九月七日(月)

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 一九〇〇年代初頭に建てられた前身校から百年余り。この高校はいわゆる、由緒正しい進学校、らしい。  その割にというか、OBGによる寄付のせいか、校舎は割と新しい。  南棟に向かう俺の両側は真っ白な壁と、大きな腰高の窓が並んでいる。校内のどこもかしこも白と灰色、金属を多用した近代的な造作で、それはどことなく『病院』を思わせた。  この病棟のような校舎は『三』の字のように並んでいる。『三』の上の線からそれぞれ、南棟、中棟、北棟と呼ばれていて、南棟は小平駅方面、北棟は国分寺駅方面に当たる。  その三つの校舎を貫くように、各階二本ずつ連絡通路が渡されており、全体を上から俯瞰すると、ちょうど『(うし)』という文字に近い形になる。  無機質な印象の校舎の中には、約千人の生徒が詰め込まれている。  『丑』の真ん中にある二つの四角はそれぞれ中庭になっていて、南棟側は芝生の広場が、北棟側は池があり、生徒たちの休憩時間のたむろ場や、活動の場として使われていた。  俺は南棟三階の階段を、辺りを伺いながら折り返し、更に上へと昇った。  この踊り場には、何故かいつも演劇部の荷物が散乱している。  それを避けつつ最後の段々を駆け上がり、途中、合鍵を取り出した。  今春卒業した新聞部の先輩から貰ったものだ。  その先輩はちょっと悪い人だった。  どうやら首尾よく型をとった先輩は、この鍵を使い、秘密の場所で喫煙をしていたらしい。ストレートで高校を卒業する年齢よりは少し上だと訊いたから、遣瀬(やるせ)無いこともあったのだろう。  煙草に興味を持てなかった俺は、毎度誘いを断り隣に立つばかりだった。それでも、先輩は何か思うところがあったらしい。卒業と同時にその鍵をくれた。  以来、何となく気分の悪い時や、考えごとをする時は、この鍵を使って一人の時間を得ていた。  扉を開け、平場に出ると強い風が俺の髪を()いた。  九月ではあるが、照り返しのせいか、座り込んだり、寝転んだりするには気温が高すぎる。  南棟の屋上から見る空は、まだまだ夏の色が深く、思わず見惚れる。それなのに、気流に乗って流れくる匂いは焦げ付くように香って、不快だった。  平場から辺りを見回すと、左奥に、大講堂の円形屋根が見える。  この講堂だけが、学校の敷地内で唯一、歴史を感じさせる仕様になっている。  何十年も前に、演劇祭の地域貢献度を鑑みて、戦前のOBや最初期の生徒が多額の寄附をしてできたらしい。  戦後の物資の調達状況を俺は知らないが、当時にしては洒落た煉瓦の壁で、その堅牢な造りとは対照的に、柔らかな円形をした建物だ。中も同じく円形になっており、ステージを階段状に取り巻く座席はなかなか(おもむき)深い。  この大講堂こそが、うちの学校の演劇祭へかける熱意と誇りを象徴しているようで、俺は何となく気が引けるのだけど。  一息吐き、いつも昇る塔屋(とうおく)を見上げた。  その上、虚空に、立ち上る紫煙が筋を作っていた。  ――誰かいる。  心臓が早鐘を打つ。そもそも屋上は出入り禁止になっているので、教員は滅多(めった)に上がってこない。じゃあ、こいつはいったい誰だ。  焦りと不安、そして嫌悪感が駆け抜けた。タブーを犯しているのは自分も同じなのに、他人の行動となると何となく許せない。校内で喫煙なんて大抵、ヤバい奴に決まってる。  今日のところは退散しようと(きびす)を返した時、上から声が降ってきた。 「……うちのクラスの生徒だよな?野々市だっけ?」  いやいや顔を上げると、帰りのホームルームでも見かけた顔が覗いていた。 「西念(さいねん)先生、ですよね。良いんですか、それ」  俺が顎で煙草を指すと、西念は手中の煙草を眺めた。 「普通に言いますよ」  ところが西念は、俺の告げ口宣言にも動じた様子は無かった。  再び、煙草と口へと運ぶ。 「別に良い。俺が学校追い出されるだけだしな。それよりも、告げ口したらお前が鍵持ってることがバレるんじゃないの?」  そう言うと、西念は後頭部で一括りにした長い髪を風に揺らし、煙を吐き出した。  ――とんでもない、実習生だ。  悪びれもしない西念の様子に憤りしかない。こんな奴が実習生なんて、うちの高校はどうかしている。  朝、担任の皆川に連れられたこいつは、笑顔で自己紹介をした。  第一印象は『不審』の一言に尽きる。声こそ教師特有の抑揚が付いていたが、眠そうな目が強烈で、なんだか違和感だらけだった。  いかにもやる気が無さそうなくせに、顔が……―控えめに言っても非常に整っているせいか、女子には人気があるようで、黄色い囁きがあちこちから聞こえていた。  気になったのは、年齢だ。二十代半ばだという。詳しい年齢は「秘密だ」とはぐらかしていたのがまたムカついた。  二十代半ばといえば、二十五、六だろうか。大学院所属らしいが、それにしても歳をとっている。去年の教育実習生は大抵が二十二歳か二十三歳。大学を現役合格するか、一浪して入学し、卒業する年に教育実習に来たメンバーだった。  院に行ってから教師を志すようになった、ということも考えられるが、態度からもわかるように、そこまで『教師』という職に興味を持っているとも思えなかった。  教室での呆けたような様子といい、掌を返した先ほどの言動といい、俺はこいつにそこまで良い印象は抱いていない。  教育実習は今日からだ。この朴念仁と二週間も過ごさなければならないかと思うと、酷く不愉快だった。  脅されたことも腹に据えかねるし、一刻も早く屋上から去ろうとした。  と、ムカつく声が上から追い打ちをかける。 「お前、新聞部でオカルトに関する記事、書いているらしいな」  ーー何で知ってるんだ。  その情報をコイツに与えたのは誰だ、と思いつつ「そうですけど」と返事をする。我ながらぶっきら棒な声音が漏れた。 「なあ、この学校に何か変な噂とかないか?」  西念は、先ほどと変わらず、ひょうひょうとした口調で訊いてきた。  顔色にも変化はない。  俺は何と言っていいのか、一瞬言葉に詰まった。  こういう質問をしてくる教師は確かにいる。けれど、真剣な表情で訊いてくる奴は初めてだった。  先ほどの眠そうな表情からは考えられない、鋭い視線を向けられて、俺は内心戸惑っていた。  思わず、何か噂を話そうか、と思ってしまう。  少し躊躇って、口を衝いて出た言葉は淡泊だった。 「知りません」  そう言い捨てて、俺は先ほど開けたばかりの扉を再び(くぐ)った。
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