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「裕太!」
奴が、俺の名前を呼んだのを初めて聞いた。
いつもはやる気の無さそうな、世の中の全てが退屈だとでもいうような声が、切羽詰まっている感じがした。
それが妙に面白くて、そんな暇は無いのに、自然と笑みがこぼれた。
「遅いっすよ」
女は西念の存在を気にすることなく、笹岡の首をキリキリと締め上げている。
それなのに、西念は西念で、笹岡では無く、俺のもとに駆け寄ってきた。
何冊か本を抱えていて、何やら金属製のバケツを片手に提げている。
何やってんだ、と思いつつ、急いで身を起こす。
女の脇をすり抜けた西念を見て、考えを改めた。
西念は呪いを受けていない。
女の姿が見えないのだ。
「これ貸せ」
西念は俺のリュックを取り上げた。
「……なにやってんすか」
痛む胸を押さえながら話す。
「お前、あれ持ってるだろ。亜矢子の脚本」
「……持ってますけど……。
笹岡が……首絞められているんです。早く助けないと」
「だから。今から博打を打つんだよ」
状況が理解できないままでいると、西念は俺のリュックの口を開け、さかさまにして中身をぶちまけた。
ここ数日持ち歩いていた、学校の脚本コピーと、亜矢子の脚本が、俺の私物と一緒に散らばる。
西念はポケットからライターを取り出す。
いつも、奴が煙草の火をつけるのに使うものだ。
そして、自身の手に持っていた冊子、鞄に入っていた脚本をまとめて金属バケツに打ち込むと、ライターを擦った。
「……頼む。終わってくれ」
西念は祈るようにそう呟くと、バケツの中身に火を点ける。
冊子と脚本はどちらも藁半紙に印刷されていた。
綴さんから貰った脚本の原本も水分が飛んだ古い紙だ。
それらはとても良く燃えた。
笹岡の首を絞めていた女の手が止まり、顔がゆっくりこちらに向いた。
その目は驚きと、ーー怒りに満ちているように見えた。笹岡の首から手を離し、上体をゆっくりと引き上げる。
女は一歩また一歩と、こちらに近づいてきた。
緩く開いていた口は大きく開かれ、目は落ちんばかりだった。憎しみを湛えた目が、ただ俺を捕えている。
不意にその足元から炎が立った。
炎は女の身体をジリジリと焼き、それに従って、女の身体は徐々に崩れていった。
灰のようになった足を、胴体を、地面に擦り付けながら、女はなお、こちらに近づいて来る。
相変わらず、舌が垂れてるはずのその口から、あいつの声が漏れ聞こえる。
女の声は、微かに聴こえる程度だったはずなのに、何故かその段になって、ある言葉が、はっきりと頭に響いた。
『何で……―あの子だけ』
その声は、恐ろしく、そして悲しく俺の耳へ届いた。
首だけになった女は、西念の足元まで這い寄って来て、しかし燃え尽きた。
見ると、燃やした脚本の燃えかすが、バケツの中で煙を上げて燻っている。
白く細く上がる白煙を見ながら、「終わったのだろうか」と俺は、壁へ背を付けた。
と、我に返った。
倒れる笹岡の姿を、視界に捉えたからだ。
慌てて駆け寄る。
「笹岡!」
呼びかけたが、彼は動かない。胸が梳くような思いがした。
西念が駆け寄って来て、笹岡の口に手をかざす。
すると、緊張した奴の表情が、わずかに緩んだ。
「気を失っているだけだ」
ホッと、胸をなでおろすと、西念が笹岡を担ぎ起こす。
それを手伝おうとした時、俄かに外が騒がしくなった。
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