九月七日(月)

5/6
130人が本棚に入れています
本棚に追加
/50ページ
 教室の戸を引くと、机と椅子は前方に押しやられ、後ろ半分が広く使えるようになっていた。既にクラスの面々が小道具の製作を進めている。 「野々市くん、遅い」  そう声を掛けてきたのは佐伯(さえき)だった。彼女は演劇部に所属しており、部活では道具担当をしているらしい。演劇祭の担当決めでは、真っ先に道具係に抜擢(ばってき)された。 「しょうがないでしょ。俺だって新聞部の仕事があるわけ」  全くの嘘である。そのことを知ってか知らでか、彼女は片眉だけ器用に上げ、 「演劇祭に気兼ねなく参加できるのに、良いご身分ね」 と嫌味を言ってきた。  頭にきてもいい場面だが、ここはグッと堪える。  事実、演劇祭では演劇部の参加が極端に制限されている。  演劇部の部員は演者・脚本・監督といった役職を勤めるのを禁止されており、準備の時の道具制作のみ参加が可能だ。  彼らの参加が制限される理由については、『公平を期すため』らしい。  つまり、クラス毎に演劇部員の人数は違うので、全クラスに不公平のない状態にするのだ。 「野々市くんは衣装作業してくれる?」  そう言って、佐伯は図面を指し示した。  作るのは、登場人物の制服らしい。  衣装というとミシンを使うイメージだが、佐伯が提案したのはコスプレ衣装の製作にも用いられる布用接着剤を使う手段だった。  誰でも簡単に衣装の製作ができる画期的方法だ。勿論、俺も例外ではない。 「それにしても、何でこんな古い時代設定なのかしら」  図面を手渡しながら、彼女は文句を垂れる。 「それは歩に訊けよ」 「嫌よ。牛尾くん、結構プライド高いから、そんなこと言ったら不機嫌になるし」  そんなことを言う佐伯を、俺は睨みつけた。  うちのクラスは脚本家が監督を兼任すると夏休み前に決めた。そう決めたのは自分たちなのに、今更文句を言う佐伯にひどく腹が立つ。  そんな俺をよそに、彼女は接着剤を押し付ける。 「ほんと、野々市くんって牛尾くんには甘いわ。作業は笹岡くんと一緒にお願い」  佐伯の言葉に、心が重くなった。見回すと、笹岡は一人、チマチマと布を貼り付けている。  別の作業に替えて貰おうと、佐伯の方を見遣るが、同じく大道具担当の女子と共に議論を重ねており、容易に話しかけられる雰囲気ではない。  振り返ると、笹岡は変わらず黙々と作業をしていて、溜息が出そうになった。  今回、歩が仕上げた脚本は『二人の夏』という作品だった。一九五〇年代の高校が舞台の青春モノだ。  主人公が演劇部での経験を通して成長していく物語で、演劇部だけでなく、こうして演劇祭の準備をしている俺達にも共感できる部分があった。  時代設定はかなり昔だが、考証がしっかりしているためかリアリティがあり、何となく爽やかな後味を持つ話だった。  クラスメイトの間でも、好評だったと思う。  出来は素晴らしかった。  けれど、俺は笹岡に票を入れた。  今回の脚本に、歩の小説を読むときに感じる、勢いというか、熱が感じられなかったためだ。  端的に言えば、「らしくない」と思ってしまった。  一方、笹岡が描いたのは短いミステリ―だった。これが読んでみるとなかなか面白く、クラスコンペの際は台本を(めく)る手が止まらなかった。  どちらに票を入れるのか。自分の気持ちは明らかだったのに、だいぶ悩んだ。親友を黙って裏切ることに、かなりの罪悪感を覚えた。  最終的に、クラスの票は歩を支持した。これは作品の価値を証明する指標になる。  笹岡には悪いが、歩が選ばれたことに俺は何となくホッとしたのだ。  酷く自分勝手な感情だったと思う。  そういう経緯があったからこそ、俺は笹岡の歩に対する態度に憤慨していた。   素晴らしいものを持ちながら、これくらいのことで歩に当たっている姿は、ただただ、醜かった。  俺は、笹岡が作っている衣装の端を掴んだ。  笹岡は一瞬顔を上げたが、すぐに手元に視線を戻す。 