九月三十日(水)

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九月三十日(水)

 事件から一週間が経った。  演劇祭が終わってからしばらくは、「笹岡や自分、澤田先生に何かあるんじゃないか」と常にヒヤヒヤしていたが、特に何事も無く、俺も笹岡も、元気になった澤田先生も、死のリミットを超えた。  また、クラスの後ろの窓と講堂の窓が一枚ずつ割れたこと、講堂に逃げ込んだことや、防火扉が閉じたことについては、皆川は俺達に反省文を書かせた。  けれど、それ以外具体的に何をしでかしたわけではなかったので、それ以上のお(とが)めは特になしだった。  そして、俺は再び父と喧嘩をした。  進路希望届の『文系』の欄に丸を付け、社会学部の志望を書いて、父親にサインを求めると、彼は無言で俺に突き返した。  だが、そのまま引き下がらない俺に対して、遂に無言になり、サインはせずに話し合いは打ち止めになった。  まあ、こんなもんだろう。  とりあえず、サインは母さんに頼んで進路志望届の記入は終わった。 「で、どうしたんだよ?」  笹岡が風に髪を煽られながら、俺に尋ねる。 「今日出した」 「馬鹿、違うよ。父親はどうしたって訊いてるんだよ」  答えようと、頬張っていた焼きそばパンを飲み込んだ。 「あれから話してない。けど、俺は引く気が無いから、関係ない」 「学資は?」 「大学の開設した無利子の奨学金狙う。あと、バイトもする。万が一、『金は出さねえ』って言われてもいいように」 「……図太くなったなあ……」  笹岡はニヤリ、と笑った。「そういうお前も」と俺は言う。  俺を揶揄(からか)う笹岡も、当初より支給額の多い奨学金を取って、本当に志望していた私立大への進学を目指すことに決めた。  決めた時は「大学生で借金生活なんて嫌だなぁ」と溜息を吐いていたが。  最近の日課は、笹岡と屋上で昼飯を食べることだった。  相変わらず口喧嘩は絶えないが、別にムカつくとかいう感情も無い。  ……たまにムカつくけど。 「西念先生には連絡できたのか?」  少し困ったような顔をする笹岡の質問に、俺は首を振った。  あれから、西念とは連絡が取れなかった。  LINEで連絡を入れても未読無視をされる。  そもそも、今までの連絡も事務連絡だったので、私用で西念と連絡を取る、というのが想像できなかった。  西念の中では、俺の存在はその程度だったのかもしれない。  ただの依頼人と雇用者。それだけ。  ……一週間前に約束を取り付けてしまったら良かったのだ。 「焼肉……約束したのになあ……」  呟いた言葉は、風の音に掻き消された。  俺と笹岡は階段を下り、教室に戻るために、中棟へ向かう。その途中、ふと講堂を見た。  あの事件から、講堂を眺めるのが癖になっていた。  何となく、あの女がいるのではないかと、今も注意を向けてしまう。  演劇祭の終わった校内はすっかりいつもの、自称進学校といった風体に戻っていて、生徒も講堂の近くには寄らなくなっていた。  その、いつもは誰もいない講堂の入り口に、今日は人影があった。  一瞬、用務員さんかと思う。  通り過ぎようとして、再び立ち止まる。  後姿のその人の、後ろ髪が一つに結ばれているのを見て、弾かれるように駆けだした。  俺を呼ぶ笹岡の声が遠くなっていく。  予鈴が鳴るのも気にしない。  中棟を通り、北棟の階段を下って、玄関に出る。そこから学校の裏手に回り、講堂の入り口に辿り着いた。  息は切れていたが、大声で声をかける。 「何で!」  その人は、ゆっくりとこちらを振り返った。  相変わらずの眠そうな目。  世の中の全てがつまらない、というような表情をしている。 「……お前か」 「何で!いるんですか!」  本当はそんなこと訊きたいんじゃない。他に訊きたいことは沢山あるのに。  けれど、口から出てしまったものは仕方ない。 「ちょっと忘れ物してな。皆川先生に連絡して入れて貰った」  息を切らして西念に近づく。 「何で!連絡くれなかったんですか!」  詰め寄って行って、何かこれだと振られた彼女みたいだな、なんて思う。  思ってから少し恥ずかしくなった。 「連絡?」  西念は怪訝そうな顔をする。  俺が「スマホ!」と言うと、彼は薄っぺらいそれを取り出し、電源を付けた。 「……LINEか」 「は?」 「悪い。調査の時以外、LINE見る癖が無いんだ」  俺は肩を落とした。  やっぱり、西念にとっては俺の存在はただの「依頼主」だったのだ。  「ちょっと年上の友だちができた」と内心浮かれていたのは俺だけか。  実感すると、なんだか心にキて辛い。  ……本当に面倒臭い彼女みたいだな。  すると、顔を下げる俺の前に、薄っぺらい機械が差し出された。 「……何ですか?」 「LINEだけじゃ不便だから、お前の携帯に、俺の連絡先入れればいいと思って」  俺の腸はグラグラと煮え返った。  そんな駄々っ子のような気持ちを口に出すわけにもいかず、とりあえず西念のスマホをひったくる。  俺が一心不乱に入力していると、西念が話しかけてきた。 「進路希望届、ちゃんと出したか?」  一瞬、手が止まる。  そういえば、あれが配られたのは、この人の実習が始まってからだったか。  何となく、西念の顔を見るのが気恥ずかしくて、視線をスマホの画面に据えたまま答えた。 「西念先生のお陰で、無事出せました。ありがとうございます」  ちょっとぶっきらぼうに言い過ぎたか、と心配になる。  少し間があって、西念から答えがあった。 「……その先生っていうの止めろ。俺はもうお前の先生じゃない」  顔を上げる。西念は苦虫でも噛み潰したような表情をしていた。 「じゃあ、西念?」  言った瞬間、冷えた睨みが飛んでくる。美人の睨みは怖い。 「じゃあ、西念さん」  西念は無表情に戻り、そっぽを向いた。 「まあ、無事に進学できそうで何よりだ。……後悔しない道を選べ」  西念の言い方も、俺に負けず劣らずぶっきらぼうだった。自然と、頬が緩むのがわかる。  連絡先の続きを入力していると、西念がもう一つ何か差し出してきた。  『有松陸朗』と書かれたそれには、聖叡(せいえい)大学という大学名と、肩書らしきもの、なんだか色々と記入があった。どうやら大学教授の名刺らしい。  ひと際目を引いたのは、所属する研究室だった。『社会学研究室』という記載がある。 「これって」 「俺の世話になっている教授の名刺だ。進路相談に何か力を貸してくれるかもしれない」  俺はそれを見つめる。  四角く、小さいだけのその紙に、心が逸る。 「ありがとうございます」  それを、スマホカバーの内ポケットに仕舞う。  連絡先を打ち終わり、スマホを西念に返す。 「そういえば、お前忘れてないだろうな」  西念がイライラした口調で言った。 「何をですか?」 「報酬のことだよ。約束したろう」 「えー覚えてないなあー」  しらばくれると、西念は今まで見たことの無い恐ろしい顔をした。  これは揶揄(からか)いすぎると面倒なことになりそうだ。相変わらずのブラック上司っぷり。  けど、俺の話したかった本題そのものだから、こればかりは仕方ない。 「わかりましたよ。焼肉、いつにします?」
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