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それから、三年の月日が過ぎた。
三年前、長きにわたって鈴が従順だったおかげか環は油断しきっていて、思いのほかあっさりとことが運んだ。
空港の金属探知機にピアスが引っかかることは滅多にないと鼻で嗤われたが、万が一はずすことになったとき、接着剤で固まったそれを空港内で器具を使って壊すわけにもいかない。念のためだと懇願し、キャッチごと壊してもらうことに成功した鈴は、こっそり貯めていた現金と少ない荷物だけを持ち、環がシャワーを浴びている隙に逃げた。
鈴にとっては一世一代の逃亡劇だった。
逃亡先で運よく仕事にありつけ、今こうして平凡な生活ができている奇跡には、神への感謝だけでは足りないくらいだ。
「――じゃ、先に僕とあっちゃん、ごはん行ってくるね~」
店舗二階の事務所に、朗らかで間延びした声がとおる。
雪片鈴がPCの液晶画面から顔を上げると、財布を手にした鮫島がにっこりと無邪気な笑みを浮かべていた。
彼は【セレクト家具・インテリア雑貨のお店 il luogo/イル・ルオーゴ】の店長だ。
三十歳とは思えないほどやり手のさわやかな青年だが、ニコニコと笑みを崩さない目元は実は鋭い。普段は明るくて誰とでも仲良くなれる人畜無害な人だが、ときどきクレーマーや無理難題を吹っかけてくるクライアントには、猛禽類のような厳しい瞳を見せるときもあった。
「わかりました。いってらっしゃいです、鮫島さん」
小さく手を振る鈴を見て、鮫島は孫を見る祖父のようにでれっと相好を崩す。
「すーがお腹空いて死んじゃう前に戻ってくるよ」
鮫島と鈴を含め、ここで働く社員は五人だ。まずは鮫島と、一階店舗で接客を担当する社員、「あっちゃん」の二人が先に昼食へ出ることが多い。
鮫島が事務所を出ていくと、鈴は向かいで仕事をしている周防をひょっこりと覗きこんだ。
「周防さん、下、どうしましょうか」
残った三人で店をまわすときは、店舗二人、事務所一人に分かれるのがいつものやり方だ。もう一人の社員が先に下へ降りているので、鈴か周防のどちらかがヘルプに行くことになる。
SEでもある周防はものすごい速さでキーボードを叩いていたが、声をかけると眼鏡の奥にある物静かな黒の瞳を時計へ走らせ、それからいつなんどきも変わらない淡々とした調子で言う。
「あと十五分したら出版社から電話があるから、すーが下行ってくれるか」
ここで仕事をするようになって約三年経つが、未だに鮫島が決めた「すー」というあだ名を周防の口から聞くと不思議な気分になる。周防は無口で物静かなぶん、呼ぶ回数が圧倒的に少ないからかもしれない。
「わかりました。じゃあ行ってきます」
環の指示で経理・事務関係の資格を複数持っていた鈴は事務全般担当だが、店舗の広さと忙しさのわりに社員数の少ないイル・ルオーゴでは全員が協力し合って業務をこなしている。あまり接客は得意ではないものの、「困ったときはみんなで助け合える」と根気強く教えられ、店舗に立つこともそれほど不安ではなくなった。
一階へ下りるともう一人の従業員はレジ付近にいて、インテリアコーディネーターの資格を生かし、お客様の対応中だった。
まだ日中のため、最も混む夕方以降と休日に振り分けているバイトクルーはいない。店内を見まわりつつ商品のチェックを行っていると、一人の男性客が鈴に声をかけてきた。
「すいません、ホームページに載ってるランプなんですけど……」
「はい、おうかがいします」
緊張で背を伸ばし、マニュアルを心の中で復唱する。
(ヒアリング、在庫のチェック……僕で対応しきれなかったら、迷う前にちゃんと頼る。大事なのは、お客様に満足してもらうこと)
イル・ルオーゴとは、イタリア語で空間や居場所という意味だ。
教えてくれた鮫島は、お客様にもスタッフにも居心地のいい場所でありたいのだと優しい声で言っていた。その言葉を思い出すと、鈴は少しリラックスして笑顔を浮かべることができる。
男性は人気商品のドーム型テーブルランプを所望したが在庫を切らしており、入荷待ちになると説明する。少し残念そうだったが、同じ会社の別タイプのランプを気に入ってくれた。
「では、レジへご案内しますね」
