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 にへら、と宣った鮫島の後ろ頭を明音が叩く。細く華奢な手に見えるのに、鮫島の頭はぐらりと傾いて非常に痛そうだった。  慶に「邪魔です」と言われた鮫島と明音が端に寄り、代わりに周防が慶のアシスタントにつく。  開いたクローゼットに手をかけて中を覗くようなポーズをとらされていた鈴は、彼ら二人の会話をぼーっと聞いていた。 「明日の朝、ニューホームの担当が電話くれって言ってたぞ」 「了解です」 「いよいよ本決まりか」 「まだですよ。俺以外にも候補はいるんで」  ニューホームは住宅メーカーだ。全国区ではないなりに着々と事業を拡大させている成長途中の会社で、このたびはモデルルーム内のインテリアコーディネーターを外注募集することになり、慶も名乗り出た一人だった。  これまでも慶が手掛けたモデルルームや施設はあるものの、その数は多くはない。一般的なコーディネーターはそれこそメーカーに就職して実務経験を積むが、慶はイル・ルオーゴのために資格を取って店頭に立ったため、幅広い仕事を請ける経験やコネがなかったためだ。  それも近頃は、雑誌への掲載をきっかけに様々な案件が舞いこむようにもなっている。ニューホームの仕事が決まれば、展示場での仕事のとっかかりにもなるだろう。  店としては慶が抜ける間は大変なのだが、彼がその手腕を遺憾なく発揮できるなら、鈴も、もちろん鮫島たちも、バックアップは惜しまないつもりだ。 「――はい、すーさんオッケーです。もう楽にしていいですよ」 「あ、はい!」  ぼんやりと慶の仕事ぶりを想起しては内心で褒めちぎって遊んでいた鈴は、呼ばれてセットを離れる。 「あの、写真見たいです!」 「じゃあおいで、一緒に見ましょっか」  カメラの液晶を二人で覗きこんで撮った写真を確認していると、展示スペースの家具や小物に値札をつけ直していた明音がクスクスとハスキーな笑い声を震わせた。 「ほんっとラブラブだよね。どーせこの間のすーちゃんの誕生日だって、二人きりでイチャイチャしたんでしょ」  ――誕生日?  鈴がきょとんと顔を上げたと同時に、隣から「は?」と固い声がした。 「誕生日って、なんのことすか」 「なんのって……五月一日はすーちゃんの誕生日でしょ? 履歴書で見たから間違いないと思うんだけど、違った?」  困惑する明音に言われて、鈴は「――あ」と間抜けな音を出してしまった。  その途端、カメラを置いた慶の両手が鈴の両頬をがっしり包む。ぎゅむっと押し潰し、挟んで持ち上げるように慶へと顔を向けられて、鈴の唇が尖った。  眉を寄せた慶は焦っているように見える。 「嘘でしょすーさん、どういうこと? 俺、誕生日だったって聞いてません」 「う……」 「うーじゃなくて、ほら、なんで? 俺におめでとされたくない?」 「そんなことはないです……! でも誕生日、僕も忘れてて、あの、ごめんなさ、いぅっん」  ――ひゅぅっ、とからかう口笛が聞こえる。  鮫島たちが見ている前だというのに、慶は尖った鈴の唇に口づけた。だが触れたのは一瞬だけで、真っ赤になった鈴が呻くより早く、切実そうに言い募る。 「プレゼント、何が欲しい?」 「え……」 「なんでも言って。お祝いしたいです」  プレゼントなんて気を遣わなくていいし、そもそも祝おうとしてくれる気持ちがすでに何にも代えがたいプレゼントだ。  鈴はそう言って辞退するつもりだったが、「なんでも」という言葉の魅力に貪欲さが顔を出した。 「本当に……なんでもいいんですか?」 「もちろん」  悲しそうだった瞳の色が、ワクワクと輝く。  鈴はニコニコと見守ってくる上司三人をうかがい、うなずかれ、勇気を出した。 「あの、じゃあちょっとだけ……じっとしていてもらえますか?」 「わかりました」 「――失礼します」  頬から彼の手を下ろし、鈴は慶の胴にドンッとしがみついた。  顎の下に埋まって、少し痛いかもしれない加減で背を抱きしめる。