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3
想定よりも早いお別れになるが、鈴は十二分に幸せだ。
「だから……あの、慶くん」
「――今度のデートは」
え? と発した疑問の声は、「どこがいいかなー」と悩む慶の声で掻き消える。
「あ、そうだ。すーさん家でおうちデートしたいです」
鈴は信じられなくて唖然とする。
「また……デート、してくれるんですか?」
「え、当然でしょ。俺、恋人とはいっぱいデートしたい派ですもん。次はまったり二人きりがいいですね」
「まったり……二人きり……?」
「うん。お土産持ってくから、行っていい?」
「はい……!」
ベッドの真ん中に横たわる無人の空間を狭めることなく、慶は鈴のほうへと右手をぽんと伸ばす。
「嫌じゃなかったら握ってみて」
緊張を帯びる指先で触れてみた。
乾いて、硬い指だ。でも握り返してくれるそれはとてもあたたかく、小さな子猫になって、この手に頬ずりしたくなる。
「手、いいな……大きいです」
「いいでしょ。でかいし力も強いからさ、人よりいっぱい、いろいろ持てんの。だから安心して寄りかかってくださいよ」
にぎにぎと感触や温度を確かめ合うように指を絡ませた。
熱心に手を触る鈴を見つめ、慶は悪戯っ子みたいに茶目っけたっぷりに言う。
「イチャイチャしちゃいましたね、俺ら」
「――はい、しちゃいました」
鈴の不安も、罪悪感も、慶は呆気なく壊しては、代わりに幸福感を置いていく。この調子で彼の置き土産が増えていったら自分が自分じゃなくなってしまいそうな気がして少し怖い。
なのに鈴は、そんな自分を知りたかった。
*
鮫島が「飛んでっちゃいそうな顔してるけど重りいる?」と何度か訊いてくるくらい、夢心地な一週間が過ぎた。
今日は、おうちデートの日だ。
念入りに部屋の掃除はすませたし、昼食の下ごしらえもばっちりできている。落ち着かなくて部屋を歩きまわっていた鈴は、約束の午後十二時より五分早く鳴り響いたインターフォンで、玄関へ飛んで出た。
「い、いらっしゃい、ませ」
勢いに目を瞠った慶が、思わずと言ったふうに笑う。
「こんちは。……かわいーね」
「……? あっ」
視線がどうも頭上へ向かっているように思えた鈴はハッとして、まとめてピンで止めていた前髪を下ろした。柔らかい髪が、晒していた額をぱらりと隠す。
「これはその、違うんです、前髪が邪魔で……すみません、みっともなくて」
「どこが? もうちょっと見てたかったくらい可愛かったです」
「えっ。それならもう一度上げてきます!」
「ふは……っ、いいよ、また今度の楽しみにとっときます。気にしないでね、すーさん」
「すみません……あ、どうぞ」
「お邪魔します」
好きな人を家に招き入れるのも、それが恋人であるのも、鈴にとっては初めての経験だ。自宅だというのに客である慶よりずっと緊張したまま、彼を部屋へ促す。
「うわ、すーさんっぽい」
「そうですか……?」
築二十七年の木造アパートの二階に位置する部屋は、1Kでこぢんまりとしている。玄関を開けてすぐのところにあるキッチンから奥の洋間を覗いた慶は、少年のように目を輝かせて鈴を振り返った。
「だって綺麗だし、なんかレイアウトが控えめで可愛いです。俺のアドバイスしたミニサボテン、置いてくれてるんですね。売れ残ってみんなで分けたタペストリーもちゃんと飾ってくれてるし……全体的にグリーン多めで、癒されます」
――ふわっと、また鈴は浮き上がったような気分だった。
手狭なこともあって物は多くないが、それでも鈴なりに自分で考えて選んだ家具や小物を、思うように配置している。
それを手放しに褒め、「鈴らしい」と言ってくれた。鈴にとっては最高の賛辞で、自分を「雪片鈴」だと認めてやれる言葉だった。
