九月二十二日(火)

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「裕太!」  奴が、俺の名前を呼んだのを初めて聞いた。  いつもはやる気の無さそうな、世の中の全てが退屈だとでもいうような声が、切羽詰まっている感じがした。  それが妙に面白くて、そんな暇は無いのに、自然と笑みがこぼれた。 「遅いっすよ」  女は西念の存在を気にすることなく、笹岡の首をキリキリと締め上げている。  それなのに、西念は西念で、笹岡では無く、俺のもとに駆け寄ってきた。  何冊か本を抱えていて、何やら金属製のバケツを片手に提げている。  何やってんだ、と思いつつ、急いで身を起こす。  女の脇をすり抜けた西念を見て、考えを改めた。  西念は呪いを受けていない。  女の姿が見えないのだ。 「これ貸せ」  西念は俺のリュックを取り上げた。 「……なにやってんすか」  痛む胸を押さえながら話す。 「お前、あれ持ってるだろ。亜矢子の脚本」 「……持ってますけど……。  笹岡が……首絞められているんです。早く助けないと」 「だから。今から博打(ばくち)を打つんだよ」  状況が理解できないままでいると、西念は俺のリュックの口を開け、さかさまにして中身をぶちまけた。  ここ数日持ち歩いていた、学校の脚本コピーと、亜矢子の脚本が、俺の私物と一緒に散らばる。  西念はポケットからライターを取り出す。  いつも、奴が煙草の火をつけるのに使うものだ。  そして、自身の手に持っていた冊子、鞄に入っていた脚本をまとめて金属バケツに打ち込むと、ライターを()った。 「……頼む。終わってくれ」  西念は祈るようにそう呟くと、バケツの中身に火を点ける。  冊子と脚本はどちらも藁半紙に印刷されていた。  綴さんから貰った脚本の原本も水分が飛んだ古い紙だ。  それらはとても良く燃えた。  笹岡の首を絞めていた女の手が止まり、顔がゆっくりこちらに向いた。  その目は驚きと、ーー怒りに満ちているように見えた。笹岡の首から手を離し、上体をゆっくりと引き上げる。  女は一歩また一歩と、こちらに近づいてきた。  緩く開いていた口は大きく開かれ、目は落ちんばかりだった。憎しみを湛えた目が、ただ俺を捕えている。  不意にその足元から炎が立った。  炎は女の身体をジリジリと焼き、それに従って、女の身体は徐々に崩れていった。  灰のようになった足を、胴体を、地面に(こす)り付けながら、女はなお、こちらに近づいて来る。  相変わらず、舌が垂れてるはずのその口から、あいつの声が漏れ聞こえる。  女の声は、微かに聴こえる程度だったはずなのに、何故かその段になって、ある言葉が、はっきりと頭に響いた。 『何で……―あの子だけ』  その声は、恐ろしく、そして悲しく俺の耳へ届いた。  首だけになった女は、西念の足元まで這い寄って来て、しかし燃え尽きた。  見ると、燃やした脚本の燃えかすが、バケツの中で煙を上げて(くすぶ)っている。  白く細く上がる白煙を見ながら、「終わったのだろうか」と俺は、壁へ背を付けた。  と、我に返った。  倒れる笹岡の姿を、視界に捉えたからだ。  慌てて駆け寄る。 「笹岡!」  呼びかけたが、彼は動かない。胸が()くような思いがした。  西念が駆け寄って来て、笹岡の口に手をかざす。  すると、緊張した奴の表情が、わずかに緩んだ。 「気を失っているだけだ」  ホッと、胸をなでおろすと、西念が笹岡を担ぎ起こす。  それを手伝おうとした時、(にわ)かに外が騒がしくなった。
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