ハッピーエンドの五分前

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ハッピーエンドの五分前

「ああもう、クソが。今日も雨かよ」  窓ガラスには、不機嫌極まりない顔をした少年の姿が映っている。幼稚園児くらいの顔が吐き出す声は舌っ足らずで甲高く、可愛らしいものだと思う。眉間に寄せた皺と品のない言動で、全てブチ壊しにしている自覚はあるが。 「ちょっとヤスユキさん、毎日毎日外見てぼやかないで頂戴。雨が降って憂鬱なのは、ヤスユキさんだけじゃないんですからね?」  宿泊施設のタオルを一生懸命運びながら言うのは、長い髪を一つに結んだヤエだ。俺と殆ど変わらない背丈である彼女では、高いところにある棚に手が届くはずもない。仕方なく、俺は近場からずりずりと踏み台を持ってきて、彼女の傍に寄せてある。昔ならこの程度の手伝いもしなかったな、なんてことを思いながら。 「あら、親切にどうも。……ここにきて、少しは丸くなったんじゃない?昔はあたしに命令するばっかりで、全然家事の一つも手伝わなかったのに」 「うるせえ。昔なら男が家の仕事をしないのは当たり前だっただろうが」 「はいはい。そういうことにしておいてあげます」  こいつ、一発ぶん殴ってやろうか、と思う。残念ながら今の自分の力では、殴ったところでさほど威力は出ない。返り討ちにされかねないくらい自分達には体格差も腕力差もないのだ。これだから幼児は、と思う。――まあ、力の差があってもなくても、簡単に拳など振るうもんじゃないということくらい俺だってもうわかっているのだが。  俺達が此処に来て、一体どれほどの月日が流れただろう。  この宿泊施設では、老若男女問わず何十人もの人達が一緒になって暮らしている。来たばかりの高齢者や大人の男女の方が、暗い顔をしていることが多い。いきなり、大勢の人達に囲まれて、時が来るまで共同生活をしろと言われても――となるのが当たり前だ。  大体、多くの者達はこう思うのである。思っていた天国の姿と、あまりにも違い過ぎる、と。 ――まあ、俺も最初は信じられなかったしな。まさか死者が一斉に集められて生まれ変わるまで待機所に送られるなんてのはよ。  俺達は全員、現世で死んだ人間だ。  戸惑ったように、小学生くらいの少女達にエプロンを引っ張られている女性も。  難しい顔をして、将棋盤の前で顔を付き合わせている小学生くらいに見える男子達も。  暗い顔で座り込んでいるのを、必死で本を持った中学生くらいの男子に慰められている様子の老婆も。  全員、なんらかの事情で死んだ人間。その中でも、特に地獄に落とされたり、煉獄に該当する場所で労働や教育が必要とないと判断された者達である。つまり、此処がいわゆる天国、に該当する場所。実際、此処ではその日が来るまで毎日遊んで暮らしていいので、そういう意味では極楽と呼んで差し支えないのかもしれない。  まあ、タイムリミットはあるが。  此処にいる期間は、数年から数十年。現世の善行が多い者ほど短くなる傾向にある。  時間が来た者は、唐突に此処から消滅する。そして、そのまま現世で生まれ変わるのだ。タイミングは、消滅した翌日の同時間だ。 ――やっと、待ち望んだ日が来たってのに。この雨じゃ、川が増水しちまうかもしれねえのに……!  現世の天気くらいは、此処にいても見ることができる。最近下界は非常に雨が多いらしい。するとどういうわけか、天界も雨が増えて天界の雨も増水してしまう傾向にあるのだ。自分達は死者なので、堤防が結界して洪水になったところで溺れて死ぬようなことはない。この施設も地面からやや浮いた構造になっているので、そうそう水没するようなこともないはずである。  問題は。洪水になって外に出られなくなってしまうと――明日どうしても自分達が行きたい“あの場所”に、辿り着けなくなってしまう可能性が高いということである。 ――ミドリは今日の朝、消滅した。ってことは、ミドリが生まれ変わるのは明日の朝のはずだ。それまでに雨が止んでくれなきゃ、面倒なことになる……!  ミドリは、自分にとってかけがえのない存在だ。  同時に――自分達にとって、罪の代名詞でもある。何故なら。 「ヤスユキさん、ちょっと来て!」  てとてとてと、とヤエが駆けてくる。 「下界の天気予報、やっぱり大変なことになってるわ!明日の朝、こっちの橋も水没しちゃってるかもしれないの……!今から出発しないと、あたし達間に合わないかもしれないわ!」
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