸ばせば触れられるこの距離で、夫との間に隙間風が吹くのを確かに感じていた。  もちろん本当に吹いた訳じゃない。心理的比喩表現の方だ。  彼女と夫との間に吹いたのは隙間風だったが、ヴィクトワール本人の心の中では暴風が吹き荒れていた。かき合せていたガウンの襟を掴む手が震える。  なにか言わなくてはと思うが、信じていた常識や価値観が瓦解していくのを今まさに感じていて、すぐに言葉が出ない。  それでも少しの沈黙のあと、ヴィクトワールは目を伏せた哀しげな表情で健気にもこう言った。 「わたくしに……妻として不足があるとお考えなのでしょうか。それでしたら、どうか遠慮なく仰って。必ず改めますわ」  思ってもみないことを言われたリシャールは顔色を変えた。  眉間に皺を寄せて否定するために首を激しく横へ振る。 「なにを馬鹿な。きみに不足なんて、ある訳がない」  ではなぜかとヴィクトワールは理由を問い質したかった。  けれど、このまま口を開いたら、強く詰っているように夫には聞こえてしまうかもしれず、ヴィクトワールは閉じたままの唇を強く引き結ぶ。  婚約が決まる以前は、夜会で顔を突き合わせた折に軽く挨拶を交わす、その程度の間柄だった。  結婚までの期間は互いの様々な事情により会えたのは5回ほど。その少ない機会も打ち合わせや挨拶周りに終始し、婚約者として親睦を深める余裕などなかった。  初めが肝心なのだ。信頼関係が生まれるまでは、誤解を生むような言動は控えるべきだと、ヴィクトワールは賢明にも黙ったまま夫の出方を待った。  妻の苦悩の深さを知らず、リシャールはどう言ったものかと言葉を探して視線を彷徨わせていた。その最中(さなか)、ヴィクトワールの震える両手にようやく気付く。  強く握られたガウンの襟は頼りない自分を守るようにキツく合わせられている。その(さま)はリシャールの目にとても痛々しく映った。  リシャールは彼女の固く握られた右手だけを優しく掴んで外すと柔らかく握った。ヴィクトワールが躊躇いがちに顔を上げたことで二人の目がゆっくりと合った。  その目にはヴィクトワールを厭う色は一切ない。はっきりした好意も感じられて、ヴィクトワールは夫がなにを考えているのか分からない。ジリジリとした気持ちで説明をしてくれるのを待った。  考えをまとめているために幾度か視線を下に向けた後、リシャールはようやく口を開く。 「ヴィクトワール。きみを妻に迎えたことで、この領地の繁栄は約束された。剣を振るしか能がない無骨なわたしの元へ嫁ぐために、こんな辺境まで来てくれたことにも、とても感謝している」  彼らの結婚は特殊な事情により結ばれたものだったが、リシャールの言うとおり、ヴィクトワールに妻としての不足などあろう筈もなかった。  ジラール王は一年続いた隣国との戦で、かなり分の悪くなった盤上を引っくり返し、完全勝利へ導いたリシャールに破格の褒賞を与えることを宣言した。  姪のヴィクトワールを国の英雄リシャール・ラングロワの妻として与える。  これがジラール王のいう破格の褒美だった。  そして、それは確かに有形無形の計り知れない利益をもたらす最高の褒美となり得た。  血筋が良く、身分も高い。豊かな人脈を持ち、実家は裕福。賢さ、情け深さ、美貌は他の追従を許さない。嫁ぎ先を必ず繁栄させるという特殊な教えも継承している。  ヴィクトワールがどれ程の価値を持つのか、一般的に知られている範囲ではあるがリシャールも知っていた。  王からの褒美だ。受け取らないという選択肢もないのだが、爵位を継いだばかりの新辺境伯として、リシャールは断らずに有り難く頂戴した。  こうして、ふたりの結婚は決まったのだった。  ヴィクトワールの父。王弟のグディエ公爵は臣下に降る前から外交が得意で金儲けへの嗅覚が鋭かった。彼が王になったら経済大国になると言われていた程だ。