九月十五日(火)

5/6
前へ
/50ページ
次へ
 俺は直ぐにでも相談をしたかったが、西念が実習の報告書の作成をしなければならなかったので、一旦別れることになった。  担当教員の予定にもよるが、実習生は十七時半まではもろもろ活動があるようだ。  何だかんだで大変なんですね、と口にしたら「そうでもない」と西念は言った。  意味がわからず西念を見遣ると、奴は底意地の悪そうな笑みを浮かべ、こう言った。 「皆川先生のチェックは楽で助かる。以前、ここの教育実習を受けた人に話を訊いたんだが、彼の実習は楽だと評判でな。提出物や課題が割と雑でも通るから、自由時間も結構できる。  上手くいくとは思わなかったが、倫理を選択して正解だったよ」  ストレートな毒に、自分の顔から表情が消えて行くのを感じた。  やはりこいつはやる気が無い。皆川のザル指導を当てにするくらい、教育実習を楽に受けたいと努力する根性は素晴らしいけれど。  西日の眩しい屋上を出て、一つ下の階に降りると西念は言った。 「とりあえず、十八時に校門前で」  念のため、西念と連絡先を交換した。他人に興味なさそうな顔をしながら、LINEアカウントを持っていることが何とも奇妙な感じだった。  時間ができた。教室で笹岡と鉢合わせるのは気まずいが、演劇祭の準備をしないのも良心が痛む。とりあえず教室に向かうことにした。  三階の連絡通路を渡り、棟を一つ移動したところで、向こうからやって来た皆川と鉢合わせた。  先ほど、褒め言葉なのか、悪口なのか分からない発言を耳にしたばかりなので何とも気まずい。挨拶で済ませようとしたが、手を上げてこちらに迫って来た。 「笹岡と喧嘩したんだって?」  開口一番それだった。  誰が見ていたんだと、口の軽い同級生に心中で毒づく。  皆川は直接的に物事を問うきらいがあり、そのスタイルが嫌な生徒もいることを、この男は理解できていない。  教師に対する好悪の感情は薄い方だが、苦手な相手だった。  適当に皆川をいなしていると、彼は溜息を吐いた。 「あまり溜め込むなよ。このところ色々あったろう?……西念先生にお前のこと頼んだけど、話は訊いてもらえたか?」  ということは、と俺は脳みその端っこで考えた。  先ほど、西念が屋上に来たのはこいつの差し金だったのか。  結果オーライとはこのことだが、とんだお節介野郎だ。 「あ、はい。色々アドバイス頂きました」  普通、実習生にそんなこと頼むか?と疑問を抱きながら嘘八百を述べると、皆川は笑顔を浮かべた。 「そうか。西念先生は、生徒たちと馴染めるか心配だったんだ。  ほら、あの顔だから女子には人気あるけど、男子とつるんでいるのあんまり見なくてさ」  女子に人気があることはともかく、聞き捨てならないことを訊いた気がする。  少し声のトーンを明るくして、いかにも興味がある風に尋ねる。 「え、初耳です。西念先生って、うちの学校出身じゃないんですね」  皆川は嬉しそうに、他人の事情をベラベラと話す。 「そうそう。なんでも、うちは弟さんの母校らしい。弟さんの話訊いて、うちのカリキュラムに興味持ったって言ってたな」  その言葉に、俺は先日の中井さんの言葉を思い出した。  もし、西念の弟という人が、彼に似ていたなら、中井さんの奴に対する既視感は、その弟によるものだったのかもしれない。  けれど、それにしたってあんな珍しい名字、訊いたら勘づくもんじゃないか? 「そういう人って、実習生で結構いるんですか?」  この問いに皆川は頭を傾げた。 「そういえば、弟の母校だから、っていう人は初めてかなあ。父母に薦められて、とかはたまにあるけど。基本は自分の母校って人が多いね」  何故だろうかと、今度は俺が首を傾げる番だった。  うちの高校はそんなに魅力的だろうか?  確かに、私立だから公立より補講の数や、講演会を多くできるとかはあるが、その程度だ。わざわざ、勝手知ったる母校を差し置いてまで、うちの学校を選ぶ理由は無い。 「西念先生の母校は遠いんですかね?」  例えば、母校が地方などの遠方にある場合は、母校で教育実習をするという選択はハードルが高くなる、と思う。想像だけど。  それに対して皆川は「さあ」と苦笑いした。 「そこまではわからないな。昨今、同僚とか部下の個人情報訊くにも気を遣うからね。少なくとも、西念先生と俺はそこまで仲良くなってないよ」  皆川はそう言って、「用事があるから」と去って行った。  俺は改めて、教室の方向へ足を向ける。  うちの高校が西念の出身校で無いのなら、奴が学校の歴史を調べていたのも、多少納得がいく。  実習生は学校の歴史を調べるカリキュラムでもあるのかと思ったが、中井さんが『熱心な先生』と評価する辺り、他の実習生はしていないようだ。  他の実習生と差を付けようとして、西念は図書室の史料を漁っているのだろうか。  ……いや、そこまでやるほど熱い奴には見えない。西念は断じて『熱心な先生』では無い  奴がこの学校に固執する理由は何だろう。  そこまで考えた所で、奴のことをグルグル考えている状況に気付く。  ひとり恥ずかしくなり、誰も通りかからない廊下で頭を掻いた。
/50ページ

最初のコメントを投稿しよう!

129人が本棚に入れています
本棚に追加