「ありがとうございます……憧れの慶くんにそう言ってもらえると、すごく嬉しいです。なんか足りないなあって、いつも思っちゃうんですけどね」
「そういうのって感覚的なとこもあるだろうし、よかったら相談乗りますよ?」
「頼りにしてます。どうぞ楽にしてください、お茶淹れますね」
茶を出してしばらくしてから、鈴は昼食を振るまうからと席を立つ。
オムライスを仕上げて部屋に運ぶと、テーブルの上には見覚えのあるランチョンマットが二枚、向かい合わせにセットされていた。
「え、それ……」
慶が連れて行ってくれた北欧インテリアショップにあったマットは、鈴好みのグリーンカラーが一枚、慶が好きだといったブルーカラーが一枚。柄は同じだった。
「初めてのお土産は、これにしようって先週から決めてたんです」
してやったり顔の慶が立ち上がり、あまりの衝撃に固まる鈴の手からオムライスを二皿奪っていく。
「うまそー」
テーブルの前に座らされたことに気づいたときには、今日のために買ったスープカップをコンソメスープが満たし、オムライスのそばに添えられていた。盛りつけて冷蔵庫に入れてあったサラダボウルまである。グラスとカトラリーも並び、向かいに腰を下ろした慶は煮出した麦茶まで注いでくれた。
「さ、食べましょっか、すーさん」
「え、準備できてます……なんで……?」
「プレゼントに感動して動けないすーさんが可愛いから、俺がやっちゃいました。勝手にいろいろ触っちゃったけど、大丈夫です?」
「あ、それは全然、はい、や、っていうかお客様に用意させてしまってすみません……!」
「いえいえ、好きでやったんです。すーさんこそ、作ってくれてありがとうございます。あとで一緒に皿洗いしよ」
行儀よく手を合わせる慶に倣い、慌てて「いただきます」と言う。自宅で誰かと向き合って食事をする興奮が込み上げてきて胸はいっぱいだったが、嬉しそうにオムライスを頬張る慶を見ると、くうっと腹が鳴った。
「んまいです。卵とろっとろでお店みたいですよ、すげえ」
「よかった……! 卵が好きって以前うかがったので、これなら大丈夫かと……」
「俺なんでも食べますよ? すーさんの手料理だったら嫌いなもんも食べるし」
んま、んま、と子どもみたいに繰り返す慶の皿から、どんどんオムライスが消えていく光景に感動すらする。
環は鈴に毎日食事を作らせたが、残さない代わりに何を食べてもコメントはなかった。うまいのか、まずいのかすらわからなかったから、慶の反応を見てほっと胸を撫で下ろす。
食後は彼の宣言どおり、二人で片付けをした。皿洗いは単純に使った器具や食器を洗う作業だと思っていたが、慶と分担しながらやると楽しくて、驚くほど早くに終わってしまって物足りないくらいだった。
それから慶が持ってきたタブレット端末をテーブルに立て、映画を見ることになったのだが――ここでちょっとした悶着があった。
とはいえ恥ずかしがる鈴では、丸めこみにくる慶の攻撃は躱せず――。
「お……重くない、でしょうか。足は痺れていませんか……?」
立てた膝をしっかりと抱え、ちらりと背後をうかがう。
ベッドに背を預けている慶は、「全然」と苦笑した。
「痺れるも何も、すーさん俺にもたれてくれないんですもん」
「それは、だって、僕は小さくも軽くもないので……」
「すーさん抱っこして痺れたかったんですけど」
「慶くんはたまに変なこと言うんですね……」
足や腕が痺れるなんて、誰だって嫌がるはずなのだけれど。
――画面が小さいんだから、すーさんが座んのは俺の膝です。
真顔で言った慶は鈴が顔を真っ赤にして恥ずかしがっても、「可愛いです」と笑って、逃げることを許してくれなかった。
彼のことだから遠慮せずに寄りかかって足が痺れたところで怒らないだろうが、さすがに鈴がいたたまれない。鈴の膝に慶を座らせるなら問題ないのだが、彼はその提案を無言と笑顔で一蹴してしまった。