その才能を存分に発揮してきたグディエ公爵は、今や近隣国を含めても一、ニを争う裕福な貴族だ。  そして、彼は近隣国含めても一、ニを争う愛妻家の顔も持っていた。  若かりし日のグディエ公爵がまだ第二王子だった頃、特殊事情のある美貌の王女を華麗な追い込み漁で得た。  双子の兄と争っていた次期国王の座を諦めて、兄に王太子となる子供が生まれたら必ず臣籍に降る。だからと、国賓も大勢招いた夜会の席で跪いて求婚した。勿論断りにくくさせるためだ。しかし、王女は承諾を渋った。その場で彼女の腹違いの姉である後のジラール王妃が間に入り、目出度く結婚への承諾を貰えたのだった。  気が変わるのを恐れて結婚式を急ぎに急いで囲い込み、早々三人の息子を儲けた。第三子から二年空けて待望の娘を授かった。それがヴィクトワールだ。もちろん彼はデレデレと日々脂下がって舐めるように可愛がった。  そんな愛娘へ持たせた持参金の目録は一国の姫君に勝るとも劣らない。  それは金銭や宝石、土地などに留まらなかった。  嫁ぐ娘の為にグディエ公爵は全力を尽くしたのである。  婚約が決まってからのグディエ公爵の行動は早かった。まず国内外から必要な人材を集めに集めた。  辺境伯領との境、公爵領寄りに流れる河に跳ね橋を掛ける計画が立てられて何年も前に着工されていた。完成は後三年先だった。戦争もあったのだ。あと二年程予定を延ばそうと言う声も多く出ていた。それを結婚式に間に合うよう人員と金を可能な限り増やして工事を急がせた。  次に持参金の一部を工事費用として、公爵領と辺境伯領を結ぶ道を広げて路面も整備した。辺境伯領の城から近い河川に港も設けた。おまけとばかりに気前よく船も大小一艘づつ買い与えて持参金の一部とした。  この特需景気で国内の経済は大幅に活性化された。当然、流通も大きく変わった。王都まで半月近かった道のりも橋と整備された道と船のお陰で4日に短縮した。  職人が集まり、商人が行き交い、需要があって店が次々と出来る。仕事を求めて人も集まる。戦争での疲弊が嘘だったように国中が一気に華やいだ。  ジラール王は弟のグディエ公爵が娘可愛さから大金を吐き出すと知っていた。その使いみちも予想していた。  これで敗戦国から得られる賠償金で補えない経済的な損失は埋まる。国を復興するための金が節約出来る。若き国の英雄にして未来の筆頭将軍とは親戚関係が作れ、国内外に国防の強さや国内の絆の強さを見せつけることが出来る。  戦後いち早く復興し、更に国力をつけるために、これほど適した縁組はなかった。  この結婚は一部を除きジラール王の計画どおり、国内で盛大に祝福をされていた。今後も国全体を繁栄させる大きな一助となるはずだった。  領民と国民の全てが感謝している。ヴィクトワールが妻として歓迎されないはずがなかった。    ――となると、考えられる理由は。 「それでは、わたくし自身がお気に召さないということでしょうか」  それは憶測であっても彼女の自尊心を大いに傷つけた。  ヴィクトワールは自分が美しいことを物心ついた頃から知っていた。  碧、翠、茶の3つの階調のある瞳も、光を集めたような金髪も、シミのないミルク色の肌も、見た者は誰も彼もが賛美する。アルベニス国の美貌の王女として名高かった母親に顔立ちも似ている。  母や伯母の王妃から受け継いだ教えに従って、恵まれた容姿や身分に驕ることなく人には優しく誠実に接してきたつもりだ。友人も多い。人に嫌われる理由に心当たりはない。  リシャールは少し迷ったあと、空いている右手を伸ばして、躊躇いがちにヴィクトワールの左頬に触れた。 「いいや。社交界の誰もが認めているとおり、きみは美しい。私の目にも比類なく美しいものとして映っている」  ならば、自分の何が悪いのか。  問うために口を開きかけるも、彼女の誇りがそれを言葉にするのを躊躇わせた。