『怪談四方山』【赤乱雲】【牢屋】

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【赤乱雲】 私は積乱雲ーー所謂入道雲というやつが嫌いだ。 入道雲は夏場、強い上昇気流によって急速に発達して雷雨をもたらし、時には河川の氾濫や土砂災害など甚大な災禍をもたらす事もある自然現象だ。 しかし積乱雲自体は季節が夏に差し掛かってくれば自然と見られるありふれた現象であり、一般的には夏の雲としてノスタルジーを感じる人も多い。 だが、私はあの分厚く膨らんだ雲の内側に、得体の知れない何かが潜んでいて、私たちを見下ろしているような気がしてならない。 これは私がそのように感じるきっかけとなった、私がまだ小学校へあがる以前の頃の話だ。 * 私は中学で部活を始めるまで、長期の休みは祖父母の家がある長野県で過ごしていた。 祖父母の家は山間のちょっとした盆地にあり、ポツンポツンと大きな家が点在する以外はほとんどが水田や畑であった。 かつて雑木林を切り拓いたという山際の広大な農地のその一画に、農家だった私の祖父母の畑があった。 その畑では夏の間きゅうりやナス、トマトなど色々と栽培していた。 夏休みの間、私はほとんど毎日祖父母に連れられ畑を訪れていたのだが、野菜には関心がなく虫や近くを流れる用水路の魚などを捕まえて遊んでばかりいた。 その日は朝からうだるような暑さで、早く畑に行こうとせびる私に、祖父が笑いながら涼しくなった夕方に行こうと言っていたのを覚えている。 「おーい、マー坊。畑行くぞー」 ケーブルテレビで放送していたアニメを居間でぼーっと眺めていると、ノースリーブの白い下着に短パン、さらに長靴と麦わら帽をかぶったいつもの農作業スタイルの祖父に声を かけられた。 「ちょっと待ってー!」 買ってもらったばかりの虫取り網と虫かごを手にすると、サンダルを足に突っかけて外へ飛び出した。 背後で祖母がテレビをつけっぱなしにしている事について小言を言うのが聞こえる。きっと帰ってきた後に何か文句を言われるだろうと思ったが、畑で遊べる事に比べれば些細な事だった。 ガコガコとギアを操作して、私を助手席に乗せた軽トラックを祖父が畑の近くの空き地に停めた。 時刻は6時から7時のあいだ位だっただろうか。 昼間あれほど燦々と輝いていた太陽も山と山の隙間に半分以上埋れていた。 あまり遠くに行くんじゃないぞ、という祖父の忠告に空返事を返す。 私は早速畑のすぐそばにある水田へと走っていった。 目当てはウシガエルのオタマジャクシだった。 その前日、祖父の友人である米農家から、フナよりも大きな、ウシガエルのオタマジャクシが最近田んぼに出るようになったという話を聞いてから、私はいてもたってもいられなかったのだ。 すぐ近くの田んぼに着くと、私はしゃがみ込んで一生懸命目を凝らした。 太陽が真上にある昼間と違って、水面が鏡のようになって見づらかったが、手で影を作ってやると、カブトエビやホウネンエビ、そしてどこにでもいる普通のオタマジャクシなどが活発に動き回っているのがわかった。 しかし、肝心のウシガエルのオタマジャクシが見つからない。 私はしゃがみ込んだままの姿勢で、少しずつ左右へ動き回り、目を皿のようにして巨大なオタマジャクシを探していた。 「何してんの?」 なのでそう声をかけられた時、私は飛び上がるほど驚いた。 見れば、いつの間に近づいていたのか、私の背後にはフラスコのような腫れぼったい顔をし、やや突き出たような目蓋の、私と同い年くらいの少年が立っていた。 私はその特徴的な顔立ちに見覚えがあった。 祖父母の住むこの田舎で、かつて大地主だったという最も大きな屋敷の子どもで、名前をタカシといった。 ーーしまった。 私は、幼いながらも内心舌打ちをした。 