結局体重をかけないようあぐらをかいた足の中心に尻を下ろしたため、慶は少し不満そうだったが、痺れさせるよりはいい。
これが鈴の限界だと悟ったようで、さらなる譲歩は求めてこなかった。
「……あの、慶くん」
「ん?」
立てた膝頭をじっと見つめる。
再生ボタンをタップしてから座る場所についてのやり取りが始まったため、鈴は画面内で剣を振る戦士たちが誰で、なんのために息を切らせ、血と涙を流しているのかを知らない。
だから、どうしても別のことに気を取られてしまうのだ。
「お訊きしたいことがあるのですが」
どうぞ、と促すように頭を撫でられ、膝頭の上に両手を置いて精一杯かしこまる。
「今日は……セックスは、しますか?」
「そうくるか……」
慶がどんな顔をしているのか、振り向いて確認する勇気はない。
鈴は意図せず早口にまくしたてる。
「あ、あのですね、前回のように不快な思いはさせたくないので、確認をとってから支度をするべきかと、思ってですね、ええと、いえ、映画中にすみません、その、お待たせするくらいならこの間に僕が準備をすればいいのではと考えただけで、決して映画が嫌なわけじゃないんですが」
「はいはい落ち着いてー、深呼吸しましょ。すー、はー、すー、はー……」
大きな手が背中に当てられ、「さんはい」と幼稚園の先生みたいな掛け声をかけられた鈴は釣られて息を吸う。慶が呼吸を合わせてくれて、一緒に深く吐き出した。
新鮮な酸素が肺にわだかまった余計なものを輩出してくれたみたいに、焦りが治まる。
「突然すみませんでした。もう大丈夫です」
「よしいい子。じゃ、こっち向きましょうね」
「えっ? あ、待って、あの……っ」
ひょいと身体を反転させられた鈴を迎えたのは、穏やかな表情の慶だった。逞しい腰の両側に足を持っていかれ、膝の間にちょんと尻を落とす。
向きが反対になっただけで異様に近づいた気がするのは、なぜだろうか。
「ち、近い……」
「かわい。されるがままなとこも可愛い。でね、すーさん」
抵抗しなかったのは余計なことをして嫌われたくないからで――と弁解すべきか否か逡巡した鈴は、改まった慶の声で不安そうに顔を上げる。
「……はい」
「今日は、しません」
安堵と落胆がパン生地のように腹の中でこね併せられ、複雑な味の種ができあがる。こんがり焼いてしまえればすっきりしそうだが、食べても美味しくはなさそうだ。
「そう……ですか。すみません、変なことを訊きました」
しょんぼりと落ちた鈴の肩を、宥めるように男の手が這う。
「今日はまず、キスがしたいです」
「……まず?」
キスはセックスのとっかかり的な意味合いのある行為だったのだろうか。
ぱちくりと大きな垂れ目を瞬かせる鈴の頬へ、慶が片手を添える。きょとんとしたまま半開きの唇へ、彼の唇が触れた。
ほんの軽く表面を押しつけるだけのキスだ。
一瞬で離れてしまったそれを目で追うと、薄い唇が弧を描いた。
獲物を狙う鷹みたいに鋭い瞳は、白い部分との比率によって獰猛に見える。だけど目の前にいる慶の瞳から感じるのは、透きとおった愛おしさに思えた。
「初めてチューしましたね」
「あ……い、まの、キス?」
「そうです。キス初めて?」
どう答えればいいのかと悩んでしまう。
環は射精に直接関係のない行為を好まないから回数は少なかったが、口と口を合わせて唾液を飲まされたり、舌を噛まれたりする征服じみた行為なら経験はある。
だが慶がしたキスは触れるだけだったし、痛くも怖くもなくて、ふわっと気持ちがよかった。鈴の知っているキスとは何かが違う。
じっと見つめられていると顔は熱くなって、なんだか勢いで「もう一回」と言ってしまいそうで、鈴はうつむいた。
「くち……が、くっついて、嬉しいのは、初めてです」
「……そっか。なら、もう一回したいんですけど、許してくれる?」
「え、はい、あの、僕も……っん、ぅ」
