九月二十二日(火)

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 どれくらいの間、走っただろうか。  廊下の角を曲がると、向こうに女がいることが度々あり、俺たちの逃亡はなかなか上手くいかない。  加えて、いくら演劇祭が終わった後の校舎といえど、あまりにも人気がなかった。  教師は終わった後も、少し学校に残っているはず。  それにしては校内が静か過ぎだ。  状況に違和感を抱くも、どうすることもできない。  玄関を目指している最中、北棟一階で後ろを走っていた笹岡が転んだ。  駆け寄って身を起こすのを助けつつ前後を確認すると、幸い、女の姿は見えない。  それをいいことに、歩きながら息を整え、玄関へと向かう。  その間に、後ろの笹岡がポツリポツリと話し出した。 「俺、本気だったんだ。  死んでも後悔なんて無いと思ってたんだ」  俺は笹岡の手を強く握った。  返す言葉はない。 「俺の采配で演劇祭には出られたし、この先脚本家になれるとも限らない。  だったら、ここで死んだ方が人生華だ、と思ってた」  俺は何も言わなかった。  ただ、黙っていた。 「けど、悔しかった」  笹岡を一瞥する。  白目の面積が多めの両の瞳を開き、涙を流していた。 「演劇祭に負けた。  指揮するだけじゃダメなんだ。俺は、やっぱり自分の脚本を、世に残したい」  しゃくりあげながら、笹岡が後方を確認した。釣られて振り返るが、女の影は無い。  奴は、もう一度息を吐き出した。 「俺、生きていたい。まだ死にたくない。あいつには殺されたくない」  俯く笹岡の背中を叩く。  死にたくない動機も、何ともこいつらしい。  俺も、死にたくはなかった。 「お前は、あれは何だと思う?」  俺は、電話を切る直前、西念が何か言いかけていたことを思い出し、笹岡に尋ねた。  少し考える素振りをしたが、笹岡は首を振った。 「いや、わかんない。  わかんないけど、あいつ、何かぶつぶつ言ってなかった?」 「気が付かなった」  正直、俺はそれどころでは無かった。案外冷静な笹岡に感心する。  ようやく玄関に辿りついた俺たちは、下駄箱の間を縫って、昇降口に近寄る。  けれど、この時間開いているはずの昇降口の扉は、押しても引いても開かない。  鍵を捻るも回らない。  笹岡と二人、ロッカーにモップを取りに行って扉を叩くが、それでも開かなかった。  手短にあった窓の鍵を開けようと捻る。それも硬くて開かず、俺達は途方に暮れた。 「どうする?」 「とりあえず、止まったままだと(らち)が明かない。移動しよう」  そう言って、北棟の中へ戻ろうとした時だ。  物音がした。  下駄箱に背を向けていたが、瞬時に振り返る。  下駄箱が並ぶ、その奥の方から、ガタガタという音に重なって、ギュッという音がした。  ――いる。  俺はその様子を確認しながら、笹岡の背を叩き、北棟の奥へと逃げようとした。  しかし、笹岡は動かない。何をまごついているのか、と前を見る。  視線の先には、北棟一階の廊下が見える。  その廊下の奥を、揺らめく影が見えた。  ゆらゆらとこちらへ近づいてくるそれは、今背後にいるはずの女で。混乱した俺は再び後ろを見た。  下駄箱の奥から、紫の足先が顔を出す。  ……そんなの反則だろ。  笹岡の手を掴む。 「中棟に行くぞ」  俺達がいたのは『丑』の形をした校舎の、左下の一階部分だ。  手前の通路……―つまり、『丑』の字の左の縦棒を通れば、中棟や南棟に出ることができる。  南棟の三階か、もしくは『丑』の右の縦棒に辿り着けば、各科の教員室が幾つかある。  今のような手を使われたら終わりだが、とりあえず行ってみるしかない。  幸いなことに、中棟に続く廊下に影は無かった。  俺達はその廊下を進むことにした。  結果から言うと、中棟には入れはしたが、俺達はどこへも行けなかった。  教員室へ続く廊下と階段の手前は何故か防火扉が閉まっており、進むことができなかったのだ。  途中で窓の鍵も可能な限り確認した。   だが、そのどれも開きはしなかった。  仕方なく、南棟へと移動する。  背後からは、姿は見えないが、ギュッという、あの靴音がする。  一定の間隔を保ったままのそれが、酷く気持ち悪い。  廊下の窓から外を確認するが、人影は無い。  相変わらず、この校舎だけ、どこかの山中へ飛ばされてしまったように静かだった。  笹岡と二人、肩で息をしながら、南棟の廊下へと辿り着く。 「……クソッ……」  南棟も、中棟と状況は変わらなかった。  棟の東側へ続く廊下と、上階へ行く階段は防火扉で閉ざされていた。  笹岡が、階段の防火扉を叩く。 「誰か!先生!誰か来て!」  その声は廊下に虚しく反響するばかりだ。  先ほどまで、一定の距離を保っていた靴音が近くなるような気がした。  近くまで来たのであれば、中棟の方に影が見えるはずだ。まだ大丈夫。  そう自分に言い聞かせるが、気持ちは焦る。  ふと、視線を滑らすと、南棟から、更に西に向かう廊下に気づいた。 「……講堂」  南棟の一階は、『丑』の字の左上を西へ進むと、講堂へと直接行けるようになっている。  足音が近づいている今の状況では、そこに逃げ込むほかに、道は無い。 「笹岡、行くぞ」 「え、どこに」 「講堂だ!」  笹岡を先に行かせ、後ろを確認しながら、先へと進む。  廊下の突き当たりを講堂方面へ曲がる時、中棟の方に、チラリと女の影が見えたような気がした。
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