ハッピーエンドの五分前

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 ***  人を無闇に恨んだり、憎んだりしてはいけない。それよりずっと誰かの幸せを願い、その笑顔から幸せをもらう人生の方がずっと良いに決まっている。  カツヤに言われずとも、俺だって昔はそれがわかっていたのだ。ミドリが生まれ、小さな小さな手で自分の手を握ってくれた時。そのミドリが始めて掴まり立ちをし、自分のことを“ととちゃん”と呼んでくれたとき。ああ、自分のクズみたいな人生はこの子のために存在したのだと、心の底から思ったのである。  頭も悪けりゃスポーツの才能もない、ムカつく相手を殴っては警察のお世話になるような日々。そんな自分をたった一人支えてくれたヤエと結婚してどうにか就職先を探したはいいが、お世辞の一つも言えず社会人としてのマナーもなっていない自分は長らく職を転々として迷惑をかけてしまった。やっと見つけた仕事も、肉体労働メインの工場ときた。人に命令されるのに嫌気がさして自分で工務店を立ち上げたはいいが、愛想のない店主になかなか客はつかず。ヤエにはどれほど心配と迷惑をかけたか知れない。  可愛い一人娘のために、今度こそ真人間になろうと思った。  この子を守るためならば、くだらないプライドなど捨てて仕事に励むことができるはずだとそう信じていたのである。  結局、クズはいつまでクズのまま。心の弱さを誰かを罵倒することで守ってきたような人間が、そう簡単に変わることなどできるはずもなかったのだけれど。 ――そんな俺のせいで、ミドリはあんなことになった。……天罰が下っても仕方ねえって、そうは思ってたけどよ。  これは、あんまりにもあんまりではないか。俺は思わず、その場に膝をついていた。レインコートの膝が濡れ、長靴にもズボンにも水が染み込んでいくがその感触されも気にならない。  鏡の孤島に続く橋は、完全に流されてしまっていた。  レツヤとカツヤがあんなに頑張ってくれたのに。どうにかギリギリ、島まで間に合うところまで来たというのに。 「こんなことって、あるかよ……俺には……俺にはもう、ミドリの幸せを祈る権利もねぇってか……!」  ああ、本当はわかっていたのだ。これはきっと、ミドリに拒絶された結果なのだと。  だって彼女は。  目に入れても痛くないほど、愛しいと思ったたった一人の娘は。  他でもない、父親の自分の手によって――殺されたのだから。 「ミドリは、あたし達になんか、お見送りされたくないのかもしれないのかもね」  そうよね、とヤエが泣きながら呟く。 「だって、ミドリも……もう、忘れたいわよね。こんなダメダメの両親のことなんか忘れて、新しい両親のところで幸せになるんだから……」 「そんなことねえよ、ヤエさん」  口を開いたのは、レツヤだ。彼は少しだけ躊躇ったのち、ビニール袋にくるまった何かを自分達の方に差し出した。  え、と俺は眼を見開く。雨に濡れて見づらくなっているが、間違いない。その金色のチケットは――一ヶ月一度抽選で手に入る、島へ渡る船のチケットではないか。  これがあれば、いつでも船を呼ぶことができる。しかし、倍率は非常に高く、滅多に手に入れることはできない。何故こんなものを、レツヤが。 「困った時は、助け合いだ。今朝、ミドリちゃんが転生決まったって聞いた時、念のためみんなに声かけてたんだ。アカギのおっちゃんが、チケット譲ってくれたよ。自分はまだこれ使うの早いからって」  アカギのおじさん、というのは。割と最近天国に来たばかりの年配の男性だった。老衰で死んだばかりなので、まだまだ老人の姿である彼。生まれたばかりの孫の姿を見たいけれど、足が弱っているので歩いて橋を渡るのは厳しい。そう思って、チケットを取っておいたのだそうだ。孫が産まれる前に死んでしまったと暗く沈んでいた彼をずっと慰めてきたのが、自分とヤエだった。可愛い子の未来を見られない親や祖父の気持ちは、自分が一番よくわかっていたからだ。 「……後で、お礼言っておけよヤエさんもおやっさんも」 「本当に、いいのか。俺達は……」 「カツヤが言っただろ。俺も同じ気持ちだ。人の幸せを祈る事が、罪であるはずがない。むしろ、新しい人生に行くために……ミドリちゃんにはお見送りが必要だって、俺はそう思うぜ。もう十分、あんたらは後悔したんだろうが」  迷っている時間は、なかった。俺は何度も何度もカツヤとレツヤにお礼を言うと、ヤエの手を握ってチケットを掲げたのである。  ミドリが転生するまで――あと、十分。
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