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淵
とにかく1人になりたくて、駅前のカラオケ屋に入店した。狭い個室のソファーに寝転び、隣から漏れてくる音楽をぼーっと聞き流す。
ショックだった。
昨日の理玖は何だったんだ。散々俺を口説いておきながら、朝日と不倫していたなんて。
からかわれていたんだろうか。俺と朝日が夫婦だと知った上で、俺を翻弄していたのか。
たぶん理玖は、俺のことを恨んでいたんだろう。一方的に別れた仕返しで、俺の家庭をめちゃくちゃにしようとしているんだ。
俺は、これからどうしたらいいんだろう。朝日に見える理玖の影を気にしながら、朝日の横暴に耐え続けて生きていかなきゃいけないのか?それとも…
ふと気づくと、ポケットの中でスマホが震えていた。画面もよく見ず反射的に電話に出ると、今1番聞きたくない声が聞こえてきた。
「旭さん、どこにいますか?」
「理玖……」
どうしてそんな、平然とした声をしているんだろう。さっきは絶対目が合っていた。
「あ、やっぱり言わなくても大丈夫です。旭さん、カラオケにいますね。音でわかりました。この短時間で移動できたってことは、駅前のとこですかね」
「…何か用?」
「今すぐ会いたいです。そこ、動かないでくださいね」
「おい理玖」
プツッ
電話は切られてしまった。
理玖がここに来る…。一瞬逃げようかとも思ったけど、よく考えたら俺が逃げる理由なんてない。ちゃんと聞けばいいんだ。どういうつもりで朝日と不倫してるんだ…と。
しばらく待っていると、扉がノックされ、恍惚とした表情で理玖が入ってきた。
「…よくこの部屋がわかったな」
「全部屋覗きました」
なんて迷惑な。完全に不審者だ。
「旭さん、色々聞きたいことあるでしょう?全部答えてあげますよ」
理玖は俺の左側に座り、左手で太ももの内側を撫でてきた。
「…っ、触るなよ」
「やです」
理玖はひたすらにこやかで、手をどかしてくれる気はないらしい。
ぞわぞわ感を我慢しながら話を進める。
「な…なんでそんなに楽しそうなんだよ。自分の立場わかってる?」
「旭さんの恋人候補です」
「ふざけてるのか?!お前は朝日の不倫相手だろ?」
「ああ!旭さん、嫉妬してるんですね?大丈夫です。俺は旭さんひとすじですから」
「誰が嫉妬なんて」
「え、嫉妬しないんですか?奥さんとられたのに」
「……そっちかよ」
「どっちだと思ったんですか?ねえ、旭さん?」
理玖はソファーの上に乗っかり、俺の方を向いて肩に手を載せ顔を近づけた。
「正直になりましょうよ。奥さんのことなんて、本当はどうでもいいんでしょ?」
「そんなわけない」
「似た者夫婦ってうまくいかないと思うんですよ。旭さんたちなんて、欠点が似てるから特にだめじゃないですか?」
「似てる?俺と朝日が?」
「うわ、嫌そうな顔。同族嫌悪ってやつですか?」
理玖はくすくす笑っている。
「自分のことしか考えてないところ、そっくりです。あ、男の趣味も似てますね」
「お前……」
「安心してください。俺はゲイなので、いくら似てても奥さんのことなんて全然好きじゃないです」
「え?じゃあなんで不倫を…」
「旭さんのためですよ」
「は?」
暗いカラオケルームにいるせいか、理玖の瞳は何の光も反射していない。ただ真っ黒な目に見つめられ、急に足元が覚束なくなる。
「妊娠されて望まない結婚をしてる旭さんを見て、思ったんです。俺が助けてあげないとって」
「ま、待って。理玖はいつから俺のこと…」
「旭さんにフラれて、俺ショックだったんです。だから同じ大学に進学して、同じ地域で就職しました。旭さんのこと、ずーっと見てました」
思わず背筋がぞっとした。全然気づかなかった。
「…助けるってどういうこと?」
「旭さんに、離婚する理由を作ってあげたんです。奥さんの不倫が原因なんですから、兎ちゃんの親権ももらえると思いますよ」
理玖はスマホを操作し、画面を見せつけてきた。
「この画像、送ってあげますね。裁判とかで使ってください」
「おい…!」
画面には、裸でベッドに寝ている朝日と理玖が写っている。
「変なもの見せないでくれ」
「ねえ、離婚したら俺と結婚しましょう?旭さんと俺の子だと思えば、兎ちゃんのことも愛せると思うんです。あ、そうだ。改名しましょうよ。兎なんて名前じゃ絶対将来いじめられます。俺が新しい名前、考えていいですか?」
「や、やめろよ。理玖、なんか怖いよ」
「ああ…ごめんなさい。ちょっと俺興奮してて、今は色々取り繕えないんです」
理玖はふーっと大きく息をついた。
「俺昨日すごく嬉しかったんです。ずっと隠れて見てるだけだった旭さんに直接好きだって言えて、旭さんにも好きだって言ってもらえて」
「理玖…」
あ、だめだ。また流されそうだ。
そう思っているのに、理玖から目を離せない。
理玖は左手を俺に差し出した。
「手、つないでください」
「うん…」
それくらいならと手を握ると、理玖は手の甲にキスをした。
「え、ちょっ…」
「唇に、キスしてもいいですか?」
「え…」
「キスだけです」
理玖は合図を待ってる犬みたいに、俺の顔をじっと見ている。
「い、いいよ…」
そう答えると、理玖はソファーに俺を押し倒し、優しく触れるだけのキスをした。
「びっくりした…。押し倒した割にソフトタッチ」
「この先に行くかどうかは、旭さんが決めてください」
「………」
少し顔を上げれば届く距離に、理玖はいる。
わかっている。
理玖の方に行くと、俺の望む幸せは永遠に手に入らない。
理玖はおかしい。狂ってる。俺が理玖を壊してしまったから。
そっちに行っちゃだめだ。俺のためにも、理玖のためにも。
…なのに俺は、理玖を拒否できない。
「ねえ、旭さん」
「……何?」
「時間切れです」
「理玖…!」
寂しそうに離れていく理玖の手を、とっさに握ってしまった。
すると理玖は、ころっと笑顔になった。
「ふふふ。旭さんは何にも捨てられないんですね。すっごくちょろいです」
「…うるさい」
今度は自分から、理玖にキスをした。すぐに離れようとする理玖の頭を掴み、舌を絡める。
「あっ…せんぱい…」
仕方ない。だって俺は理玖のことが…
「せんぱい、好きです」
「名前で呼んでよ」
「……宏太さん…」
そうだ、思い出した。付き合ってた頃、理玖は俺のことを宏太さんって呼んでたっけ。
「俺も好きだよ、理玖」
朝日のことも、兎のことも、頭から吹き飛んでいた。未来の幸せなんて知らない。
俺は理玖のいる闇へと歩き始めていた。
おわり!
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