慶は目尻にしわを寄せ、鈴の頭を軽く引き寄せる。顔を傾け、少し開いたままの唇を合わせてあむあむと食まれると、鈴はうっとりと彼の服を握りしめてしまった。
びっくりするほど慶のキスは気持ちがいい。どの程度かというと、ずっとしてて、と駄々を捏ねてしまいそうなくらいだ。
「ふぁ、ん……んっ、ん、けいく、っふ」
「やじゃない?」
「嫌じゃないです、きもち……っん、んん」
褒めるように頭や目尻を撫でられて、心地よさが爆発しそうだ。彼の体温が唇に触れたり、すり合わされるたびに、敏感になった神経を甘く慰められて恍惚とする。
慶の長い指先がうなじから後頭部にかけての地肌を優しく撫で、ぞくぞくと背中がおかしなふうに震えた。
「ぁ、は……っ」
「ん……俺も気持ちよかったです。すーさんのくち、やわこい」
「慶くんは……あったかい、です」
しつこくキスをねだってしまいそうで、おずおずと慶の肩に顔を伏せた。
彼は嫌がることなく、後頭部や背中をとんとん撫でてくれる。鈴が身体を預けても潰れない逞しさは羨ましいと同時に、やはりひどく魅力的だ。
「あの……さっき『今日は』と言ってましたが、キスが終わったから、しますか……?」
キスがとっかかりなら、次はセックスだ。
今度こそ合っているだろうと半ば確信をもっていた鈴は、笑い交じりに「しません」と言われて唖然とした。
「そんな……でも、ああいうキスでは、慶くんはすっきりしないんじゃ……?」
「前も思ったけど、すーさんの知識は偏ってますね。や……違うか。不自然に寄せられてんですよね」
「……不自然、ですか?」
一体自分はどんな粗相をしてしまったのだろう。
不安になるが、慶は言及せず唐突に指を二本立てた。
「俺ね、すーさんの前に二人、女の子と付き合ってたんですよ」
「え?」
「そんで毎回、この子と結婚して一生添い遂げるって思ってました。だから付き合う前に、この人と一生暮らせんのかな、同じ墓に入れっかなってじっくり考えてから付き合うことにしてるんです。なんとなく付き合ってみるっていうの、あんま向いてねえみたい」
鈴が慶の内面を知らず、見た目から受ける印象しかもっていなかったら、ここで目を瞠って無意識に「うそ……」とつぶやいていたかもしれない。
だが彼がどれだけ誠実な男か、鈴は三年分知っている。
だからこんなにも好きになった。
「はい……慶くんは、そういう人だなって思います」
「ありがと。だからさ……俺は恋人をフったことないんですよ」
「え、じゃあ……慶くんをフるなんて、そんなことあるんですか……?」
「すーさんは俺のこと大好きだから、そう思ってくれるんですね。でも全然ありますよ。仕事で遠距離になって向こうがギブアップしたとか、他に好きな人ができた……っていう理由なんで、喧嘩別れじゃないんですけど」
鈴には想像がつかない。こんなにも素敵な人を手放すなんて、過去の彼女二人は損をしている。
おかげで今鈴と恋人になってくれたと思えば複雑だが、彼とさよならして得なことなど、この世にないと思うのだ。
不満そうな顔をしていたのだろう。ぐしぐしと、優しく大きな手が鈴の頬を揉みほぐすように動く。
「……実はよく、明音さんに『なんで早くすーちゃんと付き合ってあげないの?』ってからかわれてたんですよね」
「えっあ、明音さん、知って……!?」
「鮫島さんも周防さんも知ってます。誰も俺らのこと知っても驚かなかったでしょ?」
「それはそう……ですね、や、けどバレてたとは思ってなくて……」
「だってすーさん、すっげわかりやすかったんだもん。おっきくてキラキラした目が、いっつも俺を見てくれてんの。大好き、こっち見てって。もうさ、そんなん可愛すぎてさ。気づかない振りすんのも結構大変だったんですよ?」
「すみません……」
隠しているつもりだった鈴はくらくらするほど恥ずかしく、顔を両手で覆う。
しかしその手を下ろさせた慶が、赤い頬に、頬ずりした。
――死んでしまいそうだ。
