第十七夜・至楽キネマ『月と彼』

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第十七夜・至楽キネマ『月と彼』

 にんげんをころしたい。  衝動が彼を襲ったのは、満月が三度欠ける前だった。自分の住む森に何度も入ってくる奴らが、憎くて憎くて仕方なかった。仕方ないから、三日月が欠ける度に月にお願いした。自分の顔を持たない彼には、奴らが羨ましくもあり、妬ましくもあった。これにまじないをかけるならば、嫉妬になるだろう。  彼の願いは月へ昇った。青白い顔をした彼女は微笑みを絶やさぬまま、願いを返す。そういった願いは叶えられない。それが月からの返事。であるから、彼は、にんげんをころしたかった。  神様なんて信じない。運命の糸が見えない。欲しい物は自分で手に入れる。  彼は走った。暗闇の中を木から木へ飛び移り、獲物の首へ鋭い爪を突き刺す。間もなくして、びちゃらびちゃらと汚い血が噴き出す。突然のことに、奴らは何がなんだか理解できず、逃げ惑う。そこを、彼は狙う。  次から次へ、片っ端から葬る。鏖殺(おうさつ)する。 「はやくにげないと!」  狂った笑いだけが森の中をこだまする。ああ、もう、彼は変わってしまったのだ。  月は彼を見下ろしながら深く息を吐く。(しもべ)を喪った彼は慟哭する。 赤い血の海で彼は笑う。ぎゃはははは、嬉しそうに、笑う。  あれはいつの頃だったろう。彼は私を小さな酒器に浮かべて笑っていた。  それくらいに無邪気な笑顔だった。転落した心を集めない限り、孤独な亡霊は森の中を彷徨い続ける。星の数だけある希望を集め、ただひとつの絶望を手放した。望みは薄く、願いは厚く。  おしえてくださいかみさま。あのひとはなにをかんがえてるの。  彼の純粋なこころは、彼の変わりきった姿を嘆いていた。相反するふたつが重なり、順調に事が終わるまで、そう時間はかからないはずだった。だのに、そうもいかなくなってしまった。月が、下りて来た。彼女が孤独を目に浮かべながら、歩み寄ってきた。こころが、すこしだけ、口を開く。  どうしてきたの。  あなたをたすけたかったのよ。  それは過ぎた願い。死んだ未来を寄せ集めた愚かな答え。  今宵も、人の生きたものがたりを、ありがとう。
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