重苦しい胸の詰まりが出口を失って心を圧迫し、ヴィクトワールの瞳をたちまち潤ませる。  自分の手を優しく握る大きな手を握り返し、ヴィクトワールは縋るように夫を見つめることしか出来ない。  ヴィクトワールの濡れて揺れる瞳と苦しげに歪む表情を照明が妖しく照らしていた。  それを見つめていたリシャールの胸に突如、強い衝動が突き上がる。  苦しさにリシャールも妻と同様に顔を歪めると絞り出すように言った。 「――それでも、ヴィクトワール。わたしには既に愛を捧げた女性(ひと)がいるんだよ」  その話は大分前に聞いたことがある。  ヴィクトワールは記憶を辿るために僅か目を細めた。 「存じ上げております。この領地に住まう平民の女性と数年お付き合いがあったと――」  ここまで言って、ヴィクトワールは目を大きく開き、呆然とした。 「まさか……まだ……」  リシャールは苦笑いすると、右手で妻の頬を撫でながら答えた。 「今は子爵令嬢なんだ。半年前クレマン子爵に無理を言って養子縁組させた」  それはリシャールが愛妾として傍に置くつもりということに他ならない。  ヴィクトワールは動揺して目を左右に走らせながら、必死に不快感が顔に出ないように感情を抑えた。 「リシャール様。わたくし達の結婚は、単なる貴族同士の政略とは訳が違います。その意味を正しく理解なさっていますか?」  リシャールは宥めるように右手を親指で頬を撫で続ける。自身の手の動きを映している目には徐々に熱が籠もっていく。 「結婚を承諾したことで陛下には恭順の意を示した。私たちは陛下のご意向通り、この領地で義務を最大限に果そう。心配要らない。きみを粗略に扱うつもりなんて微塵もないよ」  リシャールは分かっていなかった。  自分が何をしているのか、何を言っているのかを理解していない。  ヴィクトワールの体が屈辱と失望のため戦慄(わなな)く。 「この話をしたのは、何も知らせないまま夫の権利を行使するのは不誠実だと思ったからなんだ。義務を果たして子は成そう。だが、きみも心を偽らなくていい。心はお互い自由でいようと言いたかった」  言うべきことは言ったとリシャールは思ったのだろう。  ヴィクトワールの頬に置いていた右手を下に滑らせる。  長く柔らかな髪の感触を心地よく思いながら、リシャールの手は細く滑らかな首へと降りていく。    ヴィクトワールは、後ろに身を引いて不埒な手の進行を止めた。 「お待ちになって、わたくしが何を偽っているとおっしゃるの?」  リシャールは微笑んでみせる。それは共犯者の笑みだった。  ヴィクトワールには、夫からこのような顔をされる心当たりはない。 「跡継ぎを産むまでは関係を持つのは遠慮して欲しいが、醜聞にさえ気を付けてくれれば、レナール殿との仲は黙認するつもりだ」  リシャールから悪意は感じられない。  いよいよ意味がわからず、ヴィクトワールは顔をしかめてしまう。 「なぜここでレナール様のお名前が出てくるのですか?」 「レナール殿と相愛の仲だったことは知っている」  この国の復興と繁栄のためにリシャールと結婚するようジラール王に言われるまで、ヴィクトワールはラングラン公爵嫡男レナールの婚約者だった。  身分も容姿も釣り合う美男美女と言われてきた。  レナールとの婚約もジラール王が介在した政略的な縁組だったが、レナールは婚約者を心から愛していたし、ヴィクトワールもそれに応え、将来次期ラングラン公爵を支えるために学ぶ努力を惜しまなかった。  だからこそ、二人を引き裂いた王とリシャールは一部の者たちから非難を受けていた。  ジラール王はラングラン家からの強い抗議と撤回の求めには応じなかった。  そればかりか、レナールは愛している婚約者を奪われただけでなく、新たな婚約者を王から充てがわれたのだ。  戦争が終わったばかりで、今度は内乱に発展する最悪な事態を貴族たちは避けたかった。