九月二十二日(火)

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 意外なことに、講堂の扉はすんなりと開いた。  円形のロビーに入ると、演劇祭の喧騒が嘘のように、静寂に満ちている。  俺達はすぐさま講堂の扉を閉めると、扉を抑えるものが無いか確認をする。  バリケードにできるようなものは無かった。  ひとまず、掃除用ロッカーからモップを一本持って来て、クランク型の二つの取っ手に、通すように差し込む。  どこまで効果があるのか、そんなものはわからない。  あの化け物に対しては、せめてもの気休めだろう。  講堂の扉を背に座り込み、呼吸を整えた。 「……講堂の扉ってここだけだったか?」  俺の質問に、笹岡は荒く息を吐きながら首を振る。 「まだある。外部用の入り口だ」  俺は今日自分が入った出入り口を思い出す。  そうして、一階部分の扉と、窓の鍵が閉まっているか見て回った。 「お前、あいつから逃げきれたら何する?」  不意に隣で、窓を確認していた笹岡が言った。  その声からは何の感情も感じ取れない。 「……水が飲みたいな」 「いいな。俺は購買のパン食べたい」 「メロンパン一択だな」 「あんなの甘いだけでしょ」  そんな戯言の応酬をしていると、ある感情が沸き上がった。 「……進路届出さなきゃいけない」 「俺も」 「もう出したと思ってた」 「金策がまだだからな」  笹岡の顔を見る。奴は少し得意げに笑っていた。 「……私立か?」 「ああ。しっかり演劇やりたい。後悔はしたくない」  自然と頬が緩んだ。そこで、あることを思い出した。 「あ」 「何だ?まだ食べたいものでもあるのか?」  笹岡は呆れ顔だ。俺は軽く笑って返した。 「焼肉、行かなきゃならないんだ」 「何だそりゃ」  顔を見合わせ、笑い合う。  笑うのなんて久しぶりだ。  と、唐突に息をするのを忘れた。  ――笹岡の肩先にが現れたからだ。 「野々市?」  笹岡は気付かない。  は、視線を笹岡に向けている。  ざんばら髪の隙間から見える、垂れた舌。  鼻の上に、白と黒のコントラストが印象的な目が付いている。  それは充血して、半ば飛び出していた。  狂気を浮かべた双眸は、ただ笹岡を見つめることに執心している。  舌が垂れていて、動かせないはずの口からは、何か呟いている声が聞こえる。  その口が、笹岡の耳に寄せられた。  笹岡の身体が固まる。  目が見開かれて、呼吸が荒くなる。  そいつは、足と同じように醜悪な斑色をした手を、奴の腕に回そうとした。  よく動けたと思う。  俺は女の腕が笹岡に回されるより先に、その腕を取りこちら側へ引いて、身体を抱え込んだ。  すぐに自分の身体を引き起こし、奴の手を引き()りながら移動する。  その過程で、笹岡は力が入らない足を何とか踏ん張りつつ、体勢を立て直そうと中腰になった。  その腰を支えながら、二人で講堂のホールの中へと転がり込む。  講堂はステージに向かって階段状に下っているので、俺達は落ちるように駆けた。  その間にも、靴音と、女の声は背後から続いて来る。  どこに逃げていいのかわからない。  とにかく、ステージを目指すしかなかった。  階段を下りきって、ステージの壇の前に辿り着く。  暗いステージの上に笹岡を上げる。  奴の背中を押し上げた時、俺の視界が大きく回った。  背中に衝撃が走る。  その直後に臀部(でんぶ)(したた)かに打つ感覚があった。  「野々市!」と俺の名前を呼ぶ笹岡の声が、遠い。  目を開けると、ステージの上にいる笹岡と、それに近づくように階段を滑る女の姿が見える。  逃げろ、と叫びたい。  けれど、胸に潰れたような痛みが走り、声が出ない。  俺はどうやら、壁へと叩きつけられたようだった。  笹岡は女そっちのけでステージを降り、こちらに駆け寄ろうとしている。  その脚を女が捕え、笹岡の身体を壇上から引きずり落とす。  心臓の音が煩くて、なのに身体は動かなかった。  胸が痛い。声が出ない。  どうにかしなきゃ、と腕に力を込め、立ち上がろうとした時だった。  ホールの扉が勢いよく開いた。  その音で、聴覚が戻ったことを理解した。
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