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扉を開けると、風が勢いよく俺の髪を掻きまわした。
強い風に逆らうように扉を押し返し、平場へ出る。
空は晴れ渡っていた。気温は快適で、寧ろ肌寒く感じるほどだ。いつの間にか、秋が来ていたことに気付く。
屋上から始まったのだ。
亜矢子がここから落ちなければ、……―歩は死ぬことはなかったのだろう。
電車での移動中に、可能性を探っていたが、俺の頭には、何も浮かばなかった。
残された時間でできるのは、学校内で、少女たちに関連のある場所を探ることだけだった。
先ほどは、撤収でごった返す講堂の天井部分に入ってみた。
だが、清恵が死んだのは六十年前だ。手掛かりなんぞ残っているはずもなく、その場を後にした。
その後、学校裏手の亜矢子の落下現場に向かった。
当時は裏庭だったというその場所は、コンクリ固めの、見慣れた光景が広がっているだけだった。
三年一組の教室は生徒が残っているので入れなかった。
屋上の踊り場も、特に目ぼしいものは残っていない。
そもそも、この校舎自体、少女たちが亡くなってから一度建て替えられている。
手掛かりなんぞ、もう無いのかもしれない。
それでもこうして、諦め悪く屋上に来てしまった。
亜矢子の落ちたという手摺に近づき、辺りを見渡し、あちこち確認するも、何も手掛かりは見つからない。
それはそうだ。
彼女が落ちたのは、ここじゃない。遠い過去の場所なのだ。
手摺に凭れかかり、床に崩れ落ちるように座ると、大きな溜息を吐いた。
遠くから、下校し始めた生徒たちの声が聞こえてくる。
今は何時だろう、とスマホを取り出した。
笹岡が監督に任命されたのが二週間前の火曜の夕方。
正確な時間はわからないが、リミットは確実に迫っている。
電源ボタンを押すと、何件か着信が入っていた。全て西念からだ。
演劇祭の慰労だろうか、と首を傾げる。
時間は四時を回っている。
笹岡がどうしているのか気になり、俺は立ち上がって、校舎内に戻ろうと踵を返した。
……それが目に入った時、他の生徒か、と思った。
塔屋の向こうに立っているそれは、俯いていて顔が見えない。
だが、白い色をした肌の質感から、同じ年ごろの少女に見えた。
彼女は、絵画のように動かない。
紺色のブレザーに太いプリーツの入ったスカート、白く長い靴下の組み合わせは少し時代遅れに見えた。
そして、ボブとも言えないような、まっすぐ切り揃えたおかっぱ頭に、ベレー帽。
そこまで見て、俺はようやく強烈な不調和と悪寒を感じた。
いくら服装が自由でも、演劇祭の後でも、屋内で帽子を身に着ける生徒はいない。
そして、ベレー帽に、紺の制服。それは、西念に見せて貰った卒アルから出て来たような姿だった。
「沼田亜矢子……?」
いや、浅井清恵かもしれなかった。けれど、今はどちらでも良い。
全身から脂汗が噴き出した。
逃げなければ、と思うのに、俺の足は固まっている。
気持ちが急いていると、今まで微動だにしなかった少女が動き始めた。
俯いていた顔がゆっくりと持ち上がり、髪に隠れているその先が見え始めたのだ。
彼女が頭を上げるその動きは機械的で、ねじを巻く途中のからくり人形のようだった。
直角に下を向いていたせいで顔に被さるようだった前髪が、少しずつ上がっていく。
カクカクと顔を上げるその動きが、距離があるのに目の前のことのように鮮明に見える。
やばい、やばいやばいやばい。
危機感を感じて足を叱咤するのに、ただ、棒のように立つばかりだった。
遂に、彼女の顔が上がり切り、髪に隠れていた向こう側がはっきりと見えた。
自分が、大きく叫んだ気がしたが、音は耳に入ってこない。
そこには、穴が一つ、あるきりだった。
いや、正しく表せば、穴が一つと、何かが潰れたらしき跡があった。
だが、目と言われるものも、鼻と言われるものもなかった。
爛れたようなその跡は、しかし意思を持って俺を見ているような気がした。
顔の下方に浮かぶ穴は口だったのだろう。二枚の青紫をした肉に覆われていた。
屋上の床にへたり込む。
全身を蚯蚓が這いずり回るような感覚がして、それが激しく、断続的に俺を襲った。
逃げろ、逃げろ、という声に思考が支配される。
後ずさりすると、手摺に背がぶつかった。
もう終わりだ、と目を瞑りかける。
ふと、彼女がその場から動かないことに気付いた。
近づいてもこない。
強烈な見た目とは裏腹に、彼女のその姿に違和感を覚えた。
確かに彼女の容姿は異様だが、どこか悲しそうにも見える。
俺をただ眺めて、立ち尽くすばかりだ。
本当に、この少女が今までの犠牲者を屠ってきたのだろうか?
積み重なる違和感の上に、更なる疑問が降って湧いた。
――何故、俺に彼女が見えるのだろう?
彼女の様子を見ているうちに、思考がクリアになってくる。
笹岡に何かあったから、俺にも彼女が見えるのだろうか。けれど、奴に何かあったのなら、学校がこんなに安穏としているわけがない。
それに、今までの慣例に倣えば、死ぬ生徒だけが彼女が見えるはず。
だとしたら。
俺も呪われているのではないか。
そう認識したと同時に、体が動いた。塔屋まで走り行って、ドアを開き、校舎内の階段に出る。
出しなに彼女の、もう既にない顔から、哀しい視線を感じた。
段差を駆け下り、南棟から北棟までを走り抜けながら考える。
俺も呪われているとしたら、俺達は今まで、呪いの発動条件を勘違いしていたのではないか。
亜矢子の脚本が関係するには違いないが、必ずしも監督が発動条件ではない。
屋上を出ると、少女は見えなくなった。常に見えるわけでは無いことに安堵する。
人影の無い中棟を通り過ぎ、北棟の二階に辿りついた。二年四組の教室に人気は無い。
俺は勢い良くドアを引いた。
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