九月二十二日(火)

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「笹岡!」  笹岡は教室の隅に(うずくま)っていた。  その様子に慌てて近づく。 「笹岡!笹岡!」  揺さぶると、笹岡は顔を上げた。 「野々市?今日休みじゃないのか?」  その目は潤んで、腫れている。  珍しくしおらしい。 「……良かった。生きてた……」  俺はホッと息を吐いたが、安心している暇は無い。  とりあえず、俺が何故見えているのか、こいつとの共通点を探さなければならない。 「なあ、お前……」  その時、俺のスマホが鳴った。  表示を見るとあの朴念仁だ。  この忙しい時に、と焦りながら電話を取る。 「はい!もしもし!」 『笹岡は生きているか?』  相変わらず、西念はぶっきらぼうだった。  だが、今日ほどその声に安心したこともない。  自分の焦りが少し緩やかになるのを感じる。 「しぶとく生きてますよ」 『そうか、良かった。まだ学校にいるか?』 「ええ、笹岡と一緒にいます。それより、大変なことになりました」 『どうした。笹岡が死ぬことより大それたことがあるのか』  前言撤回。  こんな時まで悪い冗談を言われるのはイライラする。 「……残念ですが、それほどでは」  皮肉を返すと 「早く言え」 と、無感動な声に突き放された。 「単刀直入に言うと、俺も呪われているようです。  亜矢子か清恵かはわかりませんが、少女の霊が見えます」  電話口の西念が黙った。嫌な沈黙が流れる。 『……お前は監督じゃないよな?』 「俺が知ってる限りでは」  笹岡を振り返り、見る。  奴は不思議そうな顔をする。  そう。監督は、まだこいつのはずだ。 「ってことは、呪いの発動条件は違うってことですよね?」 『そうなるな』  呪いの発動条件は何なんだろう。  場合によっては、原因が別にある可能性も否定できない。 「えーと、今まで呪われたのは、……脚本を選んだ監督か、その後継者ですよね?」  スマホのスピーカーから、吉祥寺駅のアナウンスの音が聞こえた。西念の声は聞こえない。 「……西念先生?」 『いや、俺たちが見落としている人たちがいる』 「え?」  その時、背後の笹岡が大きな悲鳴を上げた。その声に驚き、笹岡を振り返る。  笹岡は目をギュッと(つぶ)って、俺に縋りついた。 「おい!なんだよ!」  突然の行動に困惑すると、笹岡は目を瞑ったまま、教室の前方を指差す。 「前!前!」  言われた通り、前を見る。  特に、変なところはない。そう思った。  安堵しかけた時、ふと、前方の入り口に目が行く。  外から、引き戸に手が掛けられている。  戸を引いた音はしなかった、と思う。  それは紛れもなく人間の手ではあったが、青に近い紫色をしていた。  その手に付いている爪の色は限りなく黒に近い。  それを見て、小学生の頃に、輪ゴムで遊んだ時のことを思い出す。  輪ゴムを手に巻くと、肌の色が赤から紫へ変わっていった。  結局、手が痛くなり、その先を見るのは諦めた。  その手は、輪ゴムを巻いた時のような色をしていたのだ。  笹岡を後ろ手に抱え込み、後退りする。 『おい、どうした』  西念の声がした。  まだ電話は繋がっている。 「手が……」  答え切る前に、手はーー控えめに音を立て引き戸を開けた。  開いた扉から、(ぬめ)るような動きで何かが入ってくる。  まず、長く、黒い髪が目に入る。  乾燥したそれは、一本一本が雑なウェーブを描きながら、身体のラインを隠すほど広がっていた。  先ほど戸に掛けられていた手は力なく身体の脇に垂らされている。  灰色のスカートから伸びた脚は、手と同じ色をしていて、一方でその脚が履いているヒールの低いローファーは、汚れも無く綺麗だった。  気が付かなかったが、上着はスカートと同じ色をしている。  そこでようやく、入ってきたが、灰色のスーツを着た女性だと理解した。 『おい、野々市。おい』  西念の声が遠い。  それは、ゆっくりとした足取りで、こちらを向いた。  長い前髪に隠されて、顔の上半分はほぼ見えない。  緩く開かれた口からは、垂れたどす黒い舌と、その下……―首に纏わり付いた、胸元に電気コードが見えた。  コードには赤い布が巻いてある。  喉に声が張り付いて出てこない。頭が上手く動作しなかった。  ――こいつだ。歩を殺したのは、この女だ。  その時、手に痛みが走った。背後の笹岡が、俺の手を強く握ったのだ。  痛みのおかげで、ようやく唾を飲み込めた。  近づいてくるから逃げられるように、素早く教室後方の扉へ向かいながら、スマホ越しに西念に伝える。 「……女がいます。首から電気コードを垂らした、女です」  電車内の音が聞こえる。「電車で電話とか、人様に迷惑だろ」と、他人事のように思う。 『女の容姿は?』  上手く思考が回らなくて、一瞬言葉の意味が理解できない。 「それってどういう……?」 『若いか、年取ってるか!』 「たぶん、多少……年取ってます!」  幽霊を『年取ってる』呼ばわりしたらそれこそ殺されそうだ。  西念は溜息を吐き、話し続ける。 『なるほどな。いいかよく訊け。そいつは』  その時、何かが俺の脇で弾けた。  思わず身を(よじ)ると、後ろで何かの割れる音がした。  笹岡が息を飲む気配がする。  すぐさま目を開けると、手の中にあったはずのスマホがない。  辺りを見ると、教室後方扉のガラスが割れている。  スマホが飛んだのだろうか。  笹岡の手を掴んで引くと、すぐさまガラスの割れた戸を開け、教室から出た。  廊下の中央に、画面が割れ、ひしゃげたスマホが落ちている。  拾おうと、手を伸ばした。  と、伸ばした手の先、その視界に、ローファーを履いた足の甲が見えた。  それは、紫に近い色をしていたが、よく見ると違う。  鬱血したような青と赤のまだら模様に、黒の斑点が混じっているのだ。  反対の足の甲も、視界に入ってきた。     左右に揺れながら、一歩また一歩と、こちらへ歩み寄って来る姿に、伸ばす手は止まる。  一歩進むたび、靴底が水と擦れるような「ギュッギュッ」という高い音がした。  顔を上げられない。動けない。  顔を上げれば……の顔面がまともに見えてしまう。  そうしているうちに、奴の脚が目の先のスマホを超え、こちらへ踏み出した。  その時、背後から強い勢いで引っ張られ、俺の身体が後ろにのけ反る。  顔が上がった一瞬、何か見えた気もしたが、すぐさま後ろの笹岡ともつれ合って転ぶ。 「行くぞ!」  笹岡が女がいる方向とは逆を見たまま立ち上がり、俺の手を掴んだ。  さっきまでの怯えた様子はどこへやら。だが、今はそれが心強い。  俺は頷くと、笹岡と一緒に廊下を駆けた。
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