1/1
2834人が本棚に入れています
本棚に追加
/12ページ

 慶の手が動き、小指が絡まる。どちらともなく指きりの歌を口ずさんだ。 「あとね、もうひとつ……これは俺からのお願いです」  慶は鈴の身体を軽く持ち上げて横向ける。胸に耳が当たる体勢で抱き直され、腰の辺りにあった布団を肩まで引き上げられた。慶と布団にすっぽり包まれる。 「タイミングなんかどうでもいいから、好きなときにしがみついて。いつでもいいです。俺困らないから、怖いときでも悲しいときでも、嬉しいときでも……いつでも。あんなんで十分なんて、可哀相なこと言わせたくねえよ、俺は」  最後の一言が、鈴は思いのほかショックだった。 「……僕は、可哀相だったんですか?」 「そうですよ。すーさん、可哀相だよ。だからすーさん、俺のそばにいてね。幸せが何か、教えてあげっからね」  鈴は閉じたカーテンをじいっと見つめていたが、そっと瞼を伏せた。  あやすように撫でてくれる手に甘える今この瞬間を幸せと呼びたいのだけれど、それでは慶にとって物足りないのだろうか。  少し、面白くて笑ってしまった。 「環さんの目を盗んで逃げ出したあと……実は僕、『紅本慶の働くお店』を見に来たんです」 「……あの日のこと? え、俺のこと知ってたんですか?」 「月刊HOMEに載ってたんです、慶くんの手がけたインテリアが。僕は……何度もそのページを見て、考えてました。こんな部屋に住みたいな。誰かとただいま、お帰りって言い合える素敵な未来があればいいなって。目を閉じて考えている間は、つらいこともなくて、すごく幸せでした。……だから慶くんはずっと前に僕を見つけて、支えてくれてたんです」  本人を前にこの話をする日がくるとは思わなかった。照れくさいが、それでも構わない。  慶が鈴の過去に心を痛めて謝るくらいなら、秘めておくべきほのかな憧憬と妄想くらい、いくらでも披露できるのだ。 「ありがとうございます、慶くん。僕はとても恵まれています」  決して可哀相ではない。慶が悔いるようなことはない。そう伝えたくて、自分から彼の手を握る。 「僕は、あなたに逢いたくて生まれてきました」 「……すーさん」  慶は抱いた鈴の頭に頬を寄せ、喉を鳴らす。小さく、かすれた声で「好きだよ」と、震える告白をこぼした。  ありったけの心を捧げるように。祈るように。 「俺の手でかいから、いろいろ持てるって言ったの覚えてます? ……これから先も支えます。ずっとです。好きです。すーさん、俺はあなたが、大事で大事で仕方ない」  子守歌みたいな想いが降りそそぐ。慶の愛は、パステルカラーのマシュマロみたいだ。柔らかくて、甘くて、いつも鈴をにっこりさせる。  それから間もなく、鈴は眠ってしまったようだった。  朝、目が覚めて、顔を埋めていた胸板の辺りで息を吸う。慶の香りがする。少しだけ涙が滲んだ。 (怖くない。先に眠ることも――向かい合って意識を手放すことも。ここは、天国かな)  慶に話したことで、ずるずると一緒にいた環への複雑な思いが形を変えたような気がする。  軽くなるとか、忘れるとか、そういう方向ではないけれど、「ひとつ過去のもの」だと今なら思える。 「好きです、慶くん……だいすき」  いつでもいいと言ってくれたから、広い背中に腕をまわしてしがみついた。  うーうーと子どもみたいに唸った慶は鈴の頭に鼻先を押し当て、どんな夢を見ているのか、くすくすと笑っていた。 *  本格的な梅雨はまだ先のはずなのに、妙に空気の湿った日が続いている。  去年の五月も雨の日が多く、梅雨入り宣言してから晴れ間が続いた空梅雨だったなと思い出した。  ガラス壁の向こうに広がる街は雨で薄暗いが、それはそれで見ていて楽しい。色とりどりのカラフルな傘が行き交う景色は、晴れの日に見ることが叶わないからだ。  モップ片手に外をながめる鈴に、後ろから明音が飛びついてきたのはそのときだった。 