周囲が必死に説得した結果、ラングラン家は嫡子の新たな婚約を渋々受け入れた。  そして今から半年前、レナールは戦死したリシャールの兄の婚約者だった娘と結婚した。 「それは以前のことですわ。――わたくしはヴァングラースの継承者です。夫と婚家に全身全霊で尽くします。レナール様はわたくしの夫にはなりませんでした。リシャール様、貴方です。わたくしの夫は」  妻の真摯な眼差しにリシャールの目は困惑に揺れる。  ヴィクトワールに相愛の相手がいると思ったからこそ、平民の恋人を愛妾とするために子爵相手に少なくない犠牲を払ったのだ。  にわかに信じられず、リシャールは思わず漏らす。 「だが十年も……」  レナール・ラングランとヴィクトワールの婚約期間は十年。  その長い間、ヴィクトワールは将来伴侶になる心づもりで寄り添ってきた。結婚も一年後に控えていた。戦争さえなければ、ヴィクトワールと初夜を迎えたのはレナールだった。  そんな相愛の男女が、政略だからと引き裂かれて、簡単に割り切れるものだとリシャールは思っていなかった。  夫から懐疑的な目で見られているのに気づくとヴィクトワールは、そっと目を伏せる。 「夫になるまでは心の全てを預けない。ヴァングラースの教えですわ」  ヴィクトワールはまた顔を上げ、後ろ暗いところがないと証明するために夫と目を合わせた。 「確かにわたくしは十年レナール様をこの先の人生を共に歩むだろう男性としてお慕いしてきました。ですが、もう違います。わたくしの夫はリシャール様なのです。――夫の愛を得るのに、今のわたくしは相応しくないでしょうか」  なんと返事をしていいのか分からず、リシャールは右手で口を覆ったままヴィクトワールを見つめることしかできない。  ずっと彼女の心は元婚約者にあると考えていた。王命に従い国のため涙を呑んで嫁いでくれたと思っていたのだ。  自分がどれ程の女を妻として手に入れたかリシャールも分かっている。  そのヴィクトワールは夫の愛を心から望んでいる。  ぐらりと心が傾く。  ―ずっとリシャール様を陰から見つめていました―  6年前、カトリーヌと初めて声を交わした日。  鈴を振るような声で彼女から受けた告白が 脳裏を過る。  リシャールの心が美しい妻に揺らいだ自分を激しく責める。  ぐしゃりと顔を歪ませたリシャールは、妻があえて口に出さない望みを否定した。 「彼女と別れるなんて出来ない。――絶対に無理だ」  カトリーヌと出会ったのは、継ぐ爵位のない貴族令息の未来というやつが、身に沁みて分かってきた15歳。その不公平さにリシャールが最も腐っていた頃だった。  猛将と名高い父親から武将としての才を一番受け継いだのは自分だという自負をリシャールは持っていた。  けれど嫡男である長兄シスモンドに気兼ねして、誰も彼も父親のラングロワ辺境伯でさえも表立ってリシャールを認めはしなかった。  リシャールは誰も自分を見ていないと思っていた。だが人知れず見つめている目はあったのだ。  人の寄り付かない離塔の庭園のベンチで人目を避け、盛大に項垂れているリシャールにカトリーヌは初めて声をかけてきた。将来への不安に押し潰されそうだったリシャールは、この出会いは神が降した運命だと思った。決して逃げることができないものだと。  実際そう思ってしまうのも仕方がない程、リシャールは心弱っていた。  彼女をどう扱うべきかリシャールは悩みに悩んだ。  父親のラングロワ辺境伯もリシャールの様子がおかしいことを気にしていたようだった。  二度目に言葉を交わしたのは、やはりカトリーヌからの接触だった。  自分になにを望むかと尋ねると、望んで叶うなら死ぬまで傍に居たいとカトリーヌは言った。それはリシャールにとって彼女を自分の傍から離さない充分過ぎる理由になった。  リシャールは、あの日の決断をなかったことには出来なかった。  