逞しい胸板や腹筋は急にぶつかっても危なげなく鈴を受け止め、手の下に息づく筋肉はなだらかで硬かった。 「おおー……!」  思わず子どもみたいに感嘆の息をこぼすと、頭上から戸惑う慶の声がする。 「……すーさん、これなんですか?」 「あ、えーと、急にすみません。僕、一度慶くんにしがみついてみたかったんです。苦しくなかったですか?」  後ろ髪を引かれつつ離れると、珍しく慶はぽかんとしていた。 「苦しくはねえですけど……」 「よかった。僕は男としてかなり貧相なので、慶くんのしっかりした身体は憧れなんです。でもあの、なんていうか、どんなタイミングでお願いすればいいかわからなくて……すみません。嬉しいです、ありがとうございました」  感触も体温も、ベッドの上で触れ合ったときとは違って新鮮に思えた。外の匂いが混ざって、働く男のさっぱりした香りがしたからだろうか。 満足した鈴が頭を下げると、慶は笑顔を作り損ねたみたいな中途半端な顔になっていた。 「…………喜んでもらえて、よかったです」  その後、鮫島にミーティングするよと集められた慶と明音が、三人で事務所へ上がっていく。 「ミーティング、周防さんはいいんでしょうか……」  というか、一体なんのミーティングだろうか。  鈴の知る限り鮫島がああやって社員を集めるのは、飲み会の店をクジで決めるときや、近所の公園で彼が拾った子犬の名前を決めるときくらいだった。  よくも悪くもセンスのある鮫島はワンマン経営だから、仕事に関しての会議は少ないのだ。 「いい。俺は、ああいうのに向いてない」 「……? そうですか」  今回のミーティングで呼ばれなかった鈴は、よくわからないことを言う周防とともに、後片付けを続けるのだった。 *  連休の名残もすっかり消えた五月中旬の月曜日、鈴は泊まりの約束で慶の家へ向かった。  ここに来るのは、まだ二度目だ。  だけどそんな心地よい緊張感は、リビングの扉を開けた瞬間散り散りになった。 「え――」  ちかちかと、視界いっぱいに夢をまき散らされたのかと思った。  壁を飾るのはカラフルなペーパーが連なったガーランドや、柄入りのペーパーチェーン。その合間にはポップな字体で「HAPPY BIRTHDAY SUZU」の文字が躍っている。  水玉模様や星形の風船があちこちにあって――テーブルには、正月と盆とクリスマスが一堂に会したような豪華な料理が並べられていた。紙皿や箸袋などまでが誕生日仕様になっていて、鈴は茫然としてしまう。 「びっくりした?」  後ろから鈴の肩を抱いて室内へ招き入れた慶が、してやったり顔で問うてくる。  勢いよく振り向いた鈴は、室内を指さしてパクパクと口を動かした。でも何を言えばいいのか、何を言いたいのかわからなくて、考えることを放棄する。 「――パーティーみたいです!」 「そう! パーティーです。すーさんのバースデーパーティー」 「僕の……」  感動してなぜか拍手する鈴を、慶は楽しそうにソファへ座らせる。それから小さなコーンハットをかぶせた。 「料理は鮫島さんから。飾りは明音さんから。冷蔵庫に入ってるケーキは周防さんからです」 「みなさんが……?」 「そ。そんでこれは、俺からね」  鈴の前に跪く慶は、右手に何かを握らせる。それから左手を取られた鈴は、薬指にとおされたシルバーリングを見つめて言葉を失った。 「ちょっと重いかもって躊躇してたんですけど、すーさんはこんくらいのが、いいでしょ」 「指輪……こっちは、……鍵ですか?」 「この部屋の合い鍵。すーさんなら二十四時間三百六十五日、いつでも使っていいやつです」 「――……っ」  驚愕すぎてフラットになっていた感情が、唐突に激しく揺さぶられた。ビィンと弾かれた喜びの余韻がいつまでも消えていかず、鈴はぎゅっと唇を噛む。  そうでもしていないと、みっともなく呻いて、子どもみたいに泣いてしまいそうだ。嬉しくて涙が出るなんて、ドラマの中だけに存在する都市伝説だと思っていたのに。  