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博士、と呼ぶ声に我に返る。
束の間、意識が飛んでいたらしい。ハッとして椅子から腰を浮かしかけた博士の瞳を、見慣れた研究室を背景に、見慣れた端正な顔が覗き込んでいた。
「博士、おめでとうございます。成功です。稼働中のH・Bにおける全神経系システムを強制停止しました」
(システム、強制停止……ああ、そうか。私はさっき、ロボットの全機能停止ボタンを押して……)
瞬間、明敏な頭脳が目まぐるしく回転する思考に急ブレーキをかけた。
「……なぜ、君は無事なんだ? アンナ」
無機質なカメラのレンズに、くっきりと自分の顔が映っている。モノクロで色はないが、現実の自分もきっとこんな風に顔面蒼白だろう、と博士は思う。もし本当にシステム停止が成功したのであれば、H・B第一号である助手の彼女が眼前にいる、という現実は有り得ないからだ。
明らかな動揺を見せる博士の前で、彼女はまるで人間のように自然な動きで眉をひそめた。
「私なら無事ですよ、博士に作って頂いたロボットですから」
(ロボットだから、無事?)
明らかに矛盾しているが、躊躇の欠片もない確固とした彼女の言葉に、博士はますます困惑を深めるばかりであった。
「いや、しかし。私はスイッチを押して、私が作ったロボットの全システムが……」
「何を仰っているのですか、博士」
彼女が、初めて博士の語尾を遮って発言した。
彼は、自分の背筋がぞっと凍り付くのを感じた。自分に向けられた二つのレンズが、いつにも増して無機質なものに思えたからだ。
「貴方が停止させたのは〈人間〉のシステムではありませんか」
(……人、間)
途端、博士の頭の中で、何かが壮絶な音を立てて崩壊した。慌てふためくとも、取り乱すともなく、彼はただ頭の中が一瞬で〈白〉に埋め尽くされるのを感じていた。脳味噌にナトリウムか何かが流れ込み、満たしていっているようだ。
どうしても、自分の思い違いだとは考えられない。しかし、だからといって彼女の言葉を否定しては、この現実――この世で唯一無二の論理的事象を、自分の都合の良いように曲解していることになる。彼女の存在そのものが、彼の認識の非合理性を証明しているのだ。
暗澹たる思考の迷夢に沈みかけたところで、博士はふと大事なことに思い当たった。
「そんな、それなら……か、家族は! 私の妻は、息子は……無事なのか?」
今にも発狂しそうな彼の勢いに、彼女は始め首を傾げていたが、やがて妥当な解釈を探り当てたのか、ロボットらしくもない心得顔で〈苦笑〉の表情を浮かべた。
「まだ意識が正常な働きを取り戻せていないのですね、博士。貴方の奥様も、息子様も、皆H・Bではないので無事ですよ」
(皆、H・Bではない? それは知っている。私の家族は人間だ。当たり前だろう……)
博士は煩悶しながらも、自らに言い聞かせるよう思考を巡らせる。
(しかし、だから無事とはどういうことだ? 前者と後者との間に、因果関係が見られない。……ひょっとすると、私の作った遠隔操作スイッチにはなんらかの欠陥があり、正常に作動しなかったのだろうか。その結果、彼女のシステムに、なんらかの異常をきたしたのだろうか……)
必死に脳漿を絞る博士の努力も虚しく、彼女は読み聞かせでもするかのように滔々と言葉を繋いでいった。
「しっかりなさってください、博士。人間とは、ロボットとは比べ物にならないほど欲深く、愚かで、罪深い生き物です。貴方が一番よくご存知のはずでしょう」
だって、と彼女が続ける。
「我々ロボットの生きる世界に〈人間〉……いえ、〝H・B〟を生み出したのは、ほかでもない。博士、
……貴方自身なのですから」
整った顔の中心に並ぶ二つのレンズは、まるで博士の狼狽を記録するかのごとく、凝然と彼を見つめていた。
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