幼い頃の私は、正直言ってタカシ君が嫌いだった。 大人になってからよく考えてみれば、恐らくタカシ君はなんらかの知的障害を持っていたのだと思う。 だが、その頃の私にそんなことがわかるはずもなく、訳の分からないことばかりを口にし、突然なんの前触れもなく激昂したと思えば、なぜか周りの大人達から守られるタカシ君のことを、なんだかいけすかない、頭のおかしなやつだと思っていた。 だからその時も私は「別に……」と素っ気なく答えると、すぐに顔を背けて再びウシガエルのオタマジャクシを探し始めた。 相手にしなければそのうち飽きてどこかへ行くだろうと考えていたのだが、背後の気配はいつまでも消えなかった。 薄気味悪く思い、私は祖父のいる畑の方へ帰ってしまおうと歩き出した。 しかしなぜかタカシ君もついて来る。 「ねぇ、やめてよ!ついて来んなよ!」 それまで無視をしていたものの、いい加減痺れを切らした私は、振り返って語気を強めてそう言った。 心のどこかで彼を祖父の所へ連れて行くのはまずいと思っていた。それがどうしてかは分からなかったが、とにかくそれだけは避けた かった。 「気持ち悪いんだよ!死ね!」 小学生が思いつく限りの語彙で私がタカシ君を罵倒すると、それまでにやにやと薄ら笑いを浮かべていたタカシ君は、電池が切れたようにパッと無表情になった。 ーーしまった、言いすぎてしまった。 幼い私は凍りついたような無表情の彼の前で、謝るべきか否か、おろおろとしていると 「ねぇ、あっち」 とタカシ君が突然腕を上げて私の反対側の空に指を差した。 あまりにも突然のことだったので、私は彼が指を差した方へはすぐに振り返らず、まじまじとタカシ君の顔を見つめた。 彼の表情は相変わらず無表情で、なんの変化もない。 私は恐る恐るタカシ君の指を差す方向へ目を向けた。 山の背後から湧き上がる入道雲が、沈みかけの夕陽に照らされて赤みがかっていた。 「あっち」 タカシ君がもう一度言った。それで私は彼が何を指差しているのかが分かった。 ほんのりと赤く染まった程度の入道雲と入道雲の間から、やけに浮いて見えるほど赤い入道雲が近づいて来ていた。 赤い入道雲はゆっくりと渦を巻きながら成長してゆき、あっという間に周りの入道雲を覆い隠すほどに大きくなっていった。 「何あれ……」 思わず口をついて出た私の疑問にタカシ君は 「カミサマだよ」 と抑揚のない声で答えた。 赤い入道雲は、空を這うように山を降り、徐々に里へ近づいて来た。 「カミサマが来るよ」 タカシ君が赤い入道雲を指を差しながらそう言う。すると赤黒く影になった入道雲の底部が、にわかにうねりを上げ、そこから触手のように伸びた一本の太い漏斗雲が、私たちに向かって降りてくるのが見えた。 私はその異様な光景と、どうしようもないほどの巨大さに圧倒され、その場に立ち竦んで しまう。 「来るよ。ねぇ、マサト君、来るよ来るよ来るよ来るよ来るよ来るよ……」 タカシ君は壊れたように何かが来ると連呼した。 私はタカシ君に対する恐れから、「何か来るんだよ!」と彼の声を打ち消すように叫んだ。 その瞬間、空から巨大な、ドーンというくぐもった爆破音のようなものが聞こえて来た。 今思えば、きっと雷か何かの音だったのだろうが、その時の私はその爆発音はタカシ君の言う「カミサマ」の声だと思った。 なぜかこれ以上「カミサマ」の声を聞いてはいけないと思った私は耳を塞いでその場にしゃがみ込んだ。 だが、耳を手で塞いだ程度では、外の音はどうしようもなく聞こえて来てしまう。 耳を塞ぐ私の手を通り抜けて、地面が砕けるんじゃないかと思うほどの轟音と、タカシ君の「来てるよ来てるよねぇマサト君来てるよカミサマ来てるよ」という言葉が聞こえてきた。 「うわぁぁぁぁぁぁ‼︎」 私は耳を塞ぐ手に力を込めて、それらをかき消すように大声で叫んだ。 