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逃走
山に入ってどれくらい経ったろうか。俺は線路を見つけた。沿って歩けば、それは山を越えるトンネルへと続いていた。これ以上暗闇に身を包むのは御免だった。だが他に道はない。ずっと背後から大勢の足音が聞こえる。山慣れした彼らが足跡を追って来てる。
捕まればそれこそ今度は……
俺は意を決して、一切の光も何も無いトンネルに身を投じた。
奴らが蛇に近い民であるならば、この暗闇はなんの意味もない。蛇という種族は視覚に頼らず、舌から感知するサーモピッドという熱感知によって獲物を探すからだ。俺が生きて体温を保っている限り、奴らが俺を見失うことはない。
クソッ!
悪態をつきたかった。けど走り過ぎて舌も唇もカラカラで、開くことすらままならなかった。
ゼイゼイと息が苦しい。砂利道ばかりで足首が痛い。革靴なんてロクなもんじゃない。でも走った。一度でも止まればもう走れなくなるのは分かっていた。
しゅう、しゅう。会話のような空気が背後に迫っている。近い。ザクザクと足音が聞こえる。
はっはっはっはっ
犬のような呼吸が闇に溶け込んでいく。
心臓が破れんばかりに脈打ってる。
ああ痛い。足も。喉も。心臓も。全部。全部!
吐きそうだ。
頬を伝うのが汗なのか涙なのか、はたまた血なのか。
なんでこんな目に遭うんだ。
なぜこんなことにならなきゃいけない。
疑問は八つ当たりとなって、子どもの癇癪を起こしていた。
ああ、気持ち悪い。
止まって、吐いてしまいたい。
ぶち撒けるのが胃液か臓物かなんてどうでもいい。
迫り上がってくる胸のむかむかに耐え切れず、俺はその場で足を止めて壁に手を着いた。
グルグルとくらむ頭。
ズクズクと痛む脇腹。
オエオエと嚥下反射を繰り返すも何も出やしない。
カラカラになった喉と胃は何か飲ませろとうるさい。
長距離マラソンのあとの特有の舌の張り付きに、どうにかなりそうだった。
もどかしさに拳が潰れるのも構わずにトンネルの壁を殴りつけた。
だが俺は生きたいと思った。
こんなとこで死ぬのは絶対嫌だと強く思った。
あいつらに殺されるのも嫌だ。
ましてやあんな……古の邪神に喰われるなんて──!
嫌だ。
いやだ。
死ぬのは嫌だ!
クソッと悪態をつき何度も殴る。するとドザドザと土が落ちてきた。
壁は剥き出しの岩肌で、ひどく湿っぽい。泥のような土がトンネルの端々に堆積している。腕を突っ込めば結構な量があった。山水をたっぷり含んだその土は冷たい。
一か八か。
俺はその泥の中へ潜った。
出来るだけ深く、呼吸は可能なようにして。
そ・やふ・ら・なあ・ずうえんび
完全に潜り込んで割とすぐ、真横から足音が、声があった。
たのしみじゃな
ああ愉しみじゃ
おれには腿をくれ
ワシには逸物だ
玉袋もええぞ
おお、あれは絶品じゃ。歯応えもええ
いンや、なんといっても腑だろう
しゅうしゅう。しゅうしゅう。身の毛もよだつような会話が呼気に混じりに聴こえてくる。逃げ場のない暗闇の中で、閉ざされた冷たい泥の中で、血が凍りそうだった。
久しぶりの外のヒトよ
久方ぶりのヒトの肉よ
骨までしゃぶってやろう
血の一滴も残さず啜ろう
楽しみよのう
愉しみよのう
バクバクと激しい心臓の音。
人とも化け物とも判別つかない声。
その内容。
思わず恐慌状態に陥る。ジッとしているのがこれほど恐ろしいとは思わなんだ。まるで、乗ってしまったエレベーターの先に殺人鬼が手ぐすね引いて待っているのを知っているのに、逃げ場がどこにもない感覚に等しい。
ああ、生きながら引き裂かれる痛みを想像して発狂しそうだ!
呼吸の仕方が分からない
息を吐いていいのか
吸っていいのかさえ!
心臓があまりに煩い。
聞こえてしまう。
聞こえてしまう!
こわい
こわい
誰か俺を助けてくれ!
怖い、
恐い、
こわい──ッ‼︎
そ・やふ・ら・なあ・ずうえんび
すぐ側で聞こえた忌まわしい呪文に──
俺は緊張が極度に達したのか、そのまま泥の中で気を失ってしまった。
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