九月二十日(日)

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 綴さんは七十代後半だという。  伸びた背筋と綺麗に整えたグレイヘア、ハッキリとした受け答えからは想像できなかった。  けれど、沼田亜矢子の弟であれば、当然の年齢だ。 「七十代には見えません」  話の掴みもわからず、俺は本音を言った。  綴さんは笑う。 「いえいえ。これでも、六十で女房を亡くした時はかなり老け込みました。この髪も、その時に一気に白髪が増えまして」  そう言って頭を掻く。縁側から差し込む陽光に、髪の毛がきらめいた。  不味い質問をしてしまったか、と焦った時、「趣味の観劇仲間が支えてくれました」と彼は再び笑った。笑顔の多い人だ。 「で、姉の話を訊きたいとか?」  俺は背筋をやや伸ばした。西念が口を開く。 「お辛いようでしたら、無理はしないでください。ただ、可能な範囲で伺いたいのです」  彼は薄く笑顔を浮かべた。 「大丈夫です。姉のところを尋ねてきた人など、もう何年もいません。彼女も喜んでいるはずです」  そう言って、客間の脇にある(ふすま)に目を向ける。  何となく、白檀の香りが周囲を漂っているような気がした。  同じくそちらを見ていた西念が、目線を綴さんの方へ戻す。 「当時、彼女が一緒に演劇をされていたお友達からご連絡などは?」  綴さんはまさか、と言って手を振った。 「皆、死んだか、もう連絡も取れないです。  数年も前に、そちらの高校の演劇部顧問、という方からお電話がかかってきましたが、演劇関係はそれきりです」  もしや、と思った。  演劇部顧問で連絡をとる可能性のあった人物。 「電話の相手は、高木先生という方では無かったですか?」  西念が尋ねると、綴さんは目を丸くした。 「ご存知でしたか。……姉の死についてばかり訊いてくるので、正直答える気になれず、切ってしまったのですがね」  俺は息を飲んだ。  高木先生は、やはり沼田亜矢子まで(せま)っていたのだ。  けれど、原因を突き止めるまでには辿り着かず、そして――。  西念は考え込むようにしばし沈黙した後、顔を上げた。 「観劇がご趣味ということですが、きっかけでも?」 「元々は両親の趣味でしてね。  私たちは生まれたのが戦争直後でしたので、滅多に行けるものではありませんでしたが。  それでも、日本の状態が落ち着いて来ると、たまに連れて行って貰いました」  綴さんによると、亜矢子の場合は、演劇好き、というよりは物語に関わること全般が好きだったらしい。  貧しい中でも子供の書籍代に糸目は着けず、娯楽の少なかった当時、二人にとっての人生の楽しみの大部分が、読書だったという。  亜矢子はその書籍を真似て、絵本を作ったり、弟の彼を巻き込んでごっこ遊びをすることを楽しんでいた。  そのうちに、物語を書くことが彼女にとっての習慣になっていったという。 「小学校を出ると、姉は小遣いを貯めて一人で映画に行くことも増えました。  母親は、姉が一人で出歩くことを心配していたので、隠れて行っていましたね。  私もよく、映画の感想を訊かせてもらったものです」  俺は、自分の小中学校時代を思い返した。  確かに、夢は当時からあったが、彼女ほど積極的に活動することはなかった。  亜矢子の物語に対する情熱は、早くから深いものだったことがわかる。 「……その後、高校はうちに?」  西念の問いかけに、綴さんは頷いた。 「ええ。どこから情報を仕入れたのか、演劇に造詣(ぞうけい)のある先生がいるとかで、高校を選んだようでした。  姉は脚本家を目指していたようです。  私には『大学に行きたい』と言っていました。  ただ、戦争が終わり、国が変わったとはいえ、まだ女性が自分の好きなことを自由にできる風潮ではなかった。女は家に、男は仕事に。  そんな時代でした。  大学へ行きたいというのは、両親にも内緒にしていたと思います。  それでも、両親は姉が高校に行くことを喜んでいました。姉にとっては良い環境だったでしょう」  綴さんは笑った。  何となく、同級生の女子たちの顔が浮かんだ。  卒業後の進路について話している時に、「都内から出して貰えない」と嘆いていた子たちだ。  『女の子だから』。  無意識の中のそういった観念は、戦争が遠く昔になってしまった今も、まだまだ根強い。 「それで、演劇部へ入部した」  西念が言う。  綴さんが微笑んで首肯(しゅこう)した。 「入学してからの姉は、ずいぶんと楽しそうでした。  姉の目のつけていた先生というのが、あの時代珍しく、大学で外国文学を学んで、演劇の教養も身に着けた女性でしてね。姉の執筆もはかどったようです」  泉咲子のことだろうか。 「確かに……それは珍しいですね」  西念が疑問視するような声を出した。 「そうなんですか?」 「……」  俺の問いかけに、西念は答えない。いや、無視してるのか。よくわからないが、そういうもんなのだろうか。  綴が自分の手元にある湯飲みを引き寄せた。 「姉は幸運でした。心の置ける友人もできたようでしたし。  元来頑固なところがありましたから喧嘩も多かったようですが、なんだかんだ楽しそうでしたね」 「お友だちというのは?」  話の流れに違和感はないだろうか、と考えつつ、恐る恐る尋ねる。 「浅井さん、という女生徒です」 「……清恵さんですか?」  これは西念が訊いた。  綴さんは皺の寄った瞳を瞬いた。 「ご存知でしたか」
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