「すー、うー、ちゃんっ」 「ふぁっ」  雨の日でもさわやかな気持ちになれるようなシトラスの香りがして、肩を竦める。  いくら明音が男性だと頭ではわかっていても、実は鈴は彼が女装していない姿を知らない。いつだって完璧な美人だから、急に抱きつかれると居たたまれなさと恥ずかしさで固まってしまう。 「今だよ鮫島」 「おっけ~」  え、と思っている間に、フラッシュのまぶしさが止んでいた。  明音に後ろから抱きしめられる鈴を撮影した鮫島が、「俺はカメラの才能もあるかもしれない……」と真剣に言う隣では、周防が「慶が怒るぞお前ら」と呆れている。  耳のそばで明音の声が弾む。 「その写真、早く慶に送ろ。すーちゃん、これできっとあのガキ妬いて早く帰ってきてくれるよっ」 「っえ!? あの、なぜそんなことを……!?」 「そりゃあ、すーちゃんがさみしそうに外ながめてる後ろ姿が、お迎えのこない幼稚園児みたいで可哀相だったからだよ?」  さみしそうにしているつもりもなかったし、鈴はお迎え待ちでもない。  だがポツンと親を待つ小さな子どもの姿を想像すると、じわっと切なくなる。  いや、感化されている場合ではない。 「だめです……慶くんはお仕事ですし、そんな邪魔をしては……」  窘めようとする鈴をよそに、鮫島と明音は添える文面について盛り上がっていて聞いていない。  困っていると、周防は「大丈夫だ。気にするな」と鈴の肩を叩いて閉店作業に戻っていった。  慶が隣県での仕事で出張に出かけたのは、一昨日のことだ。  店外での仕事はこれまでも引き受けていたが、他県に出向いての仕事は初めてだからと緊張していたのが可愛かった。馴染みの職人からの紹介でつながった仕事ということもあり、プレッシャーも大きかったのだろう。  それでも彼は肝の据わった男だから、出発の朝には緊張の欠片もない様子で颯爽と出かけていったのが印象的だった。 (応援してるんだから、さみしいはずがないんだけど。さみしいって、どれのことだろう)  昔の自分とは違い、雑多にあふれ返って賑やかな胸の内を見つめ直し、鈴はそれを探してみた。  店内を見まわしても、一際長身の目立つ姿が見当たらない。  近寄りがたい三白眼をふにゃっと和らげた笑顔。すーさん、と呼んでくれる柔らかで耳に馴染む低い声。ときどき鮫島たちにからかわれると顔を出す、年下らしく微笑ましい一面――。 「そっか、さみしいのかも……」  応援する気持ちの隣に、早く会いたいなと思う気持ちがあった。  案外、誰かに会いたくてさみしがるのは悪い気分じゃない。ちりちりとした心細さすら、帰ってきた慶が抱きしめてくれることを知っているからだ。  慶はすごい。そばにいない間も、鈴にマシュマロの愛を非常食のように持たせてくれている。定休日の明日、駅に迎えに行くまで、鈴は飢えることがないのだ。  その後、独り言を聞いていた明音と鮫島に「さみしがり屋のすーちゃん」と呼んでからかわれ、夕飯までごちそうになって、いつもより遅い時間に帰路へつく。  帰ったらまずは、慶に電話しようと思っている。たった二日だけれど、ほぼ毎日一緒にいる恋人と会えないのは、想像以上に堪えていることに改めて気づいたからだ。  まずは今日の報告をして、彼の仕事の進捗を聞いて、一日を労い合いたい。それから鮫島たちが鈴のさみしさを紛らわせようと構ってくれたことや、四人で一緒に夕飯を食べたことも話したかった。  最後に、さみしいですと正直に言ってみたいな、と鈴の小さな胸は弾む。明日は早めに帰ってこれませんか、と訊ねたら、彼は呆れないで笑ってくれるだろうか。  ――けれど、その未来が叶いそうにないことを、階段から二階廊下へ躍り出た鈴は悟ってしまった。 「――やあ、久しぶりだね」  普通のアパートの玄関前に、ブランドもののスーツ姿が浮いている。怜悧な顔立ちを柔和に崩した男が、親しげな仕草で左手を上げた。  鈴は足を縫いつけられたかのように動けないまま、無意識にその名を紡ぐ。 「環さん――どうして、ここに」 「おかしなことを言うね。