九月七日(月)

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「気まずい思いさせて、ごめんな」  そう言って歩は苦笑いを浮かべた。  正門から出て、学校前の細い通りを行き、垂直に交わった大通りを目指す。 「いや、俺は別に……」  突き当たった大通りで信号待ちに突っかかる。  車通りも多く、声はあっという間に掻き消された。  残暑の生温い空気が、車に煽られて周りにまとわりつく。湿気を含んだそれが、酷く不愉快だった。  辺りは俺たちと、近くの大学から自転車で駅へ向かう大学生ばかりだ。 「正直、笹岡があそこまで演劇祭に思い入れがあるとは思わなかった」  歩はそう言うが、それについては特段不思議では無かった。  演劇祭は、俺にとってはたったそれだけの行事だが、特別に思う生徒も多い。  そういった生徒たちは、皆で優勝しよう、行事自体を成功させようという熱意を持っていた。  笹岡にはそれに加え、意地のようなものが感じられた。『どうしても脚本で一番になりたい』というような、そういう類のものだ。  だからだろうか。俺は正論を言ったはずなのに、何とも言えない罪悪感が自分の中に沈んでいた。俺が(なじ)った時の笹岡の表情が、頭をちらつく。  俺は歩を見た。  いつも穏やかな顔からは想像がしがたいが、こいつも負けず嫌いなのは知っている。  演劇の脚本を書くのは初めてだという歩にくっ付いて、映画や舞台の鑑賞に付き合ったし、本屋で歩が沢山の本を買い込むのも見た。宿題をするため歩の家を訪ねた時、机の上には添削した原稿用紙が並んでいた。  既存の物語をもとにオマージュを書くクラスが多い中、歩や笹岡のように新規の脚本を書き下ろすのは、相当の気力と精力、書きたい気持ちがないと無理だ。 けれど。    どうしても、歩の脚本を読んだ時の違和感が気になった。 「歩も、優勝したいと思ってあの脚本書いたのか?」  隣の高身長は、驚いたように俺を見下ろした。 「そう……思わなかった?」  その言葉に、瞬時にミスった、と思った。歩の顔色は曇っている。 「あの脚本じゃ、ダメ?」 「いや、そういうことじゃなくて」 「じゃあ、どういうこと?オリジナリティが無い?どこがいけない?」  そう矢継ぎ早に言う歩の姿に、溜息をつきそうになる。  演劇祭では、素晴らしければ過去の演劇祭の脚本を引っ張ってくることもあると、歩は言っていた。  だが、敢えて自分の力で挑戦したいと、自作にこだわっていたのだ。  そのこだわりのせいか、少しでも、作品に関する疑問を呈すると、歩はすぐにこうなる。  オリジナリティとか、そういうことは俺にはわからないし、言える立場ではないのに。  だから、不用意に「何か変」とは、尚更言えなかった。解決法の無いアドバイスほど無責任なものは無いし、歩のプライドをいたずらに傷つけるのは目に見えた。 「いや、なんでもない。気にしないで」  そう言う俺に、歩はまだ何か訊きたかったのだろうが、口を閉じる。  納得いかない、というような顔を、前方へ向けている。  信号が青に変わった。 「……僕ちょっと残っていくから」  気まずい沈黙が流れる中、横断歩道を渡り切ると、歩は言った。  残っていく、というのは近くのカフェのことだろう。  この道を、最寄りの国分寺駅とは反対の小平方向へ進むと、そう遠くない距離にカフェがある。  割と新しい造作で、同級生の間でも人気のスポットだった。  歩は、そこで何か考え事や作業をするのが好きだ。 「……ほどほどにな」  静かに声をかけると、歩は頷いて踵を返した。  通りを抜ける風が、彼の柔らかそうな髪を掻き回している。同じ風が、俺の前髪も撫ぜた。  最近の、歩の様子はおかしい。  確かに笹岡の態度はこのところ嫌味だった。けれど考えてみれば、歩も同じく笹岡の愚痴を平然と言うようになっていた。