九月二十二日(火)

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九月二十二日(火)

 泥のように眠った。  目蓋を刺す陽光の気配で意識が浮上した。  怠さを押さえて身体を起こすと、据え置きのデジタル時計が目に入る。  時刻は十三時。  とっくに、演劇祭の三日目が始まっている時間だった。  昨日、うちのクラスの演目は、無事に終わった。  コメディに走る作品が多い中、正統派の青春モノは珍しく、評判も上々だった。  呆けた頭で見ていたが、同級生の演技や、自分たちが作った道具がステージに並んでいるのには、ちょっぴり涙腺が刺激された。  他のクラスの友人たちは、口々に「四組いけるんじゃないか」と言ってきた。  けれど、終わった瞬間に、無力感と、泣きたいような気持ちが襲った。    終わったのだ。全てが。  あとは、……待つのみだった。  クラスの片づけに参加する気力も無く、俺は帰宅し、ベットに身を沈めたのだ。  起き抜けの身体は乾いていて、水が欲しかった。  寝癖も直さずリビングへ向かうと、父親がダイニングの椅子に腰掛け、テレビを眺めていた。  そう言えば、今日は祝日だ。  暦通りの勤務の父親が、家で寛ぐばかりの日だ。  踵を返そうとすると、その前にこちらを向いた父親と目が合った。  何も話しかけてくることは無いだろう、と高を括った瞬間、父親はその目に躊躇(ためら)うような色を滲ませた。 「演劇祭じゃなかったのか?」  この父親の口から学校行事の名前が出るとは。  大方、母さんの入れ知恵だろう。  気のない返事で肯定すると、沈黙が流れた。  終わりかと思ったところで、父親は続ける。 「友だちの……脚本が採用されたそうじゃないか」  なぜ、今そんなことを口にするのか、俺にはわからなかった。  長い間、学校行事に言及することとは、互いに無縁の生活を送ってきた。  参観日に来るのも、三者面談に来るのも母さんだった。  この人が俺の学校生活に――引いては成長に、関心を示したことは、長らくなかったはずだ。  『何をいまさら』。  そんな言葉が、脳裏に浮かんだ。 「あんたには関係ない」  俺はそう言い捨てて、リビングを出ようとした。  だが、父親は食い下がる。 「でも」 「関係ないって言ってるだろ!」  母さんはこの分からず屋に、どこまで話したんだろうか。  事情も知らない癖に――実子とはいえ――他人のことに口を出す様子に、酷く苛立った。  そんな風に、俺が声を荒げているせいだろうか。  対照的に、父親は珍しく逆上することもなく、静寂を(たた)えた視線で俺を見つめている。  その視線が、俺の神経をますます逆撫でした。  顔を上げ、返答しようと口を開けるが、言葉に詰まる。 「後悔しないか?」  出すべき言葉を選べずいると、父親に先手を取られた。  奴は続ける。 「俺は何も知らないが、お前が何かに必死になっていたことは、わかっているつもりだ」  父は、静かに言った。  つもりかよ、と心の中で突っ込むが、不覚にもその声音に、懐かしさを感じた。  幼い頃、こんな感じで声を掛けられなかっただろうか。  俺は、長らく忘れていたけれど。  泣くような、祈るような声が、自分の口から零れた。 「もう遅い」 「遅くない」 「何でわかる」 「だってまだ、終わってないじゃないか」  父が言っているのは、演劇祭のことだ。笹岡のことじゃない。それはわかっている。  それでも、まだ自分にできることがあるのではないか、と思ってしまう。  ――俺は俺が胸を張れる生き方を選ぶ。  西念の言葉が、脳裏を過る。  今俺は、未来の自分に悔いの残らない選択をできているだろうか。  俺は黙って、リビングを出た。  洗面所で急いで顔を洗い、部屋に戻る。  黒いオーバーサイズのTシャツと、スキニージーンズを身に着けると、リュックを背負った。  玄関に行き、靴を履いて、顔を上げる。  一言、家の中へ「行ってきます」と声を掛けた。  リビングからは「気を付けて」と声が返ってきた。
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