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「コーラです」
グラスを男性の前に置くと、彼は白い歯を見せ「ありがとう」と言った。
そこに、先ほどの怖いイメージは無い。思った以上に人懐っこいのかもしれない。
「相変わらず子供舌だな」
西念がコーヒーを口に運びながら言うと、男性はげんなりした顔をした。
「カフェイン中毒者に言われたくないわ」
男性は顔を歪めた。
男性は西念の大学時代のゼミの同期で、七尾さんといった。
西念の交友関係の想像がつかないので、正直こういう友人がいることが意外だった。
勤務先は警視庁。
手掛かりがわからない『沼田亜矢子』のことについて、西念から調査を頼まれたのだという。
それにしても、ゼミの同期とはいえ本来は越権行為ではないのだろうか。
「この子が依頼人なのか?」
七尾さんは、品定めするように俺を眺める。
「野々市裕太です。西念先生の実習先の高校の生徒です」
そう自己紹介をすると、彼は少し困ったような顔をした。
意図の読めないその表情に、こちらが戸惑う。
七尾さんは少し考えた後、一瞬チラリと西念を見た。それから視線を俺に戻すと、雑談を始めた。
「野々市くん、若いな。東京の子?」
「そうです」
「線細いけど結構体しっかりしてるな。何かスポーツやってんの?」
「中学時代にテニスをやってたきりです。……今は新聞部です」
「へえー、新聞部、何か興味があって?」
「もともと、歴史とか民俗とか、調べることに興味あって、そういう文章書く練習になればって」
「しっかりしてるねぇ」
刑事(?)には初めて会ったが、予想を超えてグイグイ来る。
緊張して答えていると、七尾さんは話を止めて、西念の方を見た。
「……誰かさんに似てるなぁ?」
西念は眉を寄せ、「もう協力しないぞ」と凄む。
七尾さんはニヤリと笑い「ごめんごめん」と謝った。
言葉の割に、悪びれた様子は無い。
「失礼ですが、七尾さんは何で俺に協力してくれるんですか?」
西念経由ではあるが、赤の他人の依頼である。さっきも思ったが完全に越権行為だ。
すると、七尾さんは決まり悪そうに頭を掻いた。
「あー、こいつには色々世話になっててさ。何ていうか、君の為というより、自分の為なんだよなあ……」
「そうだな。そろそろ、お前が溜めに溜めたツケを返して貰わないとな」
コーヒーに口を着けていた西念が、冷え冷えとした声で言い放った。
それを訊いた七尾さんは肩を竦める。
「まあ、そんな手荒に扱わんでくれや」
「それを言う権利があるのは、他人を手荒に扱ったことの無い人間だけだ」
西念が冷えた眼差しで七尾さんを見る。彼は「おお、こわ」と悪態を吐いて、鞄から手帳を取り出した。
「じゃあ、早速報告するわ。とりあえず、調べはついた」
その言葉に、西念は少し目を丸くした。
「どういう風の吹き回しだ?」
心底驚いたように言う西念に、七尾さんはしっかりとした笑みを浮かべた。
その表情とは裏腹に、目の端は小刻みに動いている。
「お前、舐めんなよ……。
……だがさすがに、警察内部には六十年前の記録は残ってなかった。俺の訓練時代の教官に頼み込んで、上の年代の伝手を辿って貰った」
それを訊いた西念は、鼻を鳴らした。
「その『伝手』とやらはよく生きてたな」
「ああ。もう九十近いが、矍鑠とした爺さんだったよ。
教官の先輩刑事だったそうだが、現役時代の捜査メモは全部取ってあるんだと。頭が下がるぜ」
七尾さんは呆れたように感嘆の息を漏らし、頬杖をつく。
「まずは沼田亜矢子について、と言いたいところだが、先に浅井清恵から報告させてくれ」
「浅井清恵?」
思わず声が出た。
「ああ。西念から名前だけは訊いてたんだが、こっちの方が先に調べついてな」
亜矢子について調べていて、清恵のことが先にわかるとは、どういう状況だろうか。考えていると、手帳を捲る七尾さんの手が止まる。
「浅井清恵……は、一九五九年の九月に死亡している。死因は自殺」
その言葉に心臓が跳ねる。
九月の死。自殺。
そのワードは、澤田先生から訊いた、六十年前の事件と重なる。
「その、もしかして彼女は演劇部でしたか?」
「ああ、よくわかったな。その通りだ」
それを訊いて確信した。
清恵は澤田先生が言っていた、六十年前に自殺した生徒の一人だ。
つまり、演劇部が演劇祭に参加できなくなった原因が彼女、ということだ。
