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九月九日(水)
事情聴取が終わり、一日学校を欠席した。
充分休んだはずだ。
それなのに、身体は気怠く、セレモニーホールのある鶴見までは一段と遠く感じた。
電車を乗り換え、小さな駅で下車して、歩いて十分ほど。
建物の入り口に、『牛尾家』と書かれた看板がポツリと光っているのを見て、中に入る。
辿り着いたホールは綺麗だった。清潔感もあり、白の明るさで溢れている。死人を送る儀式をする場所には、とても思えなかった。
係の人に案内されながら階段を上る。
同じく、何人か連れだって階段を上がる同年代を見かける。
ぼうっとそれを見ながら、脳が浮いているような感覚に、足元がおぼつかない。
ここに来るのに、誰かを誘う気にはなれなかった。
そして、俺を誘う誰かもまた、いなかった。
三階まで上がると同級生を見かけたが、皆俺を盗み見るだけで、話しかけてはこない。
そのことが、誘われなかった理由をーー気を遣われているのだということを、暗に示していた。
通夜の会場に歩みを進めると、既に読経と焼香が始まっていた。列の一番後ろに並び、辺りを見回してみる。参列者は一様に沈痛な面持ちをしていた。
まるで、映画のようだ。
その中でも特に現実離れして見えたのは、会場奥の中央に鎮座する歩の顔写真だ。
炎と煙のたなびく向こう、白百合の群れの中で、彼が少しよそ行きの、満面の笑みを浮かべているのが悪夢のようだった。
何となし、脇に目を向けると、茫然とした様子の男女が椅子に座り込んでいる。男性が女性の肩を支えてはいるが、二人とも髪は乱れ、目は虚ろだ。
女性は、歩の母親だった。それならば、寄り添っているのは彼の父親だろうか。
夏休みに訪問した時には笑顔で迎えてくれた彼の母親は、自失した様子で祭壇を見ている。
その横顔は、夏に見た溌剌とした気色を失って、老いの色を強く漂わせる。
化粧をしたのか、していないのかわからない肌には、涙の跡がこびりついていた。
前に立っていた人たちが、両親に一礼して退いた。
慌てて一歩、二歩と前に進む。
焼香台の前には、大きな棺桶があった。歩の身長に合わせられた棺の蓋は、硬く閉じられている。
この中に歩が入っているという実感が沸かない。
その蓋の先にあるものを想像してしまう自分を、思わず嫌悪した。
焼香の手順を頭で思い起こしながら、香を炭の上に落とし、手を合わせた。
ポーズを取ってはいるが、何を想うべきなのか、祈るべきなのか全く分からず、とりあえず顔を上げる。
両親に挨拶をする。
父親は俺に気付き、視線を交わせ会釈をした。一方、母親は微かに身じろいだだけだった。
こんなんで、終わってしまうものなのか。
涙も出なかった。
なんの感慨も沸かなかった。
そのことに対する虚しさを抱え、俺はホールを出た。
下の階へと降りると、ロビーに見知った顔を何人か見つけた。歩の所属していた、文芸部のメンバーだ。
向こうも気まずかろう、と思い通り過ぎようとすると、その中の一人が話し掛けてくる。
「野々市」
よく、教室に歩を訪ねて来た一人だ。以前話したことがある。
「お前、大丈夫か」
今、俺がどんな顔色をしているかはわからなかったが、頷いておくことにした。
そいつは何か躊躇う様子を見せつつ、神妙な様子で続けた。
「……あいつ、自分で車に飛び込んだって本当か?」
何と答えていいかわからず、けれどむやみに話を広める奴らでも無かったので、俺は頷く。
歩が車に飛び込んだことは、未だに信じられない。これからも信じることはできないだろう。
けれど、その事実は俺だけでなく、あの交差点に居合わせた人間、全員が証明している。それもまた、悔しかった。
そいつは続けた。
「何か理由に、心当たりあるか」
これには首を振った。
笹岡との関係性を除けば、あの事件前後の歩の周りに、『自殺』の原因になりそうなことは存在しなかった。
文字通り、操られたかのように死んだ。
歩の死は、そうとしか表現できないものだった。
俺の答えに文芸部の面々は少し困惑したような表情で、互いに顔を見合わせた。
「どうか、したのか?」
「あ、いや……」
彼らは迷っていたが、中の一人が口を開いた。
「あいつ、夏休み明けから様子がおかしかったんだよ」
「……そうだったか?」
相手は頷く。
「ああ。何かぼさっとしてるっていうか。かと思えば、周囲をしきりに気にして」
そういえば、確かにここのところの歩は落ち着きが無かったような気がする。笹岡との対立ばかりに気を取られていた。
「部で怪談話になった時、あいつがやたらビクビクしてるから、俺達が『女の子でも見えるのか?』って揶揄ったら、凄い勢いでまくし立てたり……」
「女の子?」
別の一人が、俺の問いかけに答える。
「制服の女の子の霊が見えると死ぬって噂、あるだろ?
あれの話になって、そう揶揄った時さ。あいつ、凄い怒り始めて」
「あの時の様子が尋常じゃなかったから、あいつ、何か困ってたんじゃないかと思ってさ。そしたら、こんなことになって……」
口々にそう言うと、彼らは黙り込んだ。
一方、俺は彼らの話を訊いて違和感を抱いた。
彼の様子は尋常じゃなかったのは、俺と少女の霊について話した時もそうだった。
歩が不快感を示したのは、『制服の少女の噂が嫌いだったから』、それだけなのだろうか?
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