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第一話
心地の良い時間が流れていた。
まだまだ続いてゆく文章からちょっと目をそらして腕時計を見てみると、時計の針はもうすぐ午後二時を指そうとしていた。
三沢亜紀はしおりを挟んで文庫を閉じた。
みえない雲。本のタイトルが改めて目に飛び込んでくる。
1987年に翻訳されて出版されたドイツの小説である。
さすがにドイツ語の原文が読めるほどの語学力を持ち合わせているわけではないので、読んでいるのは邦訳されたものだけど、そんなことを差し引いても、この本が抱えているテーマは大変興味深いと思う。
原子力発電所で起きた放射能流出事故によってそれまでの日常生活が崩壊し、波乱の日々を送ることになる一人の少女の物語。
事故を起こしてしまう原発は作者の創作によるものらしいが、その下地となっているのは明らかに1986年に起きたチェルノブイリ原発事故であり、ドイツ語の初版がその翌年の1987年であることからも、それは容易に推測できる。要するに反原発を題材にしたプロパガンダ作品である。
それにしてもお腹が空いた。ほんの軽い気持ちで借りた文庫に昼食を忘れるほど熱中してしまうとは。でも、こういうことがあるから図書館通いは止められない。
多少マイナーだとしても良い本に出会える快感は知的好奇心を刺激する。
図書館を出て左右に伸びる参道へ入る。氷川神社に続く比較的長い参道は、夏場は緑、秋は紅葉と季節の移り変わりがとても豊かで、読書で疲れた目に清々しく映える。
参道の入り口近辺にまで戻ればハンバーガーショップがある。
いつも図書館で夕方まで過ごすときの亜紀の定番コースである。
また『お米サンド(焼き肉)』のセットにしちゃおうかな。
ぼんやりとそんなことを考えながら歩いていると、ポケットの中のケータイが振動して着信を知らせた。
覚えのない、やたらと桁の多い番号が表示されている。
「もしもし、亜紀?」
ニューヨークに出張中の母『律子』からだった。
亜紀は安心して答えた。
「お疲れさま」
向こうではいま午前零時を過ぎたくらいだろうか。ケータイから聞こえてくる母の声に微かな疲れを感じる。
「仕事はどう?」
「うん、やっと片付いた」
「ちゃんと食べてる?」
「もちろんよ」
ケータイの向こうで母が笑うのが分かる。
「なんだか、どっちが親だか分からないわね」
「そうかな」
誰だってこれくらいのことなら聞くと思うけれど。
「でも声を聞けてちょっと落ち着いた。いま何をしているの?」
「いつもの図書館」
「貴方はホントに本が好きねぇ」
笑い声。ほんのちょっとのからかい。もちろん気分を害するようなものではない。それは何度も繰り返している母と娘のやりとり。
だから当然返す言葉も決まっている。
「別にいいじゃない」
「まぁいいけどね。で、今日は何か良い本は見つかったの?」
「見つけたよ」
「どんな本?」
「『みえない雲』っていうドイツの小説」
「みえない雲? あの原発事故を背景にしたラブストーリー?」
意外な反応だった。
まだ最後まで読み進めたわけではないのでラブストーリーかどうかは疑問だが、原発事故をテーマにしているというのはとりあえず当たっている。
「ちょっと違うような気がするけど、知ってるの?」
「知ってるわよ。だって映画館で観たもの」
「映画、あるんだ」
知らない情報だった。
原作を読んでいる最中なだけに、俄然興味が湧いてくる。
「良い映画よ。原作の方は知らないけれどね」
「今度観てみようかな」
「私の本棚の端の方にあるから、暇があったら観てみたら」
「持ってるの?」
驚いた。母がいくつかの映画のディスクを持っているのは知っていたが、そのコレクションの中に『みえない雲』があるとは。
「そういえば亜紀とは好きな映画の話とかしたことがなかったわね」
「そういえばそうだね」
「そっちに帰ったら、久しぶりに映画にでも行きましょうか」
疲れがピークに達してきたのだろうか。最後の部分には欠伸が混じった。
「いいね。行こうよ」
「明後日にはこっちを発つから」
「明後日? 仕事片付いたんだ?」
「ええ。ホントは明日にでも帰れるけれど、ちょっとは観光もしてみたいからね。明後日」
「いいなぁ」
反射的にそんな言葉が口から出てしまう。
キャリアウーマンとしての母は娘の視点から見てもカッコイイと思う。
「今度は一緒に付いて来る?」
「いや、やっぱりいいよ。母さんは仕事で行っているんだし」
「よく出来た娘だわ。貴方は」
「そんなことないよ」
よく出来ているのは母の方だろう。シングルマザーとして周囲に生活の心配をさせることもなく、私を不自由なく育ててくれているのだから。
「大丈夫? 疲れが溜まっているんじゃない?」
「うん。ちょっとね」
「ゆっくり休んで。帰ってくるの、楽しみにしてるから」
「そうね。なら悪いけれど、もう休ませてもらうわ」
「うん。お休みなさい」
「お休み」
通話は切れた。
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