「浅井清恵は、九月の半ばにお前らの高校にある講堂の、ステージ上で亡くなっている。講堂の天井近くから落ちて死んでたんだと。その死に方が結構センセーショナルで、爺さんも良く覚えていた。遺書は無い。
……講堂ってそんなに高さあるのか?」
七尾さんは西念に尋ねたが、奴は入ったことが無いらしく、首を傾げて俺を見た。
俺は今日の午後入った講堂の構造を思い浮かべながら答える。
「あると思います。建物自体は二、三階分くらいはありますから。
何というか、階段状になった座席が円形に並べてあって、一階部分にあるステージを取り囲んで見下ろす形です。
だから、ステージの上の吹き抜けは二、三階分の高さがあるんです」
七尾さんは合点が言ったように頷いた。
「なるほどな。でかい擂鉢みたいなもんか」
「それで?」
西念が促す。七尾さんは不思議そうな顔をした。
「それだけだ。天井から飛び降りて死んだ。それだけ。自殺だと判断された」
「……講堂は普段閉鎖されている。そんなところに、女生徒が入り、自殺して、警察はおかしいと思わなかったのか」
七尾さんは、「ああ、そういうことか」と合点がいったようだった。
西念の厳しい物言いに怖気づかないのは、さすが付き合いが長いだけある。
「お前の疑問ももっともだが、講堂は当時、常に開放されていた。
演劇部の部室だったらしく、朝晩以外は自由に出入りができた。この事件をきっかけに常時閉鎖になったって、爺さんから訊いたけどな。
だから、浅井清恵が講堂に入れたこと自体は不思議じゃない」
階段の踊り場にある演劇部の部室を思い出す。彼らの部室が踊り場になってしまったのは、清恵の事件がきっかけだったのか。
「ここからが問題だ。
飛び降り現場である天井の足場は講堂の入り口とはわけが違う。
入るために鍵が必要だった。
しかも、その鍵は事務室で管理されていて、いくら演劇部でも許可を貰わないと入れなかった。
その鍵が、死後の浅井清恵のポケットから見つかった。指紋が無くて、それもまた奇妙で、警察も一旦は捜査した」
「結局捜査したんじゃないか」
西念がボソリと呟いた。七尾さんはそれを訊いて苦笑いする。
「鍵を清恵さんに貸した記録は無かったんですか?」
俺の問いかけに七尾さんは首を横へ振った。
「記録は無かった。勿論、事務員たちが生徒の誰かに鍵を貸した記憶も無い。
まあ、当時の鍵の管理方法はかなり杜撰で、鍵が揃っているかの確認を週に一度しかしていなかったようだ。
更に、警備員がサボり魔でな。
事務員が不在の時に、任されていた警備業務をサボることが多かった。
事務員は、全員での会議が別室で週に何度かあったそうだから、その時に鍵を盗まれたんだろうとよ」
何だか、当時の管理体制や、警備員の怠惰さに溜息が出そうだ。
「奥の手で、生徒を含めた学校関係者に大規模な聴き取りも行われたが、目撃者も無かった」
警察も手詰まりだったということか。
当時の設備を考えると、できることに限りのある事件だったのかもしれない。
コーラに口をつけた七尾さんが続ける。
「結局、誰かが手引きしたにしても、証拠が不十分だった。当時はセコムも無いしな」
「防犯カメラも……」
「アメリカでようやく開発された直後くらいだな。日本での実用化には程遠かった」
俺は唸った。
「遺書は無いと言ったが、自殺の動機に心当たりは無かったのか?虐めの線は?」
西念が尋ねる。
虐めという言葉に憂鬱になりながら、七尾の話に耳を傾ける。
「それも疑ったそうだが、特になかったようだ。
もし虐められていたとすれば、一人くらいタレこみ入れても良さそうなものだが、そういう生徒もいなかった。
爺さん曰く、生徒は皆口を揃えて、何で死んだかわからない、と言っていたそうだ」
「生徒たちの清恵の人物評は?」
「爺さんが聴取した範囲だと、真面目な子だったって話だ。
一応、生きている清恵の近親者から話を訊けないか調べたが、清恵の一家は絶えていてな。短期間でできるのはここまでだった」
思わず腕を組んで、考え込む。七尾さんには悪いが、清恵が自殺した動機が分からないと、呪いを解く手立てがわからない。
「清恵の情報については、参考にならんな」
西念がズバッと切る。友人相手でも酷くないか。
「……沼田亜矢子の情報やらねえぞ」
七尾さんが西念を睨めつけながら言う。
それを訊いた西念は、先を促すように手を差し出す。ただの横柄だ。傍から見て一人ハラハラした。
七尾さんは憮然とした表情で、だが再び手帳を眺める。
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