「待って。……あのさ」
商品の箱を抱いた鈴を、男性客が引き留めた。心なしか声を潜め、鈴の手に自身の名刺を握らせる。
「これ、俺のプライベートの番号。もしよかったら電話してほしいな。前から君と話してみたかったんだよね」
名刺の裏には十一桁の数字が手書きで綴られている。
ランプを選んでいるとき、彼は引っ越したばかりの自宅のインテリアにこだわりたいのだと言っていた。
鈴にはインテリア系の資格はまだなく、的確なアドバイスはできない。だがこの店には鈴が惚れこんだ、頼れるコーディネーターがいる。間を取り持てば、男性の手助けになれるだろう。
鈴は男性を見上げ、しっかりとうなずいた。
「わかりました。今夜でよろしいでしょうか?」
「え、もちろん!」
男性は嬉しそうに笑みを浮かべ、ほっとした様子で鈴へ身を寄せた。ほっそりとした肩を抱かれ、ずいぶんフレンドリーな人だなと感心する。
「ちなみにさ……昼休憩、いつ?」
「ええと、このあと三十分ほどしてから……でしょうか」
「じゃあ君さえよければ、このあとでもいいよ?」
昼食をとるための休憩時間だが、大切なお客様の相談に乗れるならずらしても構わない。
「ええ、ぜひ。お客様のご都合がよろしければ」
「本当!? 嬉しいよ、可愛い店員さんだけど、積極的で。勇気出して声かけてみてよかった……期待しちゃうなあ」
「ご期待に沿えるよう精一杯がんばります」
目指す部屋はどんな雰囲気だろう。希望を叶えるためには、どんな家具が合うだろう。
しっかりヒアリングして役に立とうと、鈴は胸を期待でふくらませる。
そのときだった。
「お客様、私的なご相談はご遠慮願います」
背後からにゅっと顔のそばへ生えた手が、鈴の握っている名刺を奪っていった。
鈴と男性客が振り向くと、そこには百九十を超えるがっちりした体躯の長身男性が胡乱げな顔で立っている。黒髪の下から覗く三白眼の鋭い視線にぎろりと見据えられ、鈴の肩を抱いていた男性客が「ひっ」と怯んで一歩離れた。
「し、私的ってことはないんだ、ただちょっと……」
「ちょっと、なんでしょう? ああ、インテリアのご相談でしたか?」
「そうだ、そう。彼に相談に乗ってもらおうと」
「さようでしたか。失礼いたしました。ご相談でしたら、私が」
え、と困り果てたような男性客に、鈴は嬉々として説明する。
「彼は当店のインテリアコーディネーターです。お客様のお悩みも、僕が間に入るより直接お話するほうがよいかと思います。きっと素敵なお部屋になります!」
鈴の詰め寄るような勢いに、男性客は軽くのけぞる。
褒めちぎられることに慣れている社員は鈴を男性客から離すと、名刺を自分のポケットにしまった。
「お急ぎでしたら、すぐにご案内いたします」
「いえ……あの、そんな、恐れ多いので結構です……また今度お願いします……」
おずおずと首を振り、男性客は口元を引きつらせる。
そこへ割って入ったのは、魅惑のハスキーボイスを持つ、イル・ルオーゴの看板娘だ。
「ではお客様、お会計はこちらです」
ふわっとした栗色のロングヘアをゆるく右耳の下で結った社員は明音だ。鮫島にはあっちゃんと呼ばれている。
目鼻立ちのはっきりしたエキゾチックな顔立ちだが、ナチュラルメイクがその雰囲気を和らげていると評判高い、文句なしの美人だ。
鈴と同じくらいの身長は女性にしては高めだが――それもそのはず、明音は実は男性だった。優美な美女に見える彼の中身が愉快犯で、「楽しい」と「面白い」を追求して生きる自由人だと知っているのは、従業員と常連客くらいだ。
明音が有無を言わせない威圧感で男性客をレジへ連れて行くと、残された鈴の頭を、背後の社員――紅本慶が、大きな手でくしゃくしゃ撫でた。
「――で」
三年前のあのころ、あたたかなインテリアを作り上げるこの手が、こんなふうに鈴へ触れるだなんて考えたこともなかった。
「すーさん、なんで番号なんか受け取ったんです?」
慶は怒ったように眉を寄せているが、あくまで見せかけだ。
声色と雰囲気でそれがわかった鈴は、撫でられる心地よさに目を細めかけ、「すーさん」と呼ばれて慌てて頭を下げる。
「すみません、ご相談なら僕では役不足なのに……先に慶くんのご予定をお訊ねするべきでした」
「うーん、そういう意味じゃねえんですけど……まあいいや。なんも変なこと言われてない?」
