九月二十日(日)

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九月二十日(日)

 翌々日の日曜、乗っていた電車に西念もいることが判明し、俺達は中央線の車内で合流した(正確には、俺が車両を移動した)。  車両中ほどの入り口近くに、西念は立っていた。  何か文庫本を手にしている。  俺は無言でその前に移動する。  気配から、西念が顔を上げたのが判ったが、俺は窓の外に視線を向けたままだった。  そんな俺の様子に、西念は溜息をついた。  そして、「不機嫌を俺にぶつけるな」と一言。そのまま視線を文庫へ戻した。  ぶつけていたつもりは無かったが、何となく申し訳ない気持ちになり、顔を下げる。  目の前のことに集中しなければならないのに、一昨日夜の出来事が、どうしても頭を離れなかった。  金曜の夜、遅く帰った俺が、バレないように部屋に向かおうとすると、父親に呼び止められた。  俺がダイニングチェアに腰掛けるなり、父親は言った。 「最近、帰りが遅いそうだな」  父親から目を逸らす。  確かに、ここのところ調査にかかりきりで、帰宅時間は夜十時を回ることが多かった。  けれど、俺は大人ではないが、もう子どもでもない。  そもそも、危ない場所に出入りしているわけじゃないし、都心ほど治安も悪くない。 「今更でしょ。演劇祭前だし仕方ない」  そう言って席を立とうとすると、父親が身を乗り出し俺の腕を掴んだ。  その様子にいささか辟易していると、相手は口を開く。 「……母さんが、心配するだろ……!」  押し殺された怒りを感じたが、対して俺の気持ちは冷えていった。 「じゃあ、母さんが言えばいいじゃないか」  手を振り払う。 「そういう問題じゃない!」  父親は叫ぶ。  では、どういう問題なんだろう。  この人は、自分の怒りをすぐに人のせいにする。  議論の無駄だと感じた俺は、父親の話を無視し、部屋に戻った。  自分の意見を伝えるにも、「母親が言った」ことにする。  そんな主体性の無い意見で、他人に考えが伝わると思っている父親に腹が立った。 「そういえばお前、演劇祭は?」  西念に尋ねられ、俺は一昨日夜の自宅から、中央線の中へと意識を戻す。  今更か。  西念は既に実習生では無いのだから、演劇祭の一日目だろうが何だろうが、興味は無いのかもしれない。 「サボりましたよ。俺のクラスの出番は明日だし。一応、凄い下痢ってことで」  いつもと体調の変わらなそうな俺の顔を見て、西念は呆れたような視線を寄越した。  少なくとも、笹岡は俺が大して演劇祭では役に立たないことを知っているので、何も言ってこなかった。  他のクラスメイトにも怪しまれることなく安堵していると、佐伯だけ「絶対サボりでしょ!」というLINEを、わざわざ送ってきた。  盛大に既読無視した。  昨日の前日準備には朝から晩まで参加したのだから、今日一日くらい許して貰いたい。  これもまた金曜のことだが、七尾さんから貰った連絡先へ電話してみると、一人の男性が出た。  沼田(ぬまた)(つづる)というその男性に、亜矢子について話を伺いたい旨を伝えると、(いぶか)しむ気配が感じ取れた。  高木先生の奥さんに連絡を取った時と同じ展開になるのではないか、と焦る。  学校の演劇祭の歴史について調べていること、年一回だった時代に書かれた脚本の内容に興味を持ったことを伝えた。  男性が黙ったままなので、これはまたダメか、と思った時に「日曜日なら」という返事が訊けた。  電話を切って、安堵の息を漏らすと、隣で訊いていた西念が「たまたまだな」と言った。  噛みつこうと思ったが、奴は続けて「まあ、前よりはましか」と少し口の端を持ち上げたので、俺は口を閉じざるを得なくなった。  意識が、休日の車内に戻ってきた。  ゴトゴトという音が断続的に続き、決して静かではない。  けれど、目の前に知り合いがいるのに会話がないというのは、何とも気恥ずかしい心持ちがした。 「なんか、面白い話ないですか?」  会話に困り、その旨を話すと西念はきょとんと顔を上げた。  そして、「ないな」と鼻で笑った。  奴に話しかけたことを俺は後悔した。  休日の西念は黒のTシャツにジーパンという、かなりラフな格好だった。  見目が良いからシンプルなはずのそれがまた様にはなるのだが、知らない人の家を訪ねる格好としては少々心許(こころもと)なかった。  かく言う俺もポロシャツにジーパンという出で立ちなので、どっこいかもしれないが。  学校からは近いが、俺が国立駅で電車を降りるのは初めてだった。  定期圏外だというのが第一の理由だったが、某有名国立大がある、ということ以外、特に街に関する情報が無かったためだ。  国立駅前に降りて、案外栄えていることに驚きつつ、西念の案内に従って進む。  駅前の通りは、本屋から少しおしゃれな雑貨屋、スーパー、果てはライブハウスまであり、興味に事欠かなかった。  アニメ映画で観たことのあるケーキ屋が出てきて、少し興奮した。  あの映画が公開されたのは確か中学の時だったと思う。  そんなことを話していると、西念は「年相応に見えるな」と、嫌味を言う。  そんな朴念仁曰く、この通りが便利過ぎて、この近くの大学生は国立から出られなくなるのだそうだ。  それを「国立病」というのだ、と西念は笑った。  国立駅から大通をしばらく進むと、斜めに脇へと逸れていく通りがあった。  大通りほどでは無いが、そこそこ幅の広いその道を、西念は迷いのない足取りで歩く。  五分ほど進むと、今度は左に入る。入り組んだ道を更に辿って行って、一軒の家の前で止まった。  門扉が付いていて、塀で囲まれたその家は、決して大きくは無かった。  塀の色は淡いクリーム色で新しい。  門扉(もんぴ)に使われている木は古いが、濃い色で塗りなおされているようで、つやつやとしている。  門前はしっかり掃き清められていた。  俺が辺りを見回している中、西念は門の呼び鈴を押した。黒く四角いそれに向かって名乗ると、少ししゃがれた低い声が訪問を(ねぎら)った。  門を潜り、玄関扉を引くと、中には俺より少し背の低い、しかし姿勢が良く、還暦前後、といった印象の男性が立っていた。 「遠かったでしょう。上がってください」  男性は俺達を客間に通すと、奥へ消えて行く。ややあってお茶と菓子を乗せた盆を手に、再び現れた。老齢の男性にしては世話好きな人だな、と感じる。  この男性が、沼田綴だった。
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