絶対に――。  それはヴィクトワールが思っていたよりもずっと強い拒絶だった。  愛し合う男女を引き裂きたい訳ではないが、許容できる問題ではない。妻として近日、会って話をすべきだろうかと考えてヴィクトワールは尋ねる。 「今、その女性はどちらに? クレマン子爵のところですか? それとも別宅で囲っていらっしゃるの?」  リシャールが気まずそうに目を逸らす。 「まさか――この城に?」  元婚約者との関係を誤認していたからこそ、事後承諾を取れば良いと判断してカトリーヌを城に置いた。  それを諌める家族は居ない。母親は幼い頃に病で。長兄は彼が15歳の時に事故で。前辺境伯である父親は今回の戦で右膝から下と、多くの部下と、嫡男だった次男を失った。失意の余り、爵位を譲ってすぐに友人の治める領地で療養すると行って城を出ていった。  不実と詰られても仕方がない行動だった。リシャールはヴィクトワールをこれ以上不快にさせないよう上手く説明が出来る自信がなく、仕方なく口を噤む。  肯定と取ったヴィクトワールは嫌悪感に襲われて鳥肌を立てた。  熱いものに触れたように握られていた手を振り払ってしまう。  貴族同士の結婚で配偶者と心通わないことも、愛人を作られることも掃いて捨てるほどある。けれど、それはヴィクトワールにとって自分の身に起きるはずのないことだった。配偶者が自分以外の女を求めるかもしれないとは少しも考えてなかった。  仮に夫の愛人を専用娼婦だと割り切ることが出来たとしても、同じ敷地内で夫が愛人と行為に耽る可能性を考えるともう駄目だった。  ヴィクトワールが夫を穢らわしく感じて思わず手を振り払ったとき表情に出てしまったようだ。妻のあからさまな拒絶を受けて、リシャールは深く傷ついた顔をする。  自分の卑怯さを充分理解していたが、リシャールには、ここで引けない理由があった。 「いつも笑顔を絶やさない気立ての良い子なんだ。歌が得意で小鳥みたいに機嫌よく始終歌ってる。そうやって周囲を和ませる子で……きみのような美人ではないけど、とても愛らしい子だよ。打ち解けてくれれば、きっと姉妹のように仲良くなれる……お願いだ。受け入れてくれ」  ヴィクトワールは息苦しくなってガウンの襟を更に強く握りつぶす。  リシャールはこれ以上無いほど眉間に深いシワを作り、更に男の身勝手な希望を言い募る。 「きみには妻としてカトリーヌの立場を認めて貰いたい。ここに置くことも正式に許してほしい」  到底受け入れられず、ヴィクトワールは両手で顔を覆ってしまった。  もうガウンが肌蹴て胸元を晒すのを気にしている場合ではない。  ヴィクトワールが自分を立て直すのには少し時間を要した。  普通の令嬢なら誰かの助けがあっても何ヶ月も立ち直れなかったに違いない。  リシャールは心の中で恥じ入りながら、ひたすらヴィクトワールの言葉を待った。  誰もが喜んで娶るだろう高貴な女性にするには最低の願いだ。自覚はある。  程なくして顔を覆っていた手が降ろされる。  目を閉じたままのヴィクトワールの顔には、初夜の新妻に相応しくない人生の疲れが滲んでいた。 「……さすがはラングロワ辺境伯領。その強い結束力で長年敵国から国境を守ってこられたのですね。そして、今回その結束力はあなたの意向で小鳥の存在を隠す為に使われたと。そういうことでしょうか」  密やかな声の恨み言にリシャールは無言で肯定を返す。  婚約前に身辺調査は行われたが、身分違いの恋人の存在は無視された。リシャールが領内にいるときは片時も傍から離さないほどの寵愛をみせていたらしいが、相手は貴族ですら無い鍛冶屋の娘だ。国王と血の繋がりのある公爵令嬢を娶るのだ。当然、身綺麗な状態にすると信じられていた。  実際は婚約後も恋人との関係は続いていた。新辺境伯が結婚後も関係の継続を望んでいることを領民も城の者も知っていたのだ。