わからない?」  環は鈴には滅多に見せなかった対外用のニコニコ笑顔を浮かべ、袖から覗く数百万は下らない高級腕時計で時間を確認している。  公園でポツンとブランコに座っていたあの日の刺々しい雰囲気も、その内側のさみしそうな姿も、片鱗は、もうない。  あるのは大人になるにつれて彼が身につけた、心を読ませない頑丈な外面だけだ。 「最初からお前の居場所くらい、把握しているに決まっているだろう?」  くらりと眩暈がした。  逃げ出せたと、思っていた。自らの意思で自由を得たつもりでいた。  だがそれは、まやかしだったのだろうか。  鈴は環の気まぐれな放し飼い用サークルの中を、駆けまわっていただけなのだろうか。 「逃げ出すくらい海外が嫌なら、数年は自由にしてあげてもいいかと思ってたんだけどね。だけどあれは駄目だよ、鈴」 「……あれ、とは」 「しけた家具屋のホームページに、お前の写真を載せただろう? 俺はお前を不特定多数の他人に見せることを、許可した覚えはないよ」  一歩、環がこちらへ踏み出す。  下がれ。逃げろ。とにかく走って逃げなければ――でも、一体どこへ?  廊下を、磨きあげられた革靴がこつこつと近づいてくる。たった数メートルだ。すぐ、この距離はゼロになる。  恐怖で動けない鈴に向かって笑みを消した環は、手を伸ばしてきた。 「ひ……っ」  殴られる、と思って顔の前で腕をクロスさせると、男が嘆息する。 「心外だなあ。ずっと一緒にいたのに、そんな反応をするなんて。……こんなところで野良生活をしていたからだね。一緒に帰ろう」 「かえ、る……?」 「そう。ひとまず、俺の取ってるホテルへ連れて行くよ。その小汚い見た目もどうにかしないといけないな……安っぽい服は人間も安く見せるんだとあれほど躾けたのに。ほら、鈴」  再び手が伸ばされる。嫌だ、と思うより早く、鈴は首を横に振りたくっていた。  環がため息を吐く。  鈴はびくっと肩を跳ねさせたが、それでももう一度拒否を示した。 「ぼ、僕が帰る、のは、そこの部屋です。僕は、行きません……っ」 「困ったな……じゃあ仕方ない」 「え?」  肩を竦めた環を、驚いて見つめてしまった。  彼は強引な男で、自分の思いどおりにならないと癇癪を起こすことが多かった。こんなふうに穏やかに鈴の意見を受け入れてくれたことなど、一度もない。  何か企んでいるのだろうか。それとも三年の年月が、彼の尖った人間性を丸く削り取ったとでもいうのだろうか。  戸惑う鈴の肩をポンと叩いた環は、苦笑する。鈴が十四年そばにいても、見たことがなかった柔軟さで。 「どうしても嫌なら無理強いはしないよ。鈴が嫌がったら諦めようと思っていたからね」 「ほんと、ですか? 怒ってない……?」 「もちろんさ、怒ってないよ。昔の俺はお前が大切すぎて、大事に大事に囲いすぎたんだ。だから……今度は甘やかすのはやめようと思ってる」  ――え?  聞き返す声は、耳元に寄せられた環の唇から歌うように告げられた言葉で掻き消えた。 「紅本慶、だったっけ」  明音から香ったシトラスとは真逆の、主張の強い香りがした。湿気でむせ返る甘い匂い。  それは懐かしい支配者の香りだった。 「お前にたぶらかされて、調子に乗って……俺の許可なくお前に触った身の程知らずだね」  息ができない。  見開いた目が、乾いて痛い。 「ニューホームのモデルルームを担当するかどうかの瀬戸際なんだって? いいねえ、夢のある若者は。ちょっと口添えするだけで、夢どころか仕事も干される世間ってやつを知らないんだもの。あどけなさが可愛いんだ、彼らは」 「ゃ、めて……」 「イル・ルオーゴって店があるあの一帯は立地がいいし、ちょっと無理して取り上げても簡単に買い手がつくね。俺の顧客の中には、日本で事業を始めたがってる馬鹿な金持ちがわんさかいるんだ。内緒だよ?」 「環さん……!」 「おっと、独り言がすぎたかな。気にしないで、鈴。