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或る男の記憶
―――7年前、恋人を奪われた。
本当の所は、奪われたよりも"汚された"と言った方が正しいのかもしれないが、その事実を知ったのは彼女が突然に離れていった後の事である。
性行為を強要され、挙句の果てに堕胎までさせられていたなんて、良識があれば目を伏せたくなる事実を知ったのは彼女の口からではなく第三者の偶然であった。
…だから何ができた?という訳ではなく、気づいた時にはもう何もできないところまで2人は離れてしまっていて、残ったのはそこまでの思い出ぐらい。
それが、傷を残したと言えば違うのだけど、今でも彼女の事が脳裏に浮かぶ事がある。忘れようとしても忘れられないから、心の隅に置いておけば顔を出す。
もう戻れない距離から彼女は今、自分の事をどう思っているのだろうか?"汚されていた"時に何も気づかなかった自分を咎めたいと思っているのか、それとも離れた場所で過去を忘れたかのように家族を愛し愛される生活を送っている自分の事を恨んでいやしないだろうか?
時折心の隅から顔を出す"彼女"が真実を教えてくれる事は無いだろう。
―――人生は、思いがけない事が時々ある。
7年前に恋人を奪われた事が、まさか3年前に遭遇した事件と繋がっているかもしれないなんて誰も思いつきやしない。信じられない程の偶然だった。
23人が殺された現場で、犯人をやむを得ず撃ち殺した事をやっと妻に打ち明けたと思えばこの始末だ。悪戯にしてはよくできている。
"何故妻に伝えなかったのか?"と訊かれれば理由は1つ、"言いたくなかったから"である。やむを得ず、の事情だがどこか後ろめたい気持ちがあってずっと打ち明けずにいた。恐らくあの時の"彼女"も同じような気持ちだったのではないか?
違っていたのは、"自分から"伝えた事。
事件の被害に遭い、亡くなってしまった夫婦が遺した"たった一人の娘"を養子として育てる事を決めた時に、その秘密を打ち明ける覚悟をした。
犯人の射殺という形で幕を下ろした事件も、あの子にとっては一生向き合わなければならない事件でしかない。本当の家族に限りなく近づいても忘れる事は無いだろう。
―――どこかで風化した思い出と、未だ色濃く残り続けている記憶。2つが線で結ばれた時、気づかないうちに誰もが真実へと吸い寄せられるように歩を進め始める。
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