穏やかで、あまりそういうことを言わない奴だったのに。  今日の笹岡に対する、あの処置もちょっと行き過ぎていた印象がある。  去っていく後ろ姿に、強く尋ねることのできない俺は、駅へと足を向けた。  こうしたすれ違いは、よくあった。  その度に気持ちを隠してしまう歩に、俺は疑問を投げかける勇気が出ないのだ。  ――牛尾くん、結構プライド高いから。  佐伯の言った、あの言葉が蘇る。その通り、彼のプライドは酷く高い。  だからこそ、俺はそのプライドを折りたくなくて――いや違う。  歩に嫌われることがいやで、そうできずにいるのだ。  深く溜息を吐いた時だった。  背後から荒い息遣いと、誰かが走りくる音がした。ジョギングでもしているのだろう。  歩道が狭いので、俺は背後の人に道を譲るように右に寄った。  その人はバタバタと、俺を追い抜いた。  歩だった。    用事を思い出して、帰ることにしたのだろうか。しかし、それにしては様子が変だ。  後ろを気にしながら、全速力で駆けて行く。あっという間に距離が離れる。口の形から、時折何かを口走っているようだ。  不思議に思い、追いかけるが、彼は俺に気付いていない。  いつもの穏やかな様子からは想像できないほど、取り乱しているようだった。 「来るな!」  駅へ向かう交差点が近付いて、歩は走るのを止め、後退りしながら大きく叫び始めた。  最初は俺に言っているのか、と思った。だが視線はこちらを向いていない。  辺りを見回すが、誰もいない。車が通り過ぎるばかりだ。  ひとまず歩を落ちつけようと、走る。距離は五十メートルほどだろうか。 「誰だよあんた!何であんたなんだ!」  交差点近くで、歩が鞄を振り回し始めた。歩道を通り過ぎる大学生たちは、汚物でも見るかのように、歩を避ける。  周囲の様子も気にせず、まるで自分の周りに何かがいるかのように、歩は攻撃を続ける。 「来るなよ!やめろ…っ」  不意に、叫び続けていた声が止んだ。  そして歩は膝から崩れ落ちた。  気分でも悪いのか、と思った次の瞬間、彼の背が大きく反る。  地面に背を預け、のたうち回った。その動きは殺虫剤をかけた虫を思い起こさせて、背筋に悪寒が走った。 「歩!」  叫ぶ。あと十メートルほどで手が届く。その距離に歩はいた。  束の間、歩は力が抜けたかのように、だらんと四肢を放り出した。  けれど、その次の瞬間には、その背が反った状態から、いきなり伸びあがり、起立の姿勢になった。  背が戻る時に、バキバキと軽く骨の音がした。  それが、操り人形のように人為的な動きに見えて、俺の身体が固まる。彼の様子がどうしても異様に思えたからだ。  彼は再び歩き始める。  しかし、その歩みは上から釣られたかのようにぎこちなく、手はだらんと垂れている。その間、終始無言だ。  そうして、彼は車道が青信号の交差点へと足を進めた。 「歩!」  まずいと気付いて走り寄る。  だが俺が駆け寄るよりも早く、車のブレーキ音と共に、衝撃音、そして何かが潰れる音が辺りに響いていた。  こういう時、景色がスローモーションに見えるというのは本当なのだな、と実感する。  塊が飛んで、交差点に投げ出された。  叩きつけられる音は水音に似ていて、『人間の中身はほとんど水なのだ』という事実を、嫌でも思い起こさせる。  手足はちぐはぐな方向に投げ出された。普通の人間ならあんな体勢は取れないだろう。  ――どうしてこうなってしまったんだろう。  考えたところで、もう遅かった。  空中で踊っていた手足が地面に落ち着き、最後に首が跳ねてこちらを向いた。半分潰れた顔の、潰れずに残った部分は、思ったよりも綺麗だ。  残った片目の瞳孔は開き切って、既に俺のことを映してはいない。  もう、誰のことも、何物も、映すことは無いのだろう。
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