俺は今少し不機嫌だからちょっと暴走するかもしれないけど、一緒に来ないお前には関係のないことだからね」  おぞましい独り言を語り、環の身体が離れていく。ふっと笑み、それからすぐそばを、すぎていった。  脳裏をよぎる、三年の日々。いつも賑やかなイル・ルオーゴの面々。大事に頭を撫でてくれる慶のこと。  ――これらより大切なものが、鈴には思いつかない。 「待ってください……!」  環の背に声をかけ、追い縋る。 「僕も……行きます」 「……へえ?」  わざとらしく目を丸くした環が、階段を降りかけていたところから振り返った。  腕を組み、手すりに腰を預けて、嘲りの浮かぶ眼差しで鈴を見下ろす。  この視線が、威圧感が苦手だった。高いところから、くだらないものを見下げる目つきが……鈴を無価値に変えていくから。 「さっきはあんなに嫌がったのに、どういう心境の変化だろうね? 俺は傷ついたから、お前にお仕置きするけど、それでも来る?」 「い、行きます……連れて行って、ください。どんなお仕置きも、していいです」 「『していい』? あの間男は、お前に余計なことを吹きこんだみたいだ。腹が立つなあ……」 「し……してください、お願いします……!」  以前ならば抵抗なく言えていたはずの服従の言葉が、喉に絡んで詰まる。バラバラに剥がれ、壊れた鈴の自尊心を慶がつなぎ合わせ、大切にしてくれたからだ。  だからもう一度壊すのは嫌だったけれど、そんなことで慶や、鮫島たち、あのあたたかい店を、環の手から守れるなら構わなかった。  鈴はその場に膝をつく。 「環さん、お願いします。僕を連れて行ってください。もう勝手にどこにも行きません。約束を守ります。僕を、好きに、してください」 「……よくできました」  聞き慣れない褒め言葉に顔を上げると同時に、腕を掴んで引き上げられた。おとなしく足を動かし、階段を下りていく。  環の機嫌よさそうな声が、鈴を素通りしていった。耳が聞きたい声を聞けないことに絶望しているのかもしれない。 「人は間違える生き物だから、許してあげるよ。いい子にしていれば、俺もうっかり間男の夢をつぶしたりはしないさ。くだらないことに時間を使うほど、暇じゃないからね」  環はマンションのゴミ捨て場に来ると、鈴のトートバッグを改める。  財布の中から保険証などの身分証明になるものだけを自分の胸ポケットへしまうと、銀行のキャッシュカードはバキッと折られてしまった。現金を鈴に与えないためだろう。  その光景を無感動にながめるフリで、鈴は左手の指輪をそっと抜く。それをボトムの尻ポケットに入れたところで、環は鈴の携帯を出して、現金ごと残りの荷物は呆気なく捨てた。  慶の自宅の鍵がついたキーケースも、あの中だ、とぼんやり思う。 「行くよ」  放っておいてもついてくる自信があるのだろう、環は鈴に背を向ける。  黙ってあとを追い、少し歩いた先に停めてあったタクシーへ乗りこむ。連れて行かれたのは豪奢なホテルの一室だった。  一泊いくらくらいだろうか。アンティーク家具はもちろん、壁を華やかに演出する絵画はフィンランドの有名画家のものだ。ラグジュアリーな空間は鈴のような一般庶民が足を踏み入れてはいけない気がする。  無理に意識を逃避させている間、鈴は床に跪かされ、耳には束縛の証がとおされた。 「以前のルビーも悪くないが、鈴にはダイヤのほうがいいって思ってたんだ。やっぱり似合うよ」 「……」  左耳の耳朶が、いやに重い。  ピアスホールを空けられるとき、怖がった鈴が動いたせいで耳朶の端に穴が空いているせいかもしれない――なんて、そんなはずがない。 「不満そうな顔をするんだね。……何様のつもりかな?」  振り上げられた男の手を、鈴は無感動に見送った。 「……ッ」  短い破裂音が、広いスイートルームに響いて即座に消える。  鈴は左頬を打たれた衝撃で右へ顔をかたむけたまま、は、と息を吐く。遅れてじんじんと頬が熱を持って痛んだ。 「悪いのはお前だね? どうして勝手に逃げた? 