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嘘
1日の授業が終わり、職員室へ戻って一息ついていると、スマホに知らない番号からの着信が入った。怪しい電話だったらブチ切ればいいかと思い、とりあえずとってみる。
「もしもし?」
「お疲れさまです、旭先輩」
「え…?!」
電話口からは理玖の声が聞こえる。
「理玖?何でこの番号…」
「名刺に書いてあったので、こちらに電話しました。先ほどの打ち合わせの時にお渡し忘れていたものがあったので、もう一度そちらに伺いたくて。今日まだお時間ありますか?」
「あ、ああ…わかった」
郵送できないんだろうか?と一瞬思ったけれど、電話はすぐに切れてしまって、何も言うことができなかった。
2時間後、ちょうど仕事が片付いたタイミングで、理玖はやってきた。
「すみません、旭先輩。お待たせしてしまって。こちら、渡し忘れていたサンプルです」
急いで来たみたいで、理玖は軽く汗をかいている。近づくと理玖のにおいがふわっと広がって、懐かしい気持ちが蘇った。
「ありがとう。ごめんな、わざわざ来させちゃって」
そう言ってサンプルを受け取ると、理玖は営業用とは違う無邪気な笑顔を見せた。
「いいんです。本当はもう一度旭先輩に会える用事ができて、ラッキーって思ってたんで」
「え…?」
「旭先輩、肉と魚どっちが好きですか?」
「えっ?魚かな?」
「じゃあおいしい海鮮居酒屋知ってるんで、行きましょう」
「ん?!今から?」
「ご都合悪かったですか?」
「いや、えっと…」
「校門で待ってますね」
理玖は楽しそうに応接室を出て行った。
流されるままご飯に行くことになってしまった。今日は妻の誕生日なのに。
脳裏に妻の顔が過ぎる。
俺が何を言っても、テキトーな相槌を打つだけ。きっとあいつの頭の中には、俺の知らない不倫相手のことしかない。
…もういいや。
30分後、俺と理玖は居酒屋で乾杯していた。
「旭先輩、このエイヒレおいしいですよ」
理玖はエイヒレを指でつかみ、俺の口の前まで持ってきた。
「うん…おいしいな」
ぱくっと食べてそう言うと、理玖は嬉しそうに頬を染めた。
「旭先輩は、どうして教師になったんですか?」
「そんなに大層な理由はないよ。子どもは好きだし、収入も安定してるし」
「でも教師って、大変なんでしょう?」
「それなら理玖だって、営業なんて色々大変なんだろ?」
「俺、けっこうサボってますよ」
「あはは、言うなよそんな堂々と」
どうしよう。すごく楽しい。大した話はしてないのに、理玖としゃべっていると、昔に戻ったみたいで。
「あのさ、理玖…」
「なんですか?旭先輩」
「俺…もう理玖の先輩じゃないし、その呼び方変えたら?」
一瞬、結婚したことを話そうかと思ったけど、できなかった。楽しいこの時間を、自ら壊してしまうみたいで。
「そうですね。じゃあ、旭さんで」
「あー……うん」
「どうしたんですか?その微妙な反応」
「い、いや、変な感じだなと思って。あんな別れ方をして、何年も会ってなかったのに、こんなに自然に話せるなんて」
初めて具体的なことを口に出すと、理玖は寂しそうに微笑んだ。
「…旭さんにとっては、もう過去の話なんですよね」
「え…?理玖は……」
「俺、旭さんのこと、忘れられなくて。あれ以来ちゃんと恋愛してないんです」
理玖のストレートな言葉がずしんと心に響く。
まさか、そんなに引きずっているとは思ってなかった。イケメンで性格もいい理玖なら、男も女もどんどん寄ってきそうなのに。
「旭さんは、今恋人がいるんですか?」
「恋人は…いないけど…」
なんとなく歯切れが悪くなる。一応嘘はついていない。妻はいるけど、恋人はいない。
そんな屁理屈を頭の中でこねくりまわしていると、理玖は俺の顔をまっすぐに見て聞いた。
「じゃあ、愛している人はいますか?」
「愛…」
お酒のせいだろうか。体温がぐわっと上がっていくのを感じる。
「…いないよ」
勢いで、焼酎をごくりと飲み干す。
「普通の恋愛がしたいって言ってたじゃないですか」
「うん…」
それは理玖と別れたときの言葉だ。
あの頃俺は男同士の恋愛に未来はないと思って、幸福と安住を求めて理玖を捨てたんだ。
「自分勝手ですよね、旭さんは」
理玖が小さくぼやく。
「理玖はどうして俺と付き合ってたんだ?何の取り柄もない俺と」
「何の取り柄もない旭さんが好きなんです。鈍臭くて、底が浅くて、ちょっと馬鹿な旭さんが好きです」
「俺のこと俺より悪く言うなよ…」
「じゃあ旭さんはどうして俺と付き合ったんですか?」
理玖は頬杖をついてこちらを見上げる。昔と変わらない綺麗な顔に、今は色気が足されているような気がする。
「…美しい蝶を追いかけていたら、帰り道がわからなくなったんだ」
「ふふっ、飲み過ぎですよ」
「そうだな」
立ち上がると、ふわーっとアルコールが回っている感覚がした。
「旭さん?どうしたんですか?」
「トイレ行ってくる」
視線を背中に感じながら、トイレへ向かった。
少し酔いを覚まし、トイレから出て席に戻ると、理玖はスマホを見ていた。
「お待たせ」
「………」
「理玖?」
理玖は無言でスマホを眺めている。
「あれ?そのスマホって俺のじゃ…」
「旭さんの奥さん、美人ですね」
「あっ…?!」
理玖はスマホの画面を俺に向けた。
ホーム画面には妻からのメッセージの通知が届いていた。
『今どこ?妻の誕生日に帰りが遅いとか信じらんないんだけど?兎ちゃんと一緒にふて寝中』
完全にアウトだ。妻はアイコンを盛りに盛った自撮り画像にしているから、顔も割れている。
「…旭さん、兎飼ってるんですか?」
理玖の表情に怒りの色は見られない。あまりにも平然としていて、どんな感情でいるのかさっぱりわからない。
「兎は、娘の名前だ。一昨年結婚とほぼ同時に産まれて…」
「待って、待ってください。情報量が多いです」
理玖は慌てて話を止めさせた。
「旭さんは一昨年デキ婚して、奇妙な名前の子どもがいて…」
「名前は妻の趣味で決められたんだ」
一応小声で弁解しておく。
「あと…俺婿入りしたから、もう旭じゃない」
「また情報が増えましたね」
「妻の名前が朝日だから、旭なんて名字絶対に嫌って言われて、俺の今の本当の名字は…」
「旭さんって、ゲイじゃなかったんですか?」
俺の話を遮るように、理玖は強めに聞いてきた。
「…ゲイだよ」
「じゃあどうして?」
「…理玖と別れた後も、普通の恋愛はできなかった。だからセックスしてみれば、女を好きになれるかもしれないと思って…」
そして、子どもができた。女は好きになれなかった。
「身勝手さに拍車がかかってますね」
「…理玖は怒らないのか?」
「どうして怒るんですか?俺は嬉しいですよ」
「え?」
「誕生日の奥さんを家に置いて、俺のところに来てくれたんですから」
理玖は俺の耳元で囁く。
「店を出ましょう。愛してる人なんて、いないんでしょう?」
「あ…いや……」
理玖は俺の手を取り、甲にキスをした。
「それなら俺を愛してください」
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