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七尾さんが、警備員と皆川に状況を説明しているのが聞こえてくる。
気絶した笹岡と、西念と共に、講堂の裏口階段に掛けて、それを眺めた。
俺たちが笹岡を助け起こした直後に、警備員と、西念が呼びつけたという七尾さん、そして皆川が講堂に入ってきた。
西念は事前に七尾さんにこちらの置かれた状況を説明しておいたらしい。
俺達が一旦軽く状況を説明すると、その後は七尾さんが何やら警備員と皆川に話をし始めた。
こんなことにまで出張らなければいけないほど、七尾さんは西念に借りがあるのだろうか。
「入れなかった?」
西念が買ってきてくれた缶コーヒーを、手の内を温めるように転がした。
頷いた彼は、プルタブをカリカリとひっかいている。
「なんだか知らないが、一階の西側の出入り口は全部封鎖されてたし、開かなかった。
俺が気付いて皆川先生に伝えた。皆川先生が『念のため』と言って警察に連絡している間に、一階の防火扉を開けた。
そこまでは良かったんだが、問題は講堂だ。
どこも開かないもんだから、手近の教室からパイプ椅子を持ち出して窓を割った。さて、いくらの弁償になるんだか……」
西念は恨みがましそうな目で俺を見る。
俺は苦笑いすると「ありがとうございます」と言って頬を掻いた。
彼は溜息をつくと、「俺も苦学生なんだがなあ」と言ってプルタブを勢いよく引いた。
「結局、あれは誰だったんですか?」
缶コーヒーを開けながら尋ねる。
一足早くコーヒーを煽った西念が話し始めた。
「泉咲子だ。演劇部顧問の」
「え」
絶句した。
しばらく考え込んだが、疲れた頭では大したことが浮かばず、素直に尋ねる。
「どうして彼女だってわかったんですか?」
「沼田老人に会った後、どうにも気にかかることがあってな」
「なんですか?」
「亜矢子と清恵の自殺だ。彼女たちの自殺は状況的にそう判断せざるを得ないものだった。
誰も断定はできてない。
お前が清恵が亜矢子を殺した、と判断しても矛盾は無いくらいにーー証拠不十分な状態だった」
西念は煙草を口に咥え、火を付けようとして、脇で話し込む人々の方を振り返った。
直後、悔しそうにもう一度それを仕舞いこむ。
「そうすると違和感があった。
沼田老人の説明だと、亜矢子と清恵には傍から見て確執は無かった。
そのイメージと、清恵が亜矢子を殺す、という関係性はかけ離れてるように思えた。
勿論、本人たちにしかわからない確執、という場合もあり得る。
けれどひとまず、その違和感を可能な限り調べてみようと考えた」
西念のいう『違和感』に、ある言葉が浮かんだ。
――俺は、書いた人間の実体験じゃないかと思ったんだ。
笹岡に、『青の季節』についての所感を訪ねた時、奴はそう言った。
笹岡の直感では『青の季節』の脚本は、筆者――つまり、沼田亜矢子の実体験を下敷きに書かれていることになるのだ。
確かに、あの脚本の主人公である二人の少女は、競いこそすれ、恨み合ってはいなかった。
そう考えると、やはり二人の自殺には何か矛盾が生じる。
その矛盾を、西念は無視しなかったのだろう。
西念は缶コーヒーを口にした。
「まず、泉咲子の家に少しでも手掛かりが残っていないか、旦那さんに再度電話した」
「可能性的にはそこが一番硬いですよね」
西念は頷く。
「それと、あることを確かめるためにも、泉家には行ってみたかった」
俺は首を傾げる。
そんな変なところが泉にはあっただろうか。
「泉咲子は高校教師だった。
しかも、大学まで卒業したという秀才だ」
「そうですね」
「これは当時、珍しいことなんだ」
確か西念は、綴さんの家でもそんなことを口走っていた。
その珍しさというのは俺にはわからなかったけど。
「そもそも、戦後当時は女性の高等教育が正式に解放されたばかりだ。
咲子が大学に入学したころ、つまり大戦終結直後の日本では、女性の大学進学率は地を這う勢いだった」
「そしたら、泉咲子は相当なバリキャリじゃないですか」
西念を見上げると、
