九月十七日(木)

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 婦人について部屋に入る。  部屋には備え付けのクローゼットと、デスクが一台、本棚が一架ある他は、何も無かった。  本棚には教育指導に関する本に、小説が数冊、そして演劇に関連する本が並んでいる。 「物はほとんど処分してしまったんです。  脚本も、生徒たちが書いたものばかりだったので、ほとんどは澤田先生に差し上げました」  部屋の中は殺風景と言っていい。  この家のリビングもだいぶ整然としていたことを思うと、物が無い状態を保つのは彼女の性分なのかもしれない。 「本棚かデスクに入っていたはずです」  そう言うと、彼女はデスクの天板下の引き出しを開いた。  それを待つ間、デスクの前に立てかけられたホワイトボードへ目を遣る。  白いなめらかな板面には、「九日までに脚本確認」とか「横田工務店へ木材発注」とかそういうメモ書きが張り付けてあった。  中には「白菜、豆腐、ネギ」と書かれた紙まである。内容が微笑ましくて、口が緩みかける。  だが婦人が家を綺麗に保つ理由に思い至り、口元を再び引き結んだ。  だって、新婚二年目だったのだ。  俺は彼女ができたことは無いけれど、新婚二年目で配偶者が亡くなるなんて考えただけでゾッとする。  そう考えて、俺はこの家が少々潔癖だと思うほど、清潔を保つ理由に思いを巡らした。  ――婦人は気持ちを捨てるために、ここまでの美しさを我が家に強いるのではないだろうか。  人の思い出はモノに宿ると、俺は思う。  写真はもちろんのこと、人から貰ったもの。人が使っていたもの。人が好きだったもの。人が在った空間そのもの。  俺が歩との思い出の縁として脚本を貰ったのと同じように、婦人には『この家』が残された。   けれど、過剰な思い出は悲しみを引き起こす。  この家いっぱいの思い出を受け入れることは、婦人一人には荷が重すぎたのだろう。  だからこそ、この部屋も、リビングもこんなに美しく、殺風景なのだ。  目の前でデスクを調べる細い背中を見る。 「あ、ありました。これです」  婦人はデスクから一冊の手帳を取り出した。表紙には二〇〇〇年と印字されている。  手帳を受け取った西念は、それをデスクの上に広げた。  男性にしては線の細い字で、丁寧に予定が書きこまれている。  主に教師としての予定が並んでいるが、週に一、二度は演劇部の予定が入っている。  西念は無言でページを(めく)った。婦人の方は他に何か無いかと、本棚を探していた。  八月のページを捲った時、俺はある文字が目に留まった。  それは西念も同じだったようで、九月のページから俺たちの視線は動かなかった。  西念が婦人に声をかける。 「高木さん」 「はい?」 「この九月のページに書かれている、『沼田(ぬまた)亜矢子(あやこ)』ってどなたかご存じですか?」  高木先生の手帳では、同僚、または仕事上の関係者の名前には敬称が付けられている。  演劇部の予定と一緒に書き込まれた、名字だけの表記は生徒だろう。  では、このフルネームの女は誰なんだろう?  婦人は顔をしかめた。 「それが、わからないんです」  婦人は頬に手を当て、少し俯く。 「警察は、職場内のいじめや、痴情のもつれの線も疑って、その名前の方を探したようですが、全く手掛かりがなく」  婦人が嫌悪感を示すのもわかる。  亡くなった夫が新婚早々浮気していた可能性があるなんて疑われたら、さぞ嫌な気持ちがしただろう。  俺はもう一度。その文字を眺めた。  ――沼田亜矢子。  誰かはわからないが、その名前を見ていると、寒々しいものを背中に感じた。  黙っていた西念が尋ねる。 「高木先生が高校に赴任する前、演劇部の顧問をされていた方のお話を何か伺っていませんか?」  その問いかけに、婦人は首を振った。 「夫が赴任した時には、もういなかったそうです。  他の先生や生徒に尋ねたそうですが、突然辞めてしまった、というような話でした。引継ぎもなかったって、夫は困っていましたね」  彼女はそう言って苦笑いをした。
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