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扉を開けると、温い空気が肌を撫ぜた。
夏休みが明けても、まだ教室は空調が効いていた。快適な室内と比べると、屋上にはまだ暑さと湿度が残っている。
扉に鍵をかけ、屋上の淵へと寄ると、手摺に手を掛けた。空気はまだ夏のそれだが、空は薄氷が張ったように柔らかい色をしていた。
胸は刃物で抉られるように痛むのに、気持ちの良いくらい雲の無い空が、妙に憎らしくて、泣き出したかった。
『一服したい気分』というのはこのことを言うのか、と思う。
不愛想に並ぶ建物と、その間を縫う道路を眺めていると、後ろで扉が開く音がした。
「……出てってください」
入ってきた人物に声をかける。
あの扉の鍵を持っている奴なんて、一人しか思い浮かばない。
いつにも増して、奴の顔を見たくはなかった。
一人にして欲しいと、そう思った。
足音はこちらに近付いてきた。てっきり、突き放す言葉を言えば去るものだと思っていたから、意外に思う。
足音の主は手摺に肘を付いたのが、視界の端に映った。
吐き出した煙が、むわり、と景色に靄をかけた。仄かな煙草の香りが、辺りを漂う。
喫煙をしていた先輩とは違う銘柄だと悟る。匂いのどぎつさは、この不良教師の方が勝っている。
何か小言でも言われたら、俺が出て行こう。
思っていると、隣から声が降ってきた。
「……喧嘩か」
奴の声は、静かに響いた。
俺は返事をしなかったし、かと言って立ち去ることもできなかった。
黙って先の言葉を待ったが、奴はそれしか言わなかった。寧ろ、その先は何も考えていなかったのかもしれない。
煙が規則的に隣から流れてくるばかりだった。
慰めに来たんじゃないのか、と自分が考えていることに気付く。
その事実にまた心が混乱しそうだったが、手摺を握り込むことでそれを耐えた。
ただ、奴の無頓着とも言える態度に、ふと心が凪いだ。
「……先生は、他人が死ぬかもしれないってなったら、どうしますか?」
「自分のできることをする」
奴が間髪いれずにそう言ったので、心の底から驚いた。
「相手が……自分からの助けを望んでいなくても?」
「……その相手が死んで、自分の気が咎めないなら良い。けれど、相手を助けたい、と自分が思っているのなら、俺は俺自身が胸を張れる生き方を選ぶ」
その声が、いつものやる気が無さそうで、眠そうな奴の声と違う気がして、何となく仰ぎ見た。奴は思いのほか真剣な顔をしていて、煙草を携帯灰皿に押し込む。
「けど、覚悟が無いなら止めろ」
「は?」
西念は鋭い視線をこちらに向けた。それに怯みかけると、畳みかけるように言われる。
「何を調べているかは知らないが、他人の面倒に中途半端に首突っ込んで、みすみす災難に飛び込むような馬鹿を、俺は見捨てられない」
何故かは知らないが、西念は俺がしていることに感づいている。
その上で、生半可な覚悟で、『人を助け』ようとしていると、そう指摘したいのだ。
瞬間、俺の頭は沸騰した。
「そんな簡単に割り切れるかよ」
西念を睨み付けるが、奴は俺の言っていることなんか気にしていない様子だ。
その態度が更に、俺の怒りを加速させる。
「俺はあんたに比べたら、子どもだし、馬鹿だよ。けど、馬鹿は馬鹿なりに考えて行動してんだ。親友に死なれて……友だちではないけど……知り合いが殺されようとしてるのを、俺だって見捨てられない。だてに馬鹿やってねぇんだよ!」
もはや自分を馬鹿と認める始末だったが、それでもいい。
笹岡を助けたかった。
歩が死ぬのを見た時のような、一生残るような悔いを背負いたくなかったし、誰にも同じ思いをさせたくなかった。
勿論俺は、笹岡が少女の霊が見えるとわかったところで、除霊もできないし、お祓いもできない。そういう知り合いもいない。打つ手は無い。
けれど、見捨てることだけは絶対できない。したくない。
言い切って、肩で息をしていると、黙って訊いていた西念が声を出した。
「なあ、一応確認なんだが、お前が調べてるのは、幽霊とか、妖怪とか、いわゆるオカルトに関わる案件だよな?」
西念の問いかけに、不貞腐れながら「多分」と返した。どうせまた馬鹿にするんだろう。
奴は「ふうん」と言うと、明後日の方を眺めた。
そして、新しいた煙草を取り出すと、しばし咥えたまま、無表情に黙り込んだ。
そして、
「協力してやろうか?」
そう言った。
思わず、西念の顔を見る。
何がどうなった。どういう風の吹き回しだろう?
いや、風は吹きまわしたのか?
よくわからなかった。
値踏みするようにこちらを見ている西念の意図がわからず、後退る。
「何で?」
問いかけてから、タメ口だったと気付いた。そういえば、さっきの罵倒も曲がりなりにも教師相手に失礼だったと、少し恐縮した。
だが気にする様子はなく、西念は煙を吐く。
「訳あって、そういったオカルト的な相談を、よく持ち掛けられる。できれば、お前が調べている案件についても見てみたい」
俺は困惑していた。
実際協力して貰えたら、相手が西念……―とてつもない朴念仁でも、とても心強い。
「えっと」
「その代わり、焼肉食べ放題一回、お前の奢りだ」
今度こそ絶句した。
なるほど。無報酬で許されるのはオリンピックのボランティアくらいということか。
いや、それにしても、自分で押し売りしといてこれはないんじゃなかろうか。
束の間逡巡するが、笹岡に残された時間が少ないことを思い出す。人海戦術が使えることのメリットは大きい。
それに、そういった困りごとに関わっているのなら、お祓いとか、そういうことができるのかもしれない。
顔を上げた。
「お願いします」
西念はそれを訊くと、片方の口の端を上げた。
彼の顔を、西日が照らしている。
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