「……来たよ」 耳元で囁かれたようにはっきりとそう聞こえた。 タカシ君の声はそれを最後にぱったりと途絶た。周囲の轟音も聞こえなくなっていた。 私はそれでもしばらくは動けずにいると「おい!雅人、雅人!大丈夫か、何があったんだ!」と血相を変え駆けつけてきた祖父に抱き起こされた。 閉じた目を恐る恐る開く。 あの赤い入道雲はいつの間にか跡形もなく消え去っていた。 そしてタカシ君の姿も…… * このことについて、きっと夢を見ていたのだと私は思っていた。 あの日以来、この事について祖父に確かめることを何となくためらっていたのだが、この話を執筆する際、私は思い切って確かめてみることにした。 こんな些細な思い出を覚えているか不安であったが、実際に聞いてみればあっさりしたもので、既に齢80歳を過ぎ、顔を合わせるたびに物忘れが増えたと嘆いていた祖父だったが、あの時のことについては、直後に起きたもう一つの事件とともに、はっきりと覚えていた。 祖父の話によると、その日もいつも通り畑で作業をしており、そこから田んぼを覗き込む私の姿が見えていたという。 その為、余り遠くに行くなよと声をかけてからは、特に心配することもなく農作業に集中していた。   そうしてしばらくした後、突然近くに雷が落ちたような轟音がし、その直後に私の悲鳴が聞こえてきたので何事かと驚き駆けつけたところ、幼い頃の私が田んぼの畦道で蹲っていたのだという。 「いやぁ、あん時はたまげたわ。雲も出てねえのにマー坊が雷に打たれたのかと思ったんだ」 祖父はそう笑っていた。 晴天の霹靂、とは言うがあの日は確かに入道雲が山の向こうに出てはいたとはいえ里の方は雷がなるとは思えない、雲ひとつない晴天だった。 にも関わらず祖父曰く、あの日の夕方、落雷のような正体不明の轟音を聞いた人は多かったらしい。 そしてもう一つ、その直後に起こった事件とは、あの時私と一緒にいたタカシ君が行方不明になっていた事である。 これについて、当時、雷のような轟音以上に騒がれたらしいのだが、あの後高熱を出して寝込んでいたらしい私はほとんど覚えていない。 ただ、後から聞いた話によると、タカシ君はちょうど雷のような轟音が聞こえる少し前、母親に「やって来る」と言い残して家を飛び出してしまったのだという。 祖父の話を聞いた後、私はそのことを思い出して何が得体の知れない漠然とした不安に襲われた。 近くを流れていた川へ転落した、山の奥の崖から落ちてしまった、あるいは人攫いにあった……村の人々は種々だねだね様々な噂や憶測を囁き合ったという。 しかし私はタカシ君が見つかったという話を未だ聞かない。 もしこの世界に「カミサマ」のような得体の知れない巨大な"何か"が潜んでいるのなら、彼らが私達の前に姿を現した時が、私達の終わりの時かもしれない。 外出中、ふと空を見上げた時、そこに赤い雲を見かけたのなら注意するべきだ。 少なくとも私はそう思う。 【牢屋】 日本全国にある神社の数についてご存知だろうか? 文部科学省の調査によると、登録されている神社の数は約8500社、さらに登録されていない小さな神社を含めると10~20万を超える数が存在していると言われている。 基本的には信仰の対象となっている神社だが、中には人にあだなす禍々しい何かを封じ込める役割を持つ神社もあり、そのような神社は信仰するものなどいるはずもなく、大抵は寂れてボロボロになっているという。 これは、私がまだ駆け出しのライターだった頃、ある企画について協力して頂いた出版社の方ーー仮に菅原さんとしておくーーから聞いたお話である。 * 菅原さんが今の出版社に勤め始めてまもない頃、彼は勤め先から程ない所でアパートを借りて一人暮らしをしていた。 