「……そこのピン止めしている所押さえておいて」  笹岡は静かにそう言った。無言でそれを押さえる。 「……お前、何で歩に突っかかるんだよ」  笹岡にとっては藪から棒だったのだろう。接着剤を伸ばす手が止まった。 「何でだと思う?」  視線は交わらない。  質問に質問で返すな、と言いたくなったが、それを飲み込んで「わからないから訊いている」と答えた。  笹岡と歩は今までもそこまで仲良くはなかった。裏を返せば、どん詰まりだったわけでもない。夏休み前に二人が脚本コンペに出る、と決まった時は、こんなに険悪ではなかったと思う。  一瞬の間の後、笹岡はふたたび手を動かし始め、静かに言った。 「俺は、あいつの顔を見ていると、(はらわた)が煮えくり返って仕方ないんだよ」 「だから、その理由を訊いてる。正直、お前に絡まれて歩だって傷ついてる」  怒鳴りたくなるのを押さえて、俺は衣装の端を押さえた。  笹岡は器用に布を圧着していく。その手がふと止まったので、俺は顔を上げた。  笹岡は最初、何か迷うような色を瞳に滲ませた。  直後、勢い込んだように顔を上げ、じっと俺を見た。三白眼ぎみの瞳の中に、光が揺れた気がした。 「その言葉、そのまま牛尾に言ってやりなよ。これ見よがしに、『私立の大学目指す』って、目障りなんだよ。  あいつの方がよっぽど嫌味で、独りよがりだ。周りに私立が選べない人間がいるとも思っていない」  笹岡が放った言葉は、かなりの勢いでもって、俺の神経を逆撫でした。  俺の手が掴みかかっても、笹岡の表情は変わることは無かった。  「やめてよ、服が伸びる」そう言って、奴が手を外そうとするので、掴む手を強める。他のクラスメイトが、俺の手を外そうと後ろからのしかかってきた。 「歩がどれだけ努力してると思ってるんだ。それをお前が(けな)す権利は無い」  手を外されそうになり、辛うじてそう言うと、笹岡の目線が少しだけ下がった。  その時、教室の扉が開く音がした。扉を開いたと思われる相手は、少しの間、そこで固まった。 「止めろ!」  扉の方から駆け寄ってきたのは、歩だった。  俺の手はすでにクラスメイトに引き剥がされていたが、俺と笹岡はにらみ合ったままだ。俺は歩に言う。 「ごめん。俺がカッとなった。俺が悪い」  そう言う俺をチラリと見ると、歩は視線を笹岡に向ける。 「理由はわかってる」  そう言って溜息を吐いた歩は、少しの間、額を手で押さえて何か考えていたが、笹岡に向き直った。 「笹岡、済まないけど大道具を外れてくれ」  俺は言葉を失った。  俺だけではない。周囲の同級生たちの、息を呑む音が聞こえてきそうだった。  辞めたとして、代替の役割はなんだろうか。 「……辞めて、何するの?」  笹岡が尋ねる。当然の質問だと思う。 「役割は与えない。君はクラスの結束を乱してると思う。少し頭を冷やしてくれ」  クラスが静寂(せいじゃく)に包まれた。視線が、笹岡と歩に注がれるのがわかる。 「わかった」  笹岡ははっきりとした声でそう答えると、荷物を持って教室を後にした。  残ったクラスメイトは所在なさげに座り込んだり、早々に作業に戻ったりしている。  何人かは歩に「言い過ぎじゃないか」と直訴した。歩は「これでも我慢した方だ」と返事をする。  そうだ。歩は長らく笹岡の小言を我慢していた。これで良かったのだ。  そう納得しようとするのに、俺は何か(こご)りのようなものが自分の中に溜まっていく感覚を味わっていた。  ――周りに私立が選べない人間がいるとも思っていない。  俺を逆上させた言葉の一部は、同時に俺に突き刺さってもいた。  笹岡は歩と同じ大学を志望していた。だが、奴の実家は学資の拠出が難しく、諦めたらしい、とクラスメイトから訊いている。この間あった奨学金説明会にも、笹岡は出席している。  奨学金を貰ってでも自分の意思を通すのか、そうでないのかは家庭によって異なる。親によって許されない場合もある。  恐らく、笹岡の家と……―俺の家は後者で、似ているのだと思う。
/50ページ

最初のコメントを投稿しよう!