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綴さんは七十代後半だという。
伸びた背筋と綺麗に整えたグレイヘア、ハッキリとした受け答えからは想像できなかった。
けれど、沼田亜矢子の弟であれば、当然の年齢だ。
「七十代には見えません」
話の掴みもわからず、俺は本音を言った。
綴さんは笑う。
「いえいえ。これでも、六十で女房を亡くした時はかなり老け込みました。この髪も、その時に一気に白髪が増えまして」
そう言って頭を掻く。縁側から差し込む陽光に、髪の毛がきらめいた。
不味い質問をしてしまったか、と焦った時、「趣味の観劇仲間が支えてくれました」と彼は再び笑った。笑顔の多い人だ。
「で、姉の話を訊きたいとか?」
俺は背筋をやや伸ばした。西念が口を開く。
「お辛いようでしたら、無理はしないでください。ただ、可能な範囲で伺いたいのです」
彼は薄く笑顔を浮かべた。
「大丈夫です。姉のところを尋ねてきた人など、もう何年もいません。彼女も喜んでいるはずです」
そう言って、客間の脇にある襖に目を向ける。
何となく、白檀の香りが周囲を漂っているような気がした。
同じくそちらを見ていた西念が、目線を綴さんの方へ戻す。
「当時、彼女が一緒に演劇をされていたお友達からご連絡などは?」
綴さんはまさか、と言って手を振った。
「皆、死んだか、もう連絡も取れないです。
数年も前に、そちらの高校の演劇部顧問、という方からお電話がかかってきましたが、演劇関係はそれきりです」
もしや、と思った。
演劇部顧問で連絡をとる可能性のあった人物。
「電話の相手は、高木先生という方では無かったですか?」
西念が尋ねると、綴さんは目を丸くした。
「ご存知でしたか。……姉の死についてばかり訊いてくるので、正直答える気になれず、切ってしまったのですがね」
俺は息を飲んだ。
高木先生は、やはり沼田亜矢子まで迫っていたのだ。
けれど、原因を突き止めるまでには辿り着かず、そして――。
西念は考え込むようにしばし沈黙した後、顔を上げた。
「観劇がご趣味ということですが、きっかけでも?」
「元々は両親の趣味でしてね。
私たちは生まれたのが戦争直後でしたので、滅多に行けるものではありませんでしたが。
それでも、日本の状態が落ち着いて来ると、たまに連れて行って貰いました」
綴さんによると、亜矢子の場合は、演劇好き、というよりは物語に関わること全般が好きだったらしい。
貧しい中でも子供の書籍代に糸目は着けず、娯楽の少なかった当時、二人にとっての人生の楽しみの大部分が、読書だったという。
亜矢子はその書籍を真似て、絵本を作ったり、弟の彼を巻き込んでごっこ遊びをすることを楽しんでいた。
そのうちに、物語を書くことが彼女にとっての習慣になっていったという。
「小学校を出ると、姉は小遣いを貯めて一人で映画に行くことも増えました。
母親は、姉が一人で出歩くことを心配していたので、隠れて行っていましたね。
私もよく、映画の感想を訊かせてもらったものです」
俺は、自分の小中学校時代を思い返した。
確かに、夢は当時からあったが、彼女ほど積極的に活動することはなかった。
亜矢子の物語に対する情熱は、早くから深いものだったことがわかる。
「……その後、高校はうちに?」
西念の問いかけに、綴さんは頷いた。
「ええ。どこから情報を仕入れたのか、演劇に造詣のある先生がいるとかで、高校を選んだようでした。
姉は脚本家を目指していたようです。
私には『大学に行きたい』と言っていました。
ただ、戦争が終わり、国が変わったとはいえ、まだ女性が自分の好きなことを自由にできる風潮ではなかった。女は家に、男は仕事に。
そんな時代でした。
大学へ行きたいというのは、両親にも内緒にしていたと思います。
それでも、両親は姉が高校に行くことを喜んでいました。姉にとっては良い環境だったでしょう」
綴さんは笑った。
何となく、同級生の女子たちの顔が浮かんだ。
卒業後の進路について話している時に、「都内から出して貰えない」と嘆いていた子たちだ。
『女の子だから』。
無意識の中のそういった観念は、戦争が遠く昔になってしまった今も、まだまだ根強い。
「それで、演劇部へ入部した」
西念が言う。
綴さんが微笑んで首肯した。
「入学してからの姉は、ずいぶんと楽しそうでした。
姉の目のつけていた先生というのが、あの時代珍しく、大学で外国文学を学んで、演劇の教養も身に着けた女性でしてね。姉の執筆もはかどったようです」
泉咲子のことだろうか。
「確かに……それは珍しいですね」
西念が疑問視するような声を出した。
「そうなんですか?」
「……」
俺の問いかけに、西念は答えない。いや、無視してるのか。よくわからないが、そういうもんなのだろうか。
綴が自分の手元にある湯飲みを引き寄せた。
「姉は幸運でした。心の置ける友人もできたようでしたし。
元来頑固なところがありましたから喧嘩も多かったようですが、なんだかんだ楽しそうでしたね」
「お友だちというのは?」
話の流れに違和感はないだろうか、と考えつつ、恐る恐る尋ねる。
「浅井さん、という女生徒です」
「……清恵さんですか?」
これは西念が訊いた。
綴さんは皺の寄った瞳を瞬いた。
「ご存知でしたか」
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