「ずうっとすーさんのこと見てて、いっぱい考えて、思ったんです。俺、すーさんと一生一緒にいてえなって」
触れたままの頬が燃えるように熱いことを、彼に隠す方法はない。
「けい……くん」
かすれた声で名前を囁くのが精いっぱいな鈴を、慶はやおらに抱きしめた。
「今どきびっくりするくらい、性根の優しい人だなって思いました。ちょっと真面目すぎて天然なとこも可愛いし、仕事、一生懸命やってる姿も素敵です。店に来たばかりのころはいつも何かに怯えてて自信なさげだったけど……ちょっとずつ勇気出して、いろいろ挑戦するようになりましたよね。接客もだけど、事務系の資格も持ってないやつ取ろうって頑張ってる」
「え……」
こっそり勉強していることを、なぜ知っているのだろう――そんな疑問は、彼の視線がテレビ横の三段ボックスに向けられたことで理解した。立ててあるテキストの背表紙が見えていたようだ。
「そういうとこ、いいな、まぶしいなって思ってます」
「待って……慶くん、僕ちょっと今、死にそうで」
「え、だめですよ? 死んじゃわないで。俺と一緒にいてくんないと怒ります」
「うう」
全身が熱を持ってじんじんと痺れ、腫れ上がっている気がする。もしくはドキドキとうるさい心臓以外の部分が、ぐじゅぐじゅに溶けていそうだ。自分が液体なのか気体なのかわからない。とにかく固形ではない気がする。
しかし慶の腕が包むように鈴を抱き直すと、触れたところから鈴の輪郭が鮮明になっていくみたいだった。
ここにいる。抱きしめられている。
クスクスと笑って顔を覗きこんでくる恋人が甘い。甘いのに、どこか意地悪なまなざしで目を眇めている。
「すーさんって素直すぎて、何に対しても無防備でしょ。だから俺、守りたいなあって思ってるんですよ」
「そんな、か弱い感じではないと……」
「うは、かわい。……だからさ、何が言いたいか、わかる?」
彼がくれた致死量オーバーの甘ったるい幸福を受け止めるのに精いっぱいで、整理なんてできるはずがない。噛み砕いただけで、きっと鈴は死んでしまう。
「ごめんなさい、ちょっと、夢みたいで……」
「ん、いーよ。……だから、すーさんはもしかしたら気づいてないかもしれないけど、俺が今すーさんと付き合ってんのは、すーさんのことが好きだからですよ、って言いたいんです」
「――……」
鈴は完全に溶けたし、気化して部屋の湿度を少し上げているはずだ。
そう思いこんで大きすぎる喜びをなんとか飼い慣らしたいのに、背中を叩く指先の感触が現実逃避を許してはくれない。
「そういえば俺からは好きって言ってなかったなあって、反省しました。ごめんねすーさん。可愛い可愛いって言いすぎて、ちゃんと返事してませんでした。怒ってる?」
「お、こってません」
「よかった。俺んこと捨てないでね、すーさん」
それは鈴の台詞なのにと思うが、うまく言葉が紡げない。
ちかちかと明滅する意識が、今にも窓から飛び出して地球の裏側へ飛んでいってしまいそうで、引き留めるのに忙しかった。
怖いほどに気配りのできる男だ。
対人関係をまともに築かず育った鈴だが、彼が鈴の不安や遠慮を先まわりして、丸ごと安心させようと言葉を尽くしてくれたことくらい、わかっていた。
唇が震える。つんと鼻の頭が痛んで危ういものが込み上げてきそうで、きゅっと息を止めた。
だって、嬉しいからって泣いている場合じゃないと思うのだ。
「す……捨てません。僕は、慶くんが、とっても大好きです」
震える声は恥ずかしかったが、一言一言、宝物を磨くように大事に告げる。
にっかりと男が笑った。
「じゃあ俺とすーさん、ずっと一緒ですね。だから焦らなくていいですね」
――頭は悪くないが鈍い鈴は、彼が根本的に何を言い聞かせたかったのか、ようやく悟った。
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