濡れていない下瞼をそうっと撫で、慶は満足げだ。 「泣いていいのに」 「……き、ません」 「我慢してんのも可愛い。すーさんおめでと。生まれてきてくれてありがと。ちょっと遅くなっちゃいましたけど、許してね」 「うー……嬉しい、です。ありがとうございますは、僕の台詞です……っ」 「ふはは。飯食ってケーキ食う?」  必死でうなずく鈴の目尻に、慶が軽くキスをする。努力虚しく浮かんでしまった涙は吸い取られていた。  気恥ずかしい鈴は、泣きながら笑うという矛盾までもが初体験だった。  夢心地を超えて、ここは天国かと勘違いしそうな時間が過ぎていく。慶が歌ってくれた誕生日の歌は鈴を名指ししてくれて、その感動にまた少し泣いた。  食事も風呂も終え、ベッドヘッドに背を預けた慶の腕の中で、のほほんと幸せを味わう。  初めて鈴の家でこうして膝の間に座ったときは遠慮したものだが、今は安心して慶に身を任せることができる。何せ体重を預けたほうが彼が喜ぶのだ。  慶が嬉しそうにしてくれるなら、鈴はなんだってできる。 「ね、すーさん」 「はい……?」  お腹もいっぱいでふわふわと気持ちいい鈴は、仰ぐように慶を見上げる。 「今まですーさんにとって、誕生日って、あんま大事な日じゃなかったんですか?」 「うーん……そういうわけでは……」 「ほんとはちょっと悲しかった。誕生日訊かなかったのは俺ですけど、過ぎてもすーさん、何も言ってくれなかったなあって」 「……すみません」  怒ってるわけじゃないですよ、と知らせるように、逆向きのまま額へキスが降る。  その柔らかさにうっとり目を閉じた鈴は、胸と腹の辺りにまわされた慶の手に触れた。 「言い訳……というつもりじゃないんですが、悪気がなかったことを伝えたいので、話をしてもいいですか?」 「どうぞ、俺も聞きたいです。すーさんの話」  穏やかに促されて、鈴はいつ思い出しても薄暗くて、なんだか色褪せている記憶を他人事のように見つめた。 「僕、生まれてすぐ児童養護施設の前に捨てられた子どもだったそうなんです」 「――え……」 「すみません、急に言われてもびっくりしますよね……あ、雪片は施設長の姓で、鈴っていう名前はスタッフのみなさんが決めてくださったものなんです。って、どうでもいいことですけど」 「すーさんのことは、俺にとっても大事なことです。……教えてくれてありがと」  慶は何かにつけて鈴に感謝を示してくれる。  詰られるばかりの存在だった鈴は彼のおかげで、自分を肯定してやれるようになった。  だから、そんな慶には、自身の過去を話したかった。彼なら普通じゃない生い立ちを忌避しないでくれる、と期待していた。 「施設では、毎月誕生日会があるんです。だから僕が拾われた五月一日が誕生日だってことは理解してたんですが、個別の誕生会じゃないので……あんまり日付には頓着がなかったんですね」 「それにしては、まったく憶えてなさそうな素振りだった気がしますけど」 「ええと……施設を出たあと、一緒に暮らしていた人と……その、ちょっといろいろあって、長らく誕生日がどうのと考えたことがなかった、というか、そういう感じで」  どこまで説明したものか、どこまでなら慶を不快にしないか考えつつ、言葉を濁す。  すると慶は小声で、鈴の耳元に囁きかけた。 「それ、すーさんの前の男ですよね」 「え……」 「初めてデートした日から、わかってましたよ。すーさん、前付き合ってたの男でしょ。じゃなきゃプラグなんて自分で挿れてこないし……すーさんの性格なら、抱いた子がベッド汚したって怒るはずない。抱かれてたのがすーさんで、汚して相手の男に怒られたことがあるんじゃないですか?」  あまりに的確に図星を突かれて驚くが、慶の言うとおりかもしれない。  鈴にとってはセックス前にプラグを挿入しておくことも、床でことに及ぶことも当たり前だったため、なんの疑問もなくそうしたのだが、相手が女性であると仮定するなら鈴の行動は不自然だ。 