立ち向かいますか?

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 入院中、思わぬことがあった。それは退院する2日前、母から小さめの保温ボトルを渡された日のことだった。 「もう毎日来ないでいいのに。何、これ?」 「昨日、夕食、ちょっと残してたでしょう。もし食欲ないんだったら、それ飲むかなあと思ってね」 「大丈夫だよ。でも、ありがとう」  ボトルの先端についている小さなコップを外し、中身を注いですぐにわかった。ミルクのにおい。ひと口飲むと、ミルク以外の甘さも広がった。 「ホットミルク…おいしいけど、何で?っていうか、ずいぶん甘くない?」 「ハチミツ入りのホットミルク。ゆりは小さい頃よく熱を出して、そのうえ具合悪いと何も食べないから心配でね。お医者さんに相談して、このホットミルクを作ったらおいしいって飲んでくれたの。だから、病気のときや元気ないときによく出してたんだけど。覚えてないわよね」  忘れていたけれど、感じ取っていた。母から微かに漂う甘い優しいニオイ。このホットミルクの記憶だったんだ。私自身が覚えていないことを、ずっと疎み続けた厄介な能力は受容し、伝えてくれていた。  柳君、雨の日、あなたが言った通りだね。確かに「表に出せない優しさ」は存在したし、それをきちんと感受していた。嫌なニオイだけじゃなかった。 「……ありがとう。何となく、覚えてる気もする」 「そう? もう今は甘すぎるかしらね」  母とこんな風に穏やかに向き合うのはいつ以来だろう。こんな日が続けばいいと思うが、そうはいかないことも知っている。美悠のときもそうだった。  日常に戻れば、また、様々な思いが交錯するだろう。不気味さや恐れ、迷いがなくなることはないのだと思う。でも、それでいい。迷って、不安になりながらもそこにいてくれる。それで十分じゃないか。救急搬送の連絡が入った深夜、父と母はすぐに駆けつけてくれた。母が毎日、病院に行けるよう、父は家事を引き受けているという。帰れる場所を維持してくれている。それだけでもいい。そういう家族もある。今は、そう思う。
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