プロローグ

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プロローグ

 本能的な危機感による目覚めだった。  ざっと肌が総毛立つ。ぼやけた視界に男の足が見えた。鈴は反射的に身体を起こそうとするが――もう遅い。 「ぅぐ……ッぅ、え、っう」  へそと鳩尾を覆うように腹へ乗せられた男の足が、薄く無防備なそこをぐっと踏む。  痛い。苦しい。だけど足首を掴んだら、怒られてしまう。  吐き気を堪えて腹に力を入れるが、貧弱な鈴の腹筋ではたいした抵抗になってくれなかった。  もしも深く、ここに体重をかけられたら。そのままぐりぐりとえぐられたら――過去に受けた痛みと恐怖がよみがえると、脂汗がこめかみに浮かぶ。 「た、まき、さん」  鈴の泣き腫らしたくっきり二重の垂れ目が、もうやめてと、非情な男を懇願するように見上げた。パーツすべてが小さな顔の最も見栄えする場所に収まる整った容貌は、絶望と怯えを隠せない。首を振り、本来はふわふわと柔らかいこげ茶色の髪を涙や汗で頬に貼りつかせた鈴は、声もないまま顔を引きつらせた。  気を失っている鈴に容赦なく暴力を働く男――織田環は、怜悧な優男の顔立ちに嗜虐の快感を浮かべ、ふんと鼻を鳴らす。  それでも散々に鈴を犯したおかげで、ずっと地にめりこんでいた不機嫌度はマシになっていたようだ。  「いい加減起きて。いつまで人の部屋で伸びてるつもり? ……シャワー浴びてくるよ」  あっさりと足が退くと同時に、鈴は片膝を折りたたんで床へ伏せる。  無様にうずくまる姿を面白そうに一瞥した男は、広い寝室を出て行った。  よかった。今日はもう終わったようだ。ようやく鈴のがちがちに緊張した身体から力が抜ける。  だが急いで片づけて自室に戻っておかないと、また不快な思いをさせてしまう。二人きりの家の中で彼の機嫌を損ねることは、腹を空かせた獣の鼻先に血の滴る腕を差し出すようなものなのだ。暴力には慣れているが、痛いのは、できれば避けたい。  だけど、一分だけ。  鈍く痛む腹を押さえ、鈴は発熱したように火照る頬を床へくっつけて目を閉じた。  環は海外転勤を来月に控え、引継ぎに忙しい。このところいつ見ても苛立っているのは多忙さが要因かと思っていたが、どうやら違うようだった。  鈴は環の家庭環境を詳しく知らないが、腹違いの兄がいることは聞いたことがある。その兄が、このたび環をワシントン支社に招致したそうだ。  彼らはそろって、父親が代表を務める大手総合商社に勤めているが、環は妾腹の生まれであるからか、兄弟仲は昔から他人よりも錆びついた関係だったらしい。  その兄が何を思って弟を呼び寄せるのかは鈴の知るところではないが、環は「馬鹿にしていられるのも今だけだ、俺が上だと示してやる」と、酒を飲みながら怯えるようにつぶやいていた。  そんな調子で鬱々とした気を叩きつけるように組み伏せられたものだから、蹂躙に慣れた身体も今夜は悲鳴を上げた。ずっと噛んでいた頬の内側は血が滲み、歯の形にえぐれてぼこぼこしている。  痛みで意識をつなげていたつもりが、本来性器でないそこを好き勝手されるおぞましさに気を失ってしまったのは失敗だった。どんな乱暴も、意識があるのとないのとではダメージがかなり違ってくる。  長年油をさしていない機械みたいにギシギシと軋む身体を起こし、ずり下ろされたチノパンと下着を履き直す。毎度のごとくふらふらしながら床に散ったごみを拾い、忍び足で自室へ戻ってか細く息を吐いた。  環が鈴に与えた部屋には、人が暮らすにあたって必要な家具がそろえられている。おかげで不便さはないが、親しみや愛着を覚えたことはなかった。それでもさっきの寝室の数百倍は心が落ち着く。  気力がなく、シャワーも着替えも諦めてベッドへもぐりこむ。  目を閉じれば数秒で眠りの深淵へ沈んでいけそうだが、枕の下から一冊のインテリア雑誌を抜き出すと、開き癖のついたページを開いた。 (何度見ても、好きだなあ……)  スタイリッシュで格好いい印象を受ける、ブルーの多いリビングの写真だ。  一見ごちゃごちゃと物が散らかっているように思えるが、天井から釣り下がった長さの異なる三つの変形ライトも、ウォールシェルフの色味や置物も、いちいちハイセンスで見ているだけで微笑んでしまう。  三人掛けのゆったりしたカウチソファには白いファー素材のカバーが敷かれ、同素材のクッションを抱いて腰掛ければ、さぞふわふわで心地いいだろう。  ――おかえりなさい。  ただ一言添えられたコピーを心の中で唱えると、じんわりとあたたかい気持ちになって、鈴はいつものように瞼を下ろした。  郷愁漂う素朴な木製のローテーブルへ、湯気の立つマグカップを置いて、テレビをながめてはときどき笑う。フリース素材で手触りのいい大判のブランケットで下半身をすっぽり覆い、マグカップを満たすミルクたっぷりのカフェオレを飲んで、幸せなため息を吐くのだ。  なんて素敵なひとときだろうか。想像しただけで、心が甘く溶けていく。  このページのインテリアを担当したコーディネーターは、紅本慶という男性だ。寒色をふんだんに使ってなお、あたたかみのあるリビングを作り上げながら、彼は何を思っていたのだろう。  きっとワクワクしたに違いない。出迎えたい誰かを、出迎えてほしい誰かを思い浮かべ、優しい気持ちだったに決まっている。だって、こんなにも幸せ色をした部屋なのだから。  環の指示で雑誌類の処分をしている最中にたまたま見かけて強く惹かれ、こっそり拝借して以来、鈴はつらいことがあったときにこのページを見る。少ないサンプルを経験と知識からひねり出し、理想の家を夢想するともう少し頑張れそうな気になれるからだ。  開きたがらない目をどうにかこじ開け、しんと静まり返った室内にげんなりする。  環に与えられた部屋、環が決めた配置、環が選んだ家具。飾り気はなく、とことん利便性を追求した部屋だ。ここに鈴の意見はないし、むしろ鈴だって環にとっては配置を決めた家具のようなものだろう。 (じゃなきゃ、こんなものつけたりしないよね……)  左の耳朶に刺さるバールピアスを、そっと手で覆い、ため息を吐く。そうでもしないと、虚しい息遣いが環に聞こえてしまうからだ。  美しく妖しい輝きのルビーのピアスは、環のもとに音声と位置情報を送っている。スクリューキャッチは嵌めるときに耐水性の接着剤を仕込まれたおかげで、引いても押しても回してもびくともしない。  環に「逃げてもすぐわかる」と告げられたとき、鈴の「逃げ出したい」という感情は一度死んだ。  だけど転勤話が出たとき、鈴に芽生えたのは一度死んだはずの逃亡願望だった。  自分で自分のことを考え、選び、選択の責任をとりたい。このままじゃ、駄目だ。  鈴は自身が、家具でも八つ当たり用のぬいぐるみでもないことを思い出したのだ。  逃げて、逃げて、誰も鈴を知っている人がいない場所で、今度は作りたい。独りぼっちでもいいから、自由に選び、自分で自分を生かしてみたい。  チャンスは一度だけだ。  環が日本を発つ日――このピアスをはずしてくれるかもしれない、その日だけ。
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