「いいえ、何も。ただ、後ほどお電話を……とのことだったので、よほどお悩みなのだろうと思ったのですが……本当にもういいのでしょうか、あの方」
明音から袋詰めされた商品を受け取った男性客はちらりとこちらに目を向け、鈴の背後を見て会釈すると、怖いものを見たような素振りでそそくさと退店していく。
鈴は何があるのかと振り向いてみたが、三白眼を優しく細めた慶が「いいみたいですね」と笑っていただけだった。
「ならいいのですが……これからはきちんと慶くんに訊いてからにします。お客様にもご迷惑をおかけしてしまいますもんね」
「すーさん真面目だなあ……ん、いい子いい子。誠実なすーさんらしい接客、俺は好きっすよ」
見上げ続けると首が痛くなるような長身と目つきに加え、短眉も唇の薄さも、慶の近づきがたさに一役も二役も買ってしまっている。さらに耳殻や軟骨までを飾るピアスや分厚い胸板の威圧感も相まって、慶は大抵初対面で怖がられるタイプだ。
だが内面は一つ年下とは思えないほど成熟した大らかな男で、気性は穏やかだった。鈴のふわふわと落ち着きがない茶色い猫毛を撫でる手は、生まれたての子猫をあやすように優しい。まるでとても大切な宝物になったようで、鈴はへらりと笑った。
「嬉しいです。もっとちゃんと一人でも接客できるように、頑張らないとです」
「いいじゃん、すーさんいつも頑張ってるからさ、難しいときは頼って。俺は前みたいにすーさんがなんでも訊いてくれるほうが楽しいです」
研修期間中、鈴の教育係だった慶はしみじみと「おっきくなっちゃって」と言う。小さな子どもの扱いだが、彼の目尻に寄った笑いじわが愛嬌たっぷりで、鈴はなんだか幸せな気分だった。
「おっきくなりました。慶くんが、たくさん助けてくれたからです」
「そ? じゃあお礼してもらいましょっかね」
「はい! なんでしょう」
「昼飯、一緒に来て」
お礼だなんて言わずとも、慶の誘いなら鈴は喜んでついていく。なぜなら――鈴は彼のことを、尊敬するとともに恋愛感情で好きだからだ。
恋しい相手と二人きりで食事だなんて、礼どころかただのご褒美でしかない。
「もちろんです! ご一緒させてください」
一も二もなくうなずくと、慶は癖みたいに鈴の頭を撫でる。約二十センチの身長差は撫でやすいのかもしれない。
「んー素直。じゃ、明音さん帰ってきたし、上には周防さんいるし、さっさと行きましょっか」
事務所に声をかけ、慶と連れ立って店舗を抜ける。他愛もないことを話しながらすっかり見慣れた街を歩いていると、鈴はいつも感慨深い気持ちになった。
イル・ルオーゴは鮫島が、幼馴染の周防と明音を誘って作った店だ。
彼らより三歳年下の慶は学校こそ一緒に通えなかったそうだが、学生時代にひょんなことで知り合って以降、鮫島たちに可愛がられていたらしい。だからこそ慶は店のためになる資格を複数取得し、三人を追ったのだと聞いている。
そんな仲のいい気心知れた社員同士の中に、これまで他人とのコミュニケーションをほぼまともに経験せず生きてきた鈴が飛びこむのは、相当勇気がいった。慶はそんな鈴に仕事を教えながら、根気強く、輪に入れるよう、溶けこめるよう手を尽くしてくれたのだ。
思えば鈴がイル・ルオーゴに就職できたのも、慶のおかげだった。
環のもとを逃げ出したあの日、ふらりとこの町に寄ったのは思いつきだった。環の束縛と支配から自由を得たのは実に約十四年ぶりで、強い不安と同じだけ、鈴は興奮していた。
飛び乗った電車から見慣れた景色が遠ざかっていくうちに、これからはどこへでも行ける、と思った。脳裏をよぎったのは、心の支えだった紅本慶の働く店をこの目で見たい、という素朴な自我だった。
雑誌に掲載されている住所を頼りに店舗を見つけ、磨き上げられたガラス壁から開店準備中の店内をうかがう。
商品棚が間にあってはっきりは見えなかったが、手広なフロアの奥まった辺りにダイニングセットが展開されている。グリーンカラーの多いインテリアはその一角だけ森の中のようで、今にも椅子やテーブルには森の動物たちが愛らしく腰を下ろしそうに思えた。
瑞々しい自然の香りを肺がいっぱいにふくらむまで吸いこめば、洗い立てのシャツを着るより清々しい気分になれそうだ。きっとあのダイニングセットでなら、苦手な食べ物でも美味しく食べられるに違いない。