かつてそこは新規開発計画により山を削って作られた土地だったらしく、そのためもあってか、出版社のある街を見下ろせるほどの高台にあった。 その頃の菅原さんは、まだ自動車を持っておらず、会社への通勤は原動機付き自転車で行っていたという。 「行きはよいよい帰りは辛い、だったよ」 当時のことを回想しながら、菅原さんがそうしみじみと呟くように、勾配のきつい坂道は、出勤の時はエンジンを掛ける必要がないくらいにスムーズに進むのだが、帰り道はのろのろとしか進まず、中には降りて原付を押していかなければならないような坂道もあったという。 そんな過酷な帰り道であったのだが、余りお金が無かった新人社員時代(ベテランと言われるようになった今も大して変わらねえよ、と彼は笑うが)の菅原さんは、"辛いながらも"毎日その道を通って自宅へと帰っていた。 そんなある日のこと、深夜まで残業をしていた菅原さんは、疲れた身体に鞭打ってヨタヨタと原付を押しながら坂道を登っていたところ、ふとぶつぶつと何かを呟く女の声が聞こえて来たという。 菅原さんは腕時計に目を向ける。 薄暗い街灯光に仄かに照らされて、辛うじて午前2時を指し示していることがわかった。 こんな夜更けに誰だ? 菅原さんは少し気味悪く思いながらも誰かいるのかと立ち止まってみた。 足を止めた途端、猛烈な焦臭さを感じ菅原さんは何事かと眉を潜めて辺りを見回す。 どこかで小火でも起こしてる訳じゃないよな。 そうして注意深く周囲を観察していると、再び何者かの呻き声が聞こえて来た。 「……さい…………こ………い………しね………」 耳を澄まして声の方向へ目を向けると、住宅と住宅の隙間にポッカリと空いた空き地に誰かが立っていた。 暗がりの中、その人物は目立つ赤い上衣を身につけていた。 上着の感じから女性であることがわかった。 そしてその女の前から、真っ黒い煤煙が黙々と立ち昇っているのが菅原さんの目に入った。 「おい、お前!何やってんだ⁉︎」 付け火をしているのかと思わず駆け寄った菅原さんが叫ぶ。 「ヴゥアアァァァ‼︎」 女はばっと菅原さんの方を振り返ると、獣のような唸り声を上げて菅原さんを突き飛ばした。 彼はバランスを崩して、その場に尻もちをつく。 その隙に赤い服を着た女は脱兎の如く駆け出すと菅原さんが登って来た坂道を走り去っていってしまった。 長い坂道を等間隔に照らす街灯の下、走り去ってゆくその女の背中を、唖然としながら見送っていた菅原さんだったが、ハッとして目の前の空き地へ顔を戻す。 「……あれ?」 しかし、目の前の隠れるように奥まった空き地には、菅原さんの予感した火の気はなかった。 そこにはただボロボロになった小さな社が、街灯の光が届かない暗がりの中、ポツンと建てられているだけであった。 もちろん、先ほど見た真っ黒な煙など、どこからも上がっていない。 「おかしいなぁ……結構煙出ていたはずなんだけどなあ」 菅原さんは困惑しつつも、どこか薄気味悪く思い、それ以上近づかずに自宅へと帰った。 翌朝、一眠りして頭の整理がついた菅原さんは、昨夜の女は変質者か何かで、あの煙はきっと見間違いか勘違いだったのだろうと結論をつけ、出勤のための身支度を整えていた。 菅原さんの務める出版社では、服装は自由とされていた。 しかし菅原さん達新入社員は、一年目まではスーツ姿でなければならないという暗黙のルールが存在していたので、面倒くさいながらも、不器用な菅原さんは毎朝苦戦しながらネクタイを結んでいた。 出勤の準備もすみ、つけっぱなしにしていたテレビを止めようとチャンネルを手に取った時、菅原さんは見覚えのある場所が画面に映っていることに気付いて手を止めた。 『死亡していたのは、飲食店従業員、鏑木拓実さん、32歳。