「そのとおりです、すみません、配慮不足でした……けど恋人? ではなかったです。お付き合いをしたのは、慶くんが初めてです。は、……初恋、です」 「……そっか、めっちゃ嬉し。すーさんはなんでその男と一緒にいたんです? 付き合ってないのに同棲したり、抱かれたりしてたの、不思議なんですけど。施設で出会ったんですか?」 「いえ、違います。彼は……環さんは小学校が同じで……僕が四年生で、あちらが五年生のときに知り合ったんです」  環との最初の記憶は、通学路にある寂れた公園で、環が一人ぽつんとブランコに座っていたところへ鈴が声をかけた日だ。彼は膝や手のひらに怪我をしていて、子どもながらに疲れ切った顔をしていた。 「怪我をしてる環さんに声をかけて、えと、たしか濡らしたハンカチで血を拭いて……それから絆創膏を貼って、なんとなく一緒にいたんです。それからなぜか、彼がよく声をかけてくれるようになったんですが……」  当時の鈴は相当ぼんやりおっとりした子どもだったから、些細な不自然さには全然気づけなかった。だから感覚としては――。 「ある日突然、僕は環さんの……なんでしょう、下僕? 小間使い……? みたいになってて、クラスメイトたちが話してくれなくなったんです。あとになって思えば、環さんは近所でも有名なお家の次男で、お父様が経営する商社のツテはあらゆる方面に伸びていましたから、触らぬなんとやらに祟りなし……だったんだと思います。先生方も暴れる環さんには手を焼いていたように記憶してます。ただ、僕がお願いすると不思議と環さんも落ち着いてくれることがあったので、その点では重宝されていたと思いますが……それ以外では、僕も腫れもの扱いだったんでしょうね」 「小学生なのに? 異常ですね……そっから、ずっと一緒だったんですか?」 「はい。中学に入って……ええと、そのころには環さんは家庭の事情でご実家とは別にマンションを与えられて暮らしていたので、僕はそこに泊まれと言われることが増えて……義務教育を終えて施設を出るとき、本格的に一緒に棲むことになりました。環さんは僕が他の誰かと話したり関わったりするのが嫌いだったみたいで、学校の時間以外は一人で外出禁止で……あ、でも就職はさせてもらいましたよ」  それも環の知人が経営している小さな会社の事務だったが、アルバイトなども禁止されていた鈴にとってはありがたかった。たとえ勤務中の行動の逐一を他の社員から環へ報告されているとしても、家の中でひたすら静かにときを過ごすよりはマシだったのだ。 「その環ってやつは、すーさんの誕生日、おめでとってしてくんなかったんだ?」 「そうですね……たぶん、ご存じなかったと思います。僕もだんだんと、誕生日がいつかなんて興味がなくなっていきましたし……」 「なんで逃げなかったんですか?」  予想していた質問だった。それでもぐっと喉が詰まったような感覚を覚える。  本当に、今思えば、本気を出せばもっと早く逃げ出せたのではないかと思ってしまうのだ。 「逃げようとしても無意味だって……決めつけていたのかもしれません。だけど彼が海外転勤することになったとき、逃げたいって気持ちを思い出して……今ここにいます」 「そっか……」  ぎゅっと怖いものから隠すように鈴を抱きしめた慶が、大きな手で何度も頭を撫でる。その手はじょじょに下がっていき、背中にほど近い脇腹へそっと添えられた。  以前とは違い、そこに触れられても驚かないし、強張らないけれど。 「殴られてた?」 (やっぱり――最初の反応、気づいてたんだ)  鈴は目ざとい慶に「少しだけ」と苦笑する。 「もしかして、小学生んときから?」 「いえ……そういえばいつからでしょう……あ、そうです、中学のときに転校生がきたんです、僕のクラスに」  環だって最初から鈴につらく当たったり、暴力的だったわけじゃない。少なくとも中学のときのちょっとしたきっかけが起きる前までは、暴力も、セックスもなかったのだから。 