ガラスに触れて汚さないよう気をつけながら、熱心に見つめては想像して和む鈴の背中へ、警戒を滲ませて声をかけてきたのが、遅めに出勤してきた慶だった。
たしか少しの間、彼と会話をした記憶はある。だが最も強く憶えているのは、「働かせていただけませんか」と、生まれて初めてと言っていいほど強い自己主張をしたことだ。
今思い出しても、慶がなぜ鮫島に引き会わせてくれたのか謎でならない。鈴は開店前にガラス壁へ張りついている、不審な男でしかなかったというのに。
社員数四名のイル・ルオーゴは、鮫島が買いつけなどでしょっちゅう海外へ行ってしまうため、慢性的な人員不足に喘いでいた。だからか、鮫島は慶が鈴を連れて事務所へ行き、事情を話すと、鈴の頭から爪先までをじっくり真顔でながめた結果、困惑するほどあっさりと「いいよ! 今日からよろしくね~」と言い放ったのだった。
その信頼と期待にぜひとも完璧に応えたいが、うまくいかないことも多い。もっと頑張らねば、と改めて感じていると、向かいの席に座った慶の長い指先が、鈴の目の前でくるくると円を描いた。
「……?」
とにかく声の大きな女性店主が切り盛りするお好み焼き屋の一角で、鈴は首を傾げ、なんとなく揺らぐ指を捕まえる。
すると慶はくっくっと楽しそうに広い肩を震わせた。
「すーさんってさ、ほんともう、びっくりするくらい可愛いことすんね」
「かわ……? すみません、揺れていたのでつい」
「謝ることないですよ、褒めてるんで。トンボはこうやったら指先に止まるって聞いたことあるけど、まさかすーさんが止まるとは」
「僕トンボじゃないですけどいいですか?」
「いいですよ全然、……ふ」
鈴の指を捕まえ返すように軽く握り、慶が手を離す。
今日はいい日だ。頭も撫でてもらえたし、手までつなげた。
嬉しくて密かにそわついていると、慶が何気ない様子で切り出した。
「すーさん、訊いてもいい?」
「はい、どうぞ」
「すーさんて俺のこと好きでしょ」
――衝撃を受け、悩んだのはたったの一瞬だった。
「はい、好きです」
ほぼ即答だった返事に慶は束の間瞠目するが、柔らかい吐息で吹き出した。
「ふは、ごまかされるかと思ってた」
「そんなことはしません。あの、ええと……好きになってしまって、ごめんなさい。同性に好かれていることを知らせるのはどうかと思ったのですが、慶くんに嘘をつきたくないので、言うことにしました。身勝手で申し訳ないです」
大切な先輩です、と平然と言えばいいのだろうが、慶に恋するこの気持ちを鈴自身が否定することはしたくない。彼にとっては傍迷惑だろうが、逃げ出して得た新しい人生では、もうこれ以上不誠実な安穏に逃げる気がなかった。
慶はゆっくりと首を振る。薄い唇をほころばせた微笑には、特に嫌悪感や拒絶は浮かんでいない。
「謝んないでくださいよ、俺は嬉しいんで」
「そうなんですか?」
「そうなんです。それに念のため訊いたけど、好かれてんのはわかってましたしね」
「……そうなんですか?」
「そうですよ? だってすーさん、大好き大好きって、目とか態度でいっぱい言ってくれるんですもん」
本人に悟られるなんて、なんと恥ずかしい。
鈴は思わず両手で顔を覆う。だが「顔赤いですね」と慶に笑われると、見えているものを隠す意味がわからなくて手を下ろした。
「あの……でしたらなぜ、直接確かめるような真似を……」
「俺から訊かないと、すーさん一生言ってくれなかったでしょ。なんでこんなに好きになってくれたんかなって、聞いてみたかったし」
一生言う気がないのは当然だ。慶への恋心に、外の世界を見せてやる気は露ほどもなかった。
それでも「どこが好きですか?」と期待した瞳で問われて腹をくくる。慶の知りたいことを隠すなんて、鈴は考えもしない。
「慶くんを……好きだなあと思ったのは、結構前でした」
この町に腰を据えることに決めた鈴は、言い知れぬ不安の中にいた。
仕事を覚えることと、一人の生活に慣れることで精いっぱいな中、ふとした瞬間に腹の奥からにじり寄ってくるのは、環に見つかることへの恐怖だった。
逃げ出した鈴を探すほど暇な男ではないが、もしも探していたら? 居場所を突き止められたら――?
