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「俺は、ずっとお前らに謝らなくちゃいけなかった」
島へ到着するのは、ほんの数分もあれば充分だ。
奇跡の瞬間まで、あと五分。森の中を、俺は妻の手を引いて懸命に走る。
「俺の失敗で、会社潰しちまってよ。それなのに、自分が悪いことを認められず、社会の悪口ばっかり言って酒浸りになって……しまいにはガン告知されて、絶望してよ。ヤエとミドリ、お前らを巻き込んで一家心中だ。最低だろ。父親名乗る資格も、夫名乗る資格もねえ」
鏡は島の随所に掲げられている。その前に立ち、見たい人の名前を唱えればその人の今を見ることができるのだ。
前にもこの場所に来たことのある俺は知っていた。丘の上の鏡が、一番大きくて見やすいことを。
「だからな。雨がやまなくて、このタイミングでミドリの転生が来たって聞いてよ。俺には見に来るなって、ミドリにそう言われてんのかと思ったんだ。だって……」
「そんなことだろうと思ったわ。天国に一緒に来たのに、貴方はちっともミドリとお話しようとしないんだもの。ミドリの外見が私達よりずっと早く子供になっていって、転生が近いのに気づいてずっとそわそわしてたくせに」
「う」
ヤエは息を切らして走りながらも笑う。彼女は自分よりずっと強く、そして大人だった。ミドリが施設に来ていることに気づいてすぐ飛んでいって、彼女に頭を下げたのだから。
ヤエだって、本当は死にたくて死んだわけではない。暴君な夫に逆らえなかっただけだと知っているのに。
「ミドリはわかってたわよ、貴方がダメダメな父親だって。大きくなったら、絶対お父さんと似てない男と結婚するんだって、小さな頃から言ってたくらいだもの」
でもね、と。ヤエは俺の左手を、強く握り返してきた。
「お父さんが、不器用なりに一生懸命頑張ったこと。あの子もちゃんと理解してたわ。……あの子一度も、恨み言を言わなかったの。あたしに気を使ってたんじゃないと思うわよ」
雨が、段々弱くなってくる。ぽろぽろと、頬を伝っていく雫。男がこんな簡単に泣くなんて本当にみっともない。この頃合で雨に止まれてしまっては、それも誤魔化しきれなくなってしまうではないか。
もう、何も言葉は出なかった。俺は嗚咽を漏らしながらもヤエと共に走る、走る。
ハッピーエンドが来るのだとしたら、それまであとーー。
「此処だ!」
俺は鏡の前に立つと、息を切らしながら叫んだ。
「頼む、現世の鏡!俺とヤエの……森田泰之と森田八重の娘、森田緑が転生するところを、見せてくれ!」
鏡が白く光を放つ。祈るような気持ちで俺達が見守っていると――光の中から、甲高い声が響いた。
それは、赤ん坊の鳴き声だ。
光がやんだところで見えたのは――まだ眼も開いていない猿ような顔をした真っ赤な赤ん坊を、汗だくの母親が抱きしめるところであったのである。
鏡の向こうから、女医の嬉しそうな声が聞こえた。
『おめでとうございます、佐藤さん!元気な女の子ですよ!』
ああ、と。ヤエが顔を覆って崩れ落ちた。その肩を支えながら、俺も涙を零して告げる。
「おめでとう、ミドリ……おめでとう。今度の人生では、どうか幸せにな」
人は、誰でも間違える生き物だ。取り返しのつかない失敗も時にはある、それも事実。
けれど今、朝日の中で奇跡を見つめながら俺は思うのだ。過去を変えられずとも、未来は変えられる。失敗を取り消せなくても、それを上回る成功や幸福を手にすることもできるのだ。生きて、生きて立ち向かうことさえできるというのなら。
――次の人生では、俺も……俺も、精一杯生きるぞ。今度こそ、自分も誰かも全力で幸せにするために。誰かに毎日、きちんと感謝をしながらな。
バッドエンドのその先で、見守る一つのハッピーエンド。
彼女の、自分達の新しい物語は。ここから今まさに、始まろうとしているのだ。
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