「そうだ。泉咲子はあの時代に大学に進学し、英文学と演劇を学んだ才女だった。
しかも、戦後のあの時期であれば、強い後ろ盾があったはずだ。
だからこそ、彼女がそこまでして『高校教諭』というポジションに収まった理由がわからなかった。
当時は女子教育の発展期だし、そのためかとも思ったが、英文学と演劇を学んだ先がその進路というのも、納得できなかった」
なるほど。
何故演劇を本気で勉強してまで教師になったのか、ということか。
「……泉咲子は、脚本家を目指していたそうだ」
「え」
「家は資産家。
両親の反対を押し切って大学に通った。
そこで英文学と演劇を勉強し、都内の劇団に、脚本家として売り込みなどしていたらしい。在学中に何とか活躍の場所を作ろうとしたんだろうな。
だがそれも上手くいかず、大学卒業と同時に両親は支援を打ち切った。咲子に家庭に入れ、と言ったんだ」
「そんな……大学まで行ったのに」
「女性は家に。……戦争が終わっても、染み着いたステレオタイプは消えない」
西念は溜息をついた。
「その後、ただ家庭に収まることに反発した咲子は、方針転換して高校教師になった。そして、演劇部の顧問になり、指導員を勤めるようになる。
――彼女なりに、そこにやりがいを見つけようとしたんだろうな。
そこに入学して来たのが、亜矢子と清恵だった」
俺はあれの姿を思い起こした。女は何かに対する嫉妬に塗れていた。
「……咲子は、亜矢子と清恵が羨ましかったんですか?」
「正確には、亜矢子だろうな。
彼女は旦那さんによく、亜矢子が凄い、という話をしていたらしい。
亜矢子は、彼女が演劇部を切り盛りするようになってから一番の逸材だった。咲子の自慢だったんだろう。
だが同時に、旦那さんへ『私も環境さえよければ』と愚痴を言っていたそうだ」
他人の家庭環境を羨む気持ちは、痛いほどわかる。
親から言われて仕方なく捨てた夢を、目の前の少女が拾うのは辛いだろう。
「咲子は、自身が亡くなった年の夏、酷く機嫌が悪いことが多かったらしい。
飲み慣れない酒を飲んで、その度に『あの子には勝てない』と言って癇癪を起すので、旦那さんは『ああ、亜矢子さんが傑作を書いたのかな』と思ったそうだ。
けれど、それは九月に入って一旦良くなった」
『九月』という言葉が、酷く嫌な響きを持っていた。
「旦那さんは今でも覚えているそうだ。咲子から亜矢子が亡くなった、と伝えられた時のことを。
表情は見なかったそうだが、声は弾むような響きだったらしい」
ああ、と思った。
これは、俺と西念の憶測でしかない。そのはずなのに、強い寒気が背筋を這う。
「経緯はわからないが、清恵は亜矢子の脚本を使って、演劇祭に出ることを選んだ。
まあ、二人の仲が良かったことを思うと、恐らく亜矢子への手向けだろう」
西念は手元の缶コーヒーを一口飲んだ。
「咲子の不調は、その直後もう一度悪化した。
咲子は自分が学生時代に書いた脚本を全て焼いて、それだけでなく、演劇の本も全て捨てた。
後日、旦那さんは彼女から清恵が死んだことを訊いたそうだ。直後、咲子はまた普段通りの調子に戻った。
彼は単純に安心したそうだ」
固唾を飲んで聞き入る俺をよそに、西念は一呼吸置いた。
「――一週間後、咲子は死んだ。
しまってあった、こたつのコードを使って、自室で首を吊って」
自分の身体が、ぶるりと震えた。
亜矢子と清恵が死んだ後、必ず止む咲子の癇癪。
それが何を指し示しているのか。嫌な可能性ばかりが頭を過った。
そして何より、あれの首にさがっていた紐。
記憶が正しければ、赤いような、そんな色の布が巻かれていた筈だ。
「亜矢子と清恵の死は、学校関係者であれば達成できる可能性が高かった。
清恵でも可能だが、咲子の方が学校中に顔が効く。
講堂に入っていたとしても、何て言ったって演劇部顧問だ。誰も違和感なんざ抱かない。
そして、お前らが見たっていう女の姿。俺は見えないから断定はできないが、容姿を訊いた限りでは、咲子のように感じた」
その時、西念が燃やした本の山を思い出した。
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