死因は今のところ不明とのことですが…』 ニュースキャスターが話す背後に映し出された映像は、菅原さんが普段の通勤でいつも通っている道にあった住宅であった。 菅原さんが眉を潜めながらニュースの続きを眺めているとテレビに突然、赤い服を着た仏頂面の中年女の写真が現れた。 『……署は、現在連絡が取れない妻、鏑木光子さん、31歳を参考人として捜索しているとの事です。……さて続いてのニュースは』 菅原さんはそこでテレビを切った。 暗くなった画面に青い顔をした自分が映り込む。 まさか昨日のあの女、今の鏑木光子じゃねえだろうな…… 菅原さんはなんとなく落ち着かない気分になった。 昨日深夜まで残業をしていた事もあって、その日菅原さんはまだ日が明るいうちに帰宅する事ができた。 出版社というハードな職業で、インスタント食品ばかり食べていた菅原さんは、久しぶりに料理を作ろうと思いスーパーで買い物をしてから帰路へついた。 季節は少しずつ夏に近づいて来ているという事もあって、日の出ているうちは暑いなぁ、などと呑気に考えつつ原付のハンドルに食材を詰めたビニール袋をぶら下げていつも通りの坂道を登っていると、ふと真横から薙ぐような突風に吹かれ咄嗟に原付を止める。 パチパチパチとビニール袋が音をたて、菅原さんは中身が飛び出ないように手で押さえた。 幸い風は一瞬で通り過ぎて行ったようで、すぐに何事もなかったようにそれまで通りの住宅街の静けさが戻ってくる。 「凄い風だったな……」 菅原さんはポツリとつぶやく。 するとその言葉に反応したようなタイミングで、カランカランと軽い木と木がぶつかり合うような、乾いた音が響いて来た。 おや、と思い菅原さんはその音の方へ目を向ける。 菅原さんの視線の先には、昨夜、あの赤い服を着た女が立っていた所に建てられていた小さな社があった。 そしてその社の建てられているコンクリートの土台に、古ぼけて全体的に燻んだ色をしている社には似つかわしくないように感じるほど新しい絵馬が落ちていた。 社に取り付けられた格子状になっている木戸に、ちぎれた紐が結んである。 どうやらさっきの風で落ちてしまったのだろう。 菅原さんはその落ちた絵馬を見て、その絵馬にどんなことが書かれているのか無性に気になってしまった。 まあ、落ちてた絵馬を戻してやるついでなら、少しくらい覗き見してもいいよな。 昨夜の事もあって、若干の気味悪さはあったもののまだ日は高く、社のある場所も隣の住宅の陰にはなってはいるが、怖さを感じるほど暗くもなかったので、菅原さんは道路の端に原付を止めると、多少の好奇心も相まって、その絵馬を拾ってみることにした。 近づけば近づくほど、その社はボロボロで、誰かの手入れがなされた様子はないことがわかった。 半ば崩れかかったような状態の社に少し躊躇するも、菅原さんは落ちていた絵馬を手に取った。 「さて、何が書かれてんのかな……」 絵馬を裏返す、そこにはこう記されていた。 『鏑木拓実を殺してください』 菅原さんはそれを見て凍りついた。 鏑木拓実ーー今朝ニュースでやっていたこの近くで殺された男の名前だ。 そして菅原さんは最悪の結論に辿り着く。 昨夜のあの女はやはり鏑木光子だったのだ、と。 菅原さんが絵馬を手に動けないでいると、不意に昨夜感じたのと同じ猛烈な焦臭さが辺りに漂い始めた。 ハッとして菅原さんが顔を上げると、目の前の社の格子状の木戸の中から、真っ黒な煙が漏れ出ていた。 驚きつつも、昨夜見たのはこれか、と妙に納得した菅原さんは社の中に何があるのか、やはり無性に気になって覗き込んでみる。 だが何か黒いテープでも貼られているような暗闇があるだけで、煙の発生源がなんなのかはよくわからない。 菅原さんは、誘われるように徐にその木戸へ手を伸ばした。 手をかければ、その木戸はすんなり開くという妙な確信があった。 