そうやって警戒心ばかり高まっていた鈴には、憧れの紅本慶ですら恐ろしかった。
不意にかたわらへ立たれると、その大柄さにビクついてしまうことが何度もあった。環を彷彿とさせる要素を持つ男性には、身体が勝手に身構えてしまう。
不自然な鈴の態度に、慶だって気づいていただろう。きっと不快だったろうに、彼は仕事に関係ないことでも積極的に話しかけてくれた。
どう反応すればいいかわからず、あたふたしては言葉に詰まり、かろうじて謝罪を繰り返す。普通にできない自分が情けなくて一層口が重くなり、もうとっくにないと思っていた自信を毎日すり減らしていった。
そんなある日、鈴が初めて店頭に立って接客したのは――運悪く、大柄な男性二人組のクレーマーだったのだ。
睨みつけられ、厳しい言葉をぶつけられ、重なったのは環が激昂しているさまだった。
日中の、他に人のいる店内だ。そうそう殴られることなどないと、鈴だって頭ではわかっている。それでも長い間環の暴力に晒されてきた身体は反射的に竦んでしまう。言葉も出てこなくて、怯える様子がより二人を苛立たせた。
――そこに現れたのが、対応中の客を待たせてまで飛んできてくれた、慶だった。
「僕がお客様にきちんと対応できないでいたとき、慶くんが助けてくれましたよね」
「あれはあの客が無理言ってたんだから、対応できなくってもしゃーないですけど。なになに、あんときの俺、かっこよかった?」
ニッと口端を左右に引き、慶が誇らしげな顔をする。
鈴は満面の笑みでうなずいた。
「とっても、とってもかっこよかったです。僕は……体格のいい男性が少し苦手なんですが、それでもあの日、慶くんの背中は怖いものではなくて、とても頼もしいものに思えました」
年下の同性の背中に隠される、という状況は、ともすれば屈辱だったのかもしれない。だが鈴はクレーマーを宥める慶の背中を見て、かつてない安心感を抱いた。
強張る背中を優しく撫でくれたあたたかい手と、「もう怖くないすよ」と言ってくれた落ち着いた低い声を、はっきり憶えている。
「男のくせに情けないって言われても仕方ないのに……本当にありがたかったんです」
「俺としては今でも、もっと早く行ってあげれてたら怖い思いさせなかったのにって後悔してんですけどね」
「そんな! 慶くんは僕のヒーローですよ!」
「マジで? じゃああの日の俺のこと、褒めときます」
慶が鈴を救ってくれたのは、あの日だけじゃない。
環の家にいたときも、初めて店を訪ねたときも、仕事を教えてくれたときも――いつだって慶は鈴のヒーローだ。
淡い色をまとって生まれた恋に、それから三年をかけて鈴は愛しさを足していった。今や彼への気持ちは、鈴の心のど真ん中になくてはならないものへ成長している。
初めての、恋なのだ。
報われないと思えば切ないが、鈴にとってはその痛みすら甘く、自由に生きている証だった。
だから大袈裟でなく、鈴は、慶でできていると思うのだ。
「あれからずっと慶くんと一緒に仕事をさせてもらって、本当に、どこもかしこも素敵な人だなって思うんです。どこが好きか……と訊かれると、僕としては全部ですってお答えするしかないのですが」
「そっかー、全部かー。すーさんめっちゃ俺のこと口説いてくれますね」
「あ、ええと、だからと言って返事を迫る気はありませんから、忘れてくださいね」
「忘れろって……」
ニコニコしていた慶が一転、憮然とつぶやく。
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