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二老人
「いやはや、凄いお話でした」
火鉢にたぎる炎の上で両手を揉み合はせながら、芦屋老人は感嘆の声を漏らした。宵も近い薄闇の中、廣田老人の身の上話に一区切りついたところであつた。
「かう言つちやなんですが、まだ世間もよく知らないうちに単身中国へ薬の勉強とは。余程の勇気をお持ちでなければ難しかつたでせうな」
芦屋老人の多大な称讃を浴びて、廣田老人は頻りに首を横へ振つた。
「あの頃は無謀な夢もいつかは叶ふと信じてやまなかつたものですから、医師になりたいといふ一心で生きてをりましたもので。……それが今じやなんの芸もない年寄りで、大した話も出来ず、全くお恥ずかしいばかりです」
廣田老人は、口ではさう言ひながらも満更恐縮しきつてゐる訳ではなささうであつた。面映ゆさうな笑みの中には微かに矜持の色も混じつてゐた。
二人の間で、火鉢がパチパチと音を立ててゐる。薄ら寒ひ中、両者とも温もつてゐるのは火鉢に当ててゐる手の平だけで、足の指先などは麻酔を打つたやうに冷え切つてゐた。卓子に載つた二つの湯呑は随分前から空つぽだが、火鉢を挟んで向かひ合ふ二人の老人は一向に腰を上げる気配がなかつた。
「さあ、次は貴方のお話を聞かせて下さひな」廣田老人が明るく言つた。
「二人で交替交替にお話をする約束でしたでせう。私が少し暗い話をしてしまつたので、よければ幾分明るいお話を伺へると嬉しいのですが……」
「ふむ、明るい話ですか。……では、あれをお話しするのがよいかも知れません」
芦屋老人は少し考へる素振りを見せた後、内緒の話でもするかのやうに口の傍へ手を当て、盗み聞く者など誰もないのに声を低めて言つた。
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