ゆっくり伸ばした手が、あと数センチで木戸に触れる、といったところで、 「おい、あんた。何してんだ?」 と声をかけられ、菅原さんは正気に戻った。 慌てて手を引っ込めて、後ずさる。 後を振り返ると、怪訝な表情をしたジャージ姿の初老の男が立っていた。 「あ、いや……その……」 初老の男はしどろもどろに何かを答えようとする菅原さんとその後ろの社を交互に見比べると、 「あの神社にお参りしてたのかい?」 と菅原さんに尋ねた。 「え、ああ……はい」 「あの神社にお参りすんのはやめときな」 「それって……」 「なんでかは知らんよ、俺も他の奴に聞いただけだからな」 菅原さんが理由を尋ねようとするのを拒むように男はそう言った。 「ところで、その手に持ってる絵馬はお前さんのもんかい?」 その男は唐突に菅原さんの手を指差して言った。 菅原さんの右手には、先ほど拾った絵馬がまだ握られていた。 かなり気持ち悪かったので、自分のものではないとハッキリと伝えると、男は「ならいい、悪い事は言わないからあの社の辺りに捨てときな」と言う。 「あの、この絵馬とかあの社について何か知ってるんですか?」 気になって菅原さんはその男に尋ねてみた。 するとその男は視線を菅原さんの背後の社に向ける。 「さぁ、俺は詳しいことはよくわからん。あの神社だってこの土地が開発されてから、ごく最近建てられたものの筈だから、そんな大したいわれも由緒もないと思うんだが……。でもな、いつからかはよくわからんが、時々あの社に絵馬がかけられてることがあるようになってな……毎回、誰がかけて行くのかはわからんが、その絵馬に書かれている事はほとんど同じだ」 男は視線を菅原さんに戻す。 「……そしてあの社に絵馬がかけられると、大抵誰か死ぬ。だからみんな気味悪がってあの社には近づかないし、誰も手入れしないからご覧の通り荒れ放題だ」 男は少し空気を紛らわせるように笑うが、菅原さんは正直最悪な気分だった。   男はすぐ横の家を指差す。   「俺はその家のもんだが……ここをほったらかすとすぐに草が伸びてな。夏場は虫が沸いて仕方ないからこうして俺が草むしりをしに来ているって訳よ。ちょっとついて来な」 男は、空き地に入ると、小さな社の裏に周り菅原さんに手招きする。 「あんたに見せたいもんがあるんだよ」 菅原さんは何か嫌な予感を感じたが、なんとなく断ることが出来ず、男のいる社の裏手に回った。 「ほら、これ」 男は社の裏で、地面に指を指していた。 「これ、今までそこにくっつけられてた奴、全部」 男の指差す地面には、大人の肩幅程度の広さの穴が掘られており、その中に大量の絵馬が詰まっていた。 「この神社に何が祀られてんのか知らんけど、絶対ろくなもんじゃないから、兄ちゃんも絶対お参りしたらあかんよ」 男は菅原さんから絵馬を受け取ると、それを穴の中に放り投げ、そう言った。 * 「その社ってさ、実は今もまだ残ってるんだよね」 この話をしてくれた後、菅原さんは私にそう話してくれた。 そのことについて私はふと気になって尋ねてみた。 「それって、菅原さんが新入社員の時の話ですから20年以上前の話ですよね。今もその隣の家に住んでる方が絵馬の処理をしているんですか?」   「さすが、鋭いね。面白いのはそこなんだけど……」 菅原さんはにやりと笑う。 「直接見に行ったほうがいいと思うよ。今じゃ、ちょっと凄いことになってるから」 それから何度かその社に行こうと思っていたのだが、その頃から私の仕事が軌道に乗り始め、行こう行こうと思っているうちに菅原さんも、出版社を退職してしまった。 未だ私は、その社に行けていない。近いうちに行ければ、と思ってはいるのだが……。
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