嘘つきな悪い子だ。鈴、お前は嘘つきだ」 「ふ……っう、痛ッ、う、う」  パシンッ、パシンッ、と連続して頬を叩かれる。歯を食いしばって身を縮めても髪を掴んで上向かされ、両頬を打ちつけられた。  薄目を開けると、叩かれているのは鈴なのに、環のほうが痛いのを堪えるように顔を歪めている。少しずつ忘れられていく力加減に比例して、痛みは増していった。 「お前からっ、俺の近くに、来たくせに!」 「、つ――……ッ」  床へ放り出されるが、ふかふかの絨毯の上で助かった。頬の痛みはひどいがそれ以外は無事だ。両手をついて身体を起こす。 「環さん……ごめんなさい」 「お前のごめんなさいは、聞き飽きたよ。しおらしく言うことを聞いて謝ったって、勝手に消えたじゃないか。あの日だって、部屋に戻ったらお前がいなくて、俺がどんな気持ちだったかわかるかい? 昔は……幼いころのお前は、俺があっちに行けと言ったって気にせず隣に来たのに」  風化しそうな懐かしい思い出を想起しているのか、環は子どもみたいに不安げな表情だった。きっちりとセットされた髪を手で乱し、苛立ったように長い息を吐く。 「……まあ、いいよ。逃げ出す余地を与えた俺にも非はあるからね」  手が伸びてくる。きっとその手は鈴の頭を掴んで後ろを向かせ、床へ押しつけるだろう。  わかっていて、鈴は動かなかった。  ここで抵抗すれば、ついてきた意味がなくなる。  だが男の指先が触れる寸前に、彼の携帯が着信を訴えた。凶悪な舌打ちをひとつ落とし、感情を宿さない瞳に見下ろされる。 「日本へは仕事で戻っただけだからね。面倒だけど、行かないと。……すぐ戻ってくるから、おとなしくしているように」  言い捨てると、環は髪やスーツを整えて部屋を出ていった。  傲慢にもルームキーをテーブルの上に置いたままだ。逃げ出せるものならやってみろと言わんばかりの状況に、鈴は声なく笑う。 (当然か……ピアス、つけられちゃったもんね……)  きっとこのピアスは鈴の立てる音と、鈴の居場所を、環へリークしている。トイレの回数すら把握される状況をよしとはしないが、慣れているのは事実だった。  ベッドに背を預け、膝を抱く。 (戻ってきちゃった、なあ……)  これは、嫌なさみしさだ。焦がれる人に会えないことを理解して、諦念がにじんでいる。  目を閉じて、楽しくて幸せなことがパンパンになるほど詰まった胸の内に思いを馳せた。 (もう会えないって、こんな気持ちなんだ。なんだろう、濡れたところに風が当たるみたいに寒い……)  この愛しい思い出があれば、この先も鈴はうまくやっていけるだろうか。いけるはずだ。だって環と二人でいたころは、一冊の雑誌だけで十二分に励まされてきた。  鈴はポケットから指輪を取り出した。慶が誕生日にくれた、鈴の宝物だ。彼の誕生日を迎える十二月には、そろいのものを鈴がプレゼントする約束をした。想い出にあふれた大切なもの。  合い鍵もどうにか回収したかったが、これを咄嗟に隠すので精一杯だった。  しかし見つかるのも時間の問題かもしれない。どのみち数時間後には環が帰ってきて、犯されて、おそらく今着ている服ごと廃棄される。明日の朝には彼好みの服を着せられて、言われるままワシントンへ連れて行かれてしまうだろう。  わかっていて、ついてきたのだ。  ――なのに。 (い……嫌、だ……)  感情が、この期に及んで拒絶を放つ。  うまくやっていけるはずがない。無理だ。  鈴はもう、独りぼっちじゃない幸福を知ってしまった。知ってしまったら、知らなかったころに戻れない。  思い出だけで満足できない人間に、細胞から作り替えられた。鈴は自分が今さら慶を失っても平気でいられるほど強くないことを、遅ればせながら気づいてしまった。 (慶くん……慶くんに、会いたい)  ――ほろ、と涙が落ちた。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!