知っていて結託して上手く隠した。結婚した後でなら、夫となったリシャールが上手く言いくるめるだろうからと。  ヴィクトワールは疲れた笑みを浮かべながら、首を緩く横に振った。 「やはり、あなたは何もお分かりでない。王家、グディエ家、ラングラン家のいずれかが知れば、あなたの小鳥は死ぬでしょう」  息を呑む音がする。  ヴィクトワールが目を開けて確認するまでもなくリシャールの顔は強張っている。  これまでは上手く隠せたようだが、これからはそうは行かない。  嫁いだ娘の、姪の様子を知るために、グディエ公爵家と王家は息のかかった者を多く城や領内に出入りさせることになる。  そして、多くの新事業が動き出せば、もっと他領地から人が流れてくるだろう。この事態を対処するのには慎重さや機転が求められる。余程上手くやらなければ、秘密を秘密のままにするのは難しい。  ヴィクトワールがゆるゆると顔上げて覗き見たリシャールは予想通り顔色をなくしていた。 「国王陛下の顔に泥を塗る行為だというご認識はありませんでしたか? 領主の意向で多くの者がその行為に加担しているのです。それがどのような結果を生むのか今一度よくお考えくださいませ」  上下に唇が動いたがリシャールが何か言葉を発することはなかった。  ヴィクトワールは現実を知ってほしくて尚も言う。 「父が知れば、完成を急がせた橋や持参金の一部として作らせた河川港を爆破する位は即座にするでしょう。グディエ公爵家とラングラン公爵家の一族総出の報復があることもご覚悟を。恐らく陛下は国内が安定するまで何もなさらないでしょうが、行動に移された場合はリシャール様ご自身もただでは済みません」  恐怖を感じているらしいリシャールの唇は震えていた。  その姿を見て、ヴィクトワールは少し冷静になる。  辺境の地だ。国の隅々に王家の威光が届かないのも無理はない。  彼は王を甘く見ていたのだ。  怯える子供を諭すように優しく静かに彼女は言った。 「それでもリシャール様は、神前で愛と貞節の誓いを交わした妻のわたくしの手を取らず、一生日陰者にするしかない女性との愛を貫かれますか?」  この言葉は最後通牒のようにも取れる。ヴィクトワールはそれを分かって言った。  意思決定を見せるようにリシャールは両手を伸ばしてヴィクトワールの二の腕を掴む。  ヴィクトワールの一瞬の期待は、今日何度目かの失望に変わる。  リシャールは腕を掴んだまま身体を折るように俯いたのだ。 「ヴィクトワール……頼む。助けてくれ……」  愛人と別れたくないという意味であるのは、すぐに分かった。  もうヴィクトワールは、いっそこの場に倒れて何もかも忘れ、そのまま眠ってしまいたかった。  夫は途方にくれていたが、縋られているヴィクトワールも同じく途方にくれる。継承した教えには、夫に愛人がいると想定されたものは一つもない。どうしたらよいか尋ねたくとも、この地にはヴァングラース継承者である母も伯母の王妃も居ない。  判断をいつまでも迷っていられなかった。それほど猶予はない。この城の者たちは領主であるリシャールの意向で動いている。ヴィクトワールの味方というわけじゃないのだ。  この局面でどうしたらいいか。継承した教えを元にヴィクトワールは考えなければならなかった。夫に心を預けるかも決められないまま。 「それでは協定を組みましょう。ですが内容を決めるのはわたくしです。よろしいですね?」  自分の選択が何を生むのかを漸く知ったリシャールは激しく動揺している。これを好機として、ヴィクトワールが自分に優位な条件をより多く引き出そうと試みることを誰が責められるのか。  リシャールは頷く以外なにも出来なかった。  国の英雄と謳われた男が縋れるのは、4つ年の離れた妻だけだった。
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