「その子はもちろん環さんのことも、僕が他の子に遠ざけられてることも知りませんでしたから、たまたま隣の席になった僕にたくさん話しかけてくれました。途中まで帰路も同じだからって誘ってくれたりして……」 「それ、環さんにバレたんですか?」 「はい……ものすごく不機嫌になってしまって、転校生に手を出そうとしたので、止めたんです。それからでしたね」  性の知識もほとんどない鈴は、何がなんだかわからない間に身体を拓かれていた。味わったことのない痛みと恐怖にらしくない大声で泣き喚き、静かにさせようと殴られたのが最初だ。 「でも殴るとか蹴るとか、そんなに多くなかったようには思います」 「少なくはないと思うんですよ。だってここ……すーさんからは見えないかもしんねえけど、色変わってんの」  たしかに鈴は自分の身体をわざわざ鏡で確認したことなどない。白い肌に色素沈着を起こした痣は目立つが、外で肌を晒す機会も今まではなかった。  初めて知った事実に、怒りはない。  ただ、慶に申し訳ないとは思う。 「そうだったんですね……すみません、汚くて。そこはセックスのとき、僕がちゃんと動けなかったり、気絶しかけたらぎゅって抓られてたところなんです。皮膚が薄いので余計に痕が残ったのかもしれません」 「汚いなんて思ったことないし、これから先も思わないけど。……なんでこんな痛えとこ抓んのか、俺には理解できない……」 「抓ると中が締まってイイそうです。ええと、僕にもちょっと理解はできないのですが……」 「すーさん」  首の付け根に、じんわりとあたたかい額が押しつけられた。  身体を丸めて鈴を抱きしめる慶の手は、腹の辺りで拳になっている。甲に血管が浮き、わずかに白むほど力をこめて。 (怒ってる……?) 「ごめんな――もっと早く俺が見つけてあげたかった」 「――」 (違う……悔やんで、くれてる……)  なんの責もない慶が、それほど痛く苦しい声で懺悔することなんて、ひとつもない。  鈴は「そんなことない」と言いたいのに、込み上げてくる熱い感情が邪魔をして唇を噛んだ。  もしも小学校四年生の自分に会えるなら。抓られた脇腹を押さえ、バスルームで息を殺して泣く自分に会えるなら、言ってあげたいことがある。  ――もう少しの辛抱だよ。もうすぐ、世界で一番大切な人と会えるから、愛してもらえるから、それまで頑張ってね、と。 「……全然、大丈夫です。ほんとです。僕はこれでも頑丈なので、結構うまくやっていましたし……約束ごとを破らなければ、環さんもそれほど不機嫌にならなかったので」 「どんな約束?」  肩に埋まったままの黒髪をそうっと撫でる。  整髪剤のついていない髪は見た目よりふわふわしていて、手に馴染んで気持ちがよかった。  一人ぼっちでいると、知ることのない感触と、気持ちだ。 「必要以上に他人と関わらないことと、時間どおりに帰ってくることと……どこにも行かないこと、です。これさえ守っていれば、あまり怒られませんでした」  三つの言いつけは、鈴が外の世界への欲を捨てれば守ることは簡単だった。  環の機嫌次第では何をしていても八つ当たりされたり手酷く抱かれることもあったが、それは慶に話しても悲しませるだけな気がして飲みこむ。  思うよりずっと平気でしたよと伝えたくて、ひたすら慶の頭を撫でる。  そうこうしていると、やがて慶は鈴の左手を取り。「じゃあこうしようよ」と、指輪を嵌めた指に口づけた。 「たくさん甘えて、わがまま言うこと」 「え?」 「遠慮しないこと。それから……めちゃくちゃ愛されてるって自覚すること」 「慶くん……?」 「俺と、すーさんの、二人の約束」  冷たい鎖みたいな環の三カ条がするりとほどけ、けたたましい音を立てて足元へ落ちた。  その代わりに鈴と慶をつなぐ約束の――とびきり優しいこと。  守らなきゃいけない、ではなく、守りたい、と思える自分を、鈴は好きだと思えた。 「はい……僕と、慶くんの約束、です」
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