九月十七日(木)

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 演劇祭の準備の後に会うんだろうと思っていたら、西念は放課後が始まってすぐ教室にやって来た。  すぐに女子が西念を取り囲んで、「先生これ手伝ってください!」とか「これの組立てしてくれませんか?」と頼んでいるのを笑顔でいなして、俺の傍へ近寄る。  大道具を組み立てる俺の耳へ顔を寄せると、声を低くして「二十分後に国分寺駅集合」とだけ言って教室から出て行った。  その唐突さに茫然としていると、女子たちが「野々市、何言われたの?」「先生怒らせることでもしたの?」と問いかけてくる。  西念と違って、俺は女子のあしらい方が下手だ。  振り切るのに少し時間がかかり、佐伯に謝り倒して(「ハーゲンダッツ一つ奢りだから」と言われた)、とにかく学校を飛び出す。  学校から駅までは徒歩十五分ほどだが、出るのが遅れた上に、脚本の入った鞄を抱えて走るのは結構難儀(なんぎ)で、約束の『二十分後』から五分ほど遅れて駅に到着した。  改札の前にいた西念は酷く不機嫌そうな顔をしている。 「二十分後って言ったろ?」  棘を含んだ声音が理不尽に響く。 「荷物重いんですよ!自分の都合で待ち合わせ時間決めないで下さい!」  俺は肩で息をしながら叫んだ。  西念は謝るでもなく、サッサと改札を潜り抜けて行った。嫌味な奴だ。  国分寺から中央線に乗って約十五分で吉祥寺に着く。  そこから更に、井の頭線に乗り換えた。  行先も告げられず、俺はただ西念に着いて行く。  井の頭線沿いは住宅地が多い。都心へ出やすい上に治安は良く、閑静だからだろうか。実際、ここから俺の家も案外近い。  吉祥寺から三、四駅ほど来たところで西念は降りて、荻窪駅側へとひたすら歩き始めた。  大きな通りでは無いが、商店街が活気づいていて住みよい街、といった印象だ。  そのまま商店街を通り過ぎ、家が立ち並ぶ通りへと足を踏み入れる。  西念は時折スマホを見ながら、通りを右に左に曲がる。そうしているうちに、目的の場所に着いたようで、足を止めた。  築年数はそこそこ、といった印象のマンションだった。  元は白かっただろう外壁は、排気ガスのせいだろうか、少し黒ずんでいる。  エントランス前の花壇には黄色や紫のパンジーが咲いていて華やかなせいで、建物の印象と落差があった。  西念は何も言わず、エントランスに入る。  意外にもオートロックらしく、入り口の壁に付いている文字盤で、部屋番号を押した。 「はい、高木です」  スピーカーから声がした。  その声は、正に昨日俺が電話した女性のものだった。 「恐れ入ります。昨日お電話いたしました、西念です」  ボタンを押しながら西念が言うと、ままあって、「どうぞ」という声がした。同時に、エントランスの自動ドアが開く。  高木婦人は、四十代初めほどの、小奇麗な女性だった。  見た目や話し方の印象は、電話を切られた時の印象とさほど変わらない。  感情を抑えた話し方をする人で、声に抑揚は無かった。それは表情も同じで、笑うことはしない。  ただそれは、『不愛想』というのとはちょっと違う。  『凛とした』、という言葉の方が合うかもしれない。そんな女性だった。 「昨日は突然すみませんでした」 「いえ、今日はちょうど勤務先が休みでしたので」  俺は通されたリビングを見回した。  マンションの外壁とは異なり、この部屋の内装は綺麗に保たれていた。  白い壁紙は日の光を反射して明るく清潔感があったし、家具などのインテリアも、ウォールナットーークルミだったか、小洒落た印象の木材で統一してあって、持ち主のセンスの良さを感じる。  そんな中、壁際の幅広のテレビ台の上に設えられた、白木の小さな仏壇と、その中に置かれた笑顔の写真は酷く浮いて見えた。 「高木の指導と、手掛けていた作品について伺いたい、ということでしたが……」  我に返る。  俺達の前に紅茶と焼き菓子を置きながら話し始めた婦人へ目を向ける。  学校からここまでの道中、西念が俺に言い捨てたことを思い出す。  西念は、うちの高校の演劇祭の歴史について、高校演劇の歴史という視点で調査したい、という口から出まかせで、婦人へ取材する予定を取り付けた、という。  黒く縁どられ、仏壇に納まっている写真に気付いてしまった俺には、夫人を(あざむ)いていることが何とも心苦しかった。 「当時の脚本はほとんど処分しておりまして。主人と作品について話すことも多かったので、覚えている範囲ではお伝え致しますが」 「それで結構です」  そうして、西念は断りを入れてレコーダーを起動し、聴き取りが始まった。  婦人は訥々(とつとつ)と語った。  高木先生は約二十年前に新卒採用でうちの高校に勤め始めた。  採用と同時に、当時顧問が欠員だった演劇部を担当するように言われ、演劇の勉強を始める。  最初は生徒たちに引っ張られる形で顧問をしていたが、だんだんと生徒の相談に乗ることも増えた。本人も徐々に演劇にのめり込んでいった。 「当時の景気状況からも、あの高校に新卒採用で入れたことは、ラッキーだったと思います。  ……逆にいえば、辞めづらかったとも言えますね。他が無かったし、後もなかった。ストレスも大きかったと思います。  だからこそ高木は、逃げるための娯楽としても、演劇部の活動を楽しんでいた、と私は感じています」  新卒三年目。  学生時代から付き合っていた婦人と結婚してからも、演劇への熱は下がることは無く、むしろ上がっていた。  それが変わったのが採用されて五年目の夏のことだった、という。 「……あの時期のことは、私もリフォーム関係の仕事が立て込んで忙しく、はっきりとは覚えてません。  ただ、九月になって、気付いたら高木は体調を崩していました」  婦人は一つ一つ、思い出すように言葉を紡いだ。 「高木先生は多忙な様子でしたか?」 「かなり。部活に入れ込んでいましたから、恒常的に持ち帰りの仕事は膨大でした。  それに、その九月に生徒の死が偶然重なったとかで、生徒の安全指導の委員なんかもやっていたみたいです」  それまでの話とは違い、心なしか声量が小さくなった。  教師の仕事量は膨大だというが、それに加えて部活と、別の職務をこなすのは、本当に頭が下がる思いだった。 「そう考えると、高木はいつ体を壊してもおかしくない状態でしたね。最近でいうブラック企業のようなものです」  淡々と、少し非難するような響きを含めて言うと、婦人は仏壇へと目を向けた。  婦人の話を訊く限り、高木先生の死因は過労とか、そういうことでもおかしくはない。 「……高木先生に休みを勧めたりは?」  西念の問いかけに、婦人は首を振る。  無表情な顔なのに、悔しさが滲んでいる気がした。 「言ったんです。学校行事の前後に体調を崩した後、それが戻らなくて。  医者に行くよう伝えたのですが、『時間が無いから』と訊きませんでした」  彼女は仏壇から視線を逸らさなかった。  窓から差し込んだ西日が、仏壇のある一角を強く照らしている。 「それから、一週間ほど経って、九月の終わりに部屋で死んでいました」  時間が止まったような気がした。  胸を刺すような切なさが辺りを漂う中、日の光だけが、その空気を和らげてくれた。 「医師にも原因はわからなかったようです。  心不全、とだけ言われました。学校にもそう伝えて、全部終わりでした」  微かに、婦人の声が揺れた気がした。それを見て、俺は切り出す。 「……高木先生は、演劇祭の準備に疲れていた、ということはありませんでしたか?」  西念がチラリとこちらを見た。  だが、俺の口出しには何も言わなかった。  それは、先日の澤田先生の様子を思い出しての言葉だった。  演劇祭の書類を準備するのが演劇部顧問なら、彼もまたその業務に追われていたはずだ。  婦人はそこで言葉を切って、少し考え込む。俯いた顔に影が出て、老け込んで見えた。 「寧ろ、生徒の死が重なったことに、疲れていた印象でした」 「彼は、安全委員会になったと仰っていましたね。生徒たちの担任を?」  西念の言葉に、婦人は胡乱(うろん)げな顔をする。話が演劇から逸れたことを怪しんでいるのかもしれない。   「いいえ。……けれど生徒さんが続いて亡くなった辺りから、彼の様子が変わったので」 「それは体調が悪い、という意味ではなく?」  彼女は頷いた。 「体調も勿論でしたが、何か焦っているようでした。  私も最初は演劇祭の仕事に追われているのだと思いました。毎年のことでしたから。  けれど、私が夜中に帰宅するときも、持ち帰りの仕事をしながら『時間が無いんだ』というようなことをよく言っていました。  それに何か、違和感を感じたんです。上手く言えないんですが」  婦人はそこで押し黙った。  そして「これって、お調べになっていることと関係があるのかしら?」と疑問を口にした。  肝が冷えたが、西念はサラッと「失礼しました」と謝った。 「当時の先生のご様子も、お伺いできればと思ったので」  それを訊いて彼女は溜息を吐いた。「まあ、別にいいですけどね」とぼやく。 「当時、警察にも結構訊かれましたから。  死ぬ直前はどうだった、とか遺書は無いか、とか」 「警察の方は仕事とはいえ、かなり踏み込んできますからね」  西念は苦笑いした。警察が何たるかを知っているような口ぶりだったので、心の中にいるお巡りさんに謝罪をしておいた。  婦人はぼやきを続ける。 「本当そうですね。彼の部屋を引っ掻き回して、日記とか手帳の類も持っていかれました」 「ああ、そうですよね。別に関連性の無いことに、関係を見出そうとする人たちですから」 「あら?ご経験が?」  初めて、婦人は西念に興味を抱いたようだった。 「ええ。身内がちょっと、変死致しまして」  これに驚いたのは婦人よりも俺だったろう。  先ほど知らないと決め込んで西念を馬鹿にしたことを、頭の中で謝罪する。  婦人は少し口元を押さえる素振りを見せた。 「それは……大変でしたね」 「いえ、うちはそれほどでは。ところで」  西念は言葉を重ねる。 「話に挙げられていた、高木先生の手帳を拝見してもよろしいですか?  演技指導などの記録などあれば、参考にさせて頂きたいので」
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