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第五夜・苛烈キネマ『雨の呼び名』
「夕貴大学文学部国文学専攻、皆川佳子と申します。私の趣味は読書です。年間で三百冊ほど読みます。何故読書が好きなのかというと、現実を見るための思考の引き出しをくれるからです」と言うと、多くの面接官は、こう言うのです。「どのような本を読んでいますか」と。この問答を今まで何度も繰り返してきました。いつものように、滞りなく面接は終わりました。
当たり障りのない趣味で、当たり障りのない本のタイトル。誰が聞いても「聞いたことある」と言うような、近頃流行りの小説やライトノベルのタイトルを挙げるだけで、面接官はつまらなさそうな顔をするのです。では、どのような答えが正解なのでしょうか。歴史小説? 恋愛小説? それとも怪奇小説? どれを挙げても、『読書』が趣味というだけで、私の面接は終わってしまうのです。ならば、他に趣味を見つければいいという話になるのですが、私は本が好きなので、やはり必然的に「読書が趣味」となってしまうのです。
今日も私は行きつけの本屋へ寄り道をします。今月発売の新刊、今春に映画化された原作小説、色々なものが並んでいます。いつものように好みの出版社の小説の棚へと足を運ぶと、通路の奥に、空色の髪の人を見ました。
綺麗な顔をした人だなぁ。目も青いなぁ。外国の人なのかなぁ。私はぼんやり彼を見ていました。すると、私の視線に気付いたのか、彼がこちらへと歩いてくるではありませんか。
「俺に何か用?」
「あっ、あっ、すみません。その、あまりにも、綺麗な、えっと、その」
と私が何も言えずにいると、彼はクスクス笑いました。
「あなたは本が好き?」
「あ、はい」
「俺も本が好き。現実を見るための思考の引き出しをくれるし、今まで知らなかったことを知ることもできるし、これを書いた人はどのような思いでこの話を書いたのかを考えることもできるし、色々と、楽しみ方があるし、良いと思う」
「私も! 私も一緒です!」
私と同じような考えをする人に会えるなんて!
私は今まで色んな会社の面接官に言われたことを、見知らぬ彼へ伝えました。彼は嫌な顔ひとつせず、頷いて聞いてくれていました。面接官のように飽きもせず私の話をきっちりと聞いてくれるなんて。それだけでも私は嬉しくて舞い踊りそうでした。ここが本屋だということも忘れて長々と話をしてしまいました。
店員さんと目が合って、私は恥ずかしくなりました。こんなところで長々と本の話をしてしまうなんて。
私は恥ずかしくて、顔を手で覆い隠しました。
「あなたは、本当に、本が好きなんやね」
彼は先程と同じように笑いました。花弁が綻んだような優しい笑みでした。
「もし、良かったら――俺の部屋に来ない? あなたが見たことのないような本を見せてあげる」
「え、え、でも、良いのですか?」
「良いよ。俺は景壱。あなたの名前は?」
「皆川佳子です」
本屋を出て、景壱さんは日傘を広げました。最近は男の人も日傘を使うらしいですし、彼の肌が白くて綺麗なのは、こういう努力があるからなんだなぁと思いました。
ここで私は不自然なことに気付いたのです。景壱さんの髪色はとても目立つし、服装もここらへんでは見慣れないのに、道を行く人は、誰一人としてこちらを見ないのです。まるで、彼が見えていないかのように。
「こっちへ来て」
と、景壱さんは横道に入り手招きをします。
私は急に怖くなりました。このまま彼についていっても大丈夫なのか。
今見知ったばかりの人の家に上がり込んで何もないか。
なにより、誰一人として、景壱さんを見ないことが恐ろしかったのです。そして、その恐ろしさを今はっきりと目にしたのです。彼がいるのに、人が通っていきました。身体をすり抜けていくかのようにして。
しかし、景壱さんは何も気にしていないように手招きをしています。
「あ、あの。私、やっぱりお邪魔するのはやめておきます」
「それは何故? 理由を聞かせて」
「さっき会ったばかりですし、その、えっと、もっと知ってからじゃないと――」
「皆川佳子。夕貴大学文学部国文学専攻。血液型はA型。誕生日は十月七日。趣味は読書。好きな食べ物は、母親が作ったハンバーグ。嫌いな食べ物は、アンチョビ。一番好きな本は、森鴎外の『舞姫』。主に物語性のある本を好み、哲学はあまり読まない。これはすぐに飽きて眠ってしまうからやね。逆に哲学者をコミカライズした物は好んで読む、と。漫画も読むのは読書好き言う点では、良いと思う。図鑑や辞典も好んで読む、と。国文学専攻だが、古典が苦手。源氏物語の順番が覚えられずにいる。就活を始めて一年以上経過したが、未だに内定は一つも取れていない。このままフリーターになるのではないかと不安になっている。家族構成は両親と犬が一匹。犬の名前はココア。四歳。犬種は柴犬。性別はメス。何かここまでで、間違いはある?」
「どうして私のこと……」
「あなたのことなら知っている。暇やからずっと見ていた。あなたはなかなか面白かった。俺が持て余した時間を潰すのに最高やった。様々な企業の面接を受けて、何度もお祈りメールを受け取るあなたの姿は、なかなかに滑稽やった。どうしてそんなに自分に向いてない企業の入社試験ばかり受けるのか俺には全く理解できなかった。だから、あなたをずっと見ていた」
「そんな……」
「俺は理解できなかった。だから、俺はあなたの前に現れた。あなたと話をしてみたかった。あなたの行動パターンは知っていたから、ここで待っていた。そして、あなたが来た。後は、あなたが俺の誘いに乗って、俺の部屋に来てくれるだけで良かった。でも、あなたは、今、それを拒んでいる。それは、どうして? 理由を聞かせて。俺はあなたのことを知っている。こんなにも知っているのに、何で俺のことが信用できない?」
「逆に聞きますけど、知らない人に自分のことを詳しく知られていたら貴方は怖くないのですか」
「さあ? 俺はそういうものやからね」
話が全く通じない。
私は逃げようと思いました。ですが、この行為は叶いそうにありませんでした。
振り向くと、さっきまでの道が、嘘のように違う景色へと変わっていたのです。
見たことのない大自然。そう――それは――まさしく、本の中でしか見ることのできない景色。
「あなたは、何を望んでいるの?」
前を向き直すと、景壱さんが微笑んでいました。それは美しくも、凍てついた笑みでした。
何を望むか聞かれたところで、私は今すぐ元いた場所へ帰りたいと思うだけなのでした。どうしてこのような場所に来ているのか、さっぱり思考が追いつきません。
ただ、この大自然の、爽やかな草の香りが、私の鼻孔をくすぐるだけなのです。
「あなたの望みは何? 俺が叶えてあげる。富? 名声? 力? 何を望むの?」
「元の場所へ帰してください」
「それやと俺が面白くない。俺は持て余した時間を消費したい。多くの本を読みたいと言うのなら、本が嫌いになるほど読ませてあげる。一流企業に勤めたいと言うのなら、既に埋まった内定枠から一人消して、あなたの名を入れておこう。すぐ就職できるようにしてあげる。嫌いなあいつが同じ会社を受けて、内定を貰っていて憎いのならば、あいつを消してあなたを採用するようにしてあげよう。さあ、あなたの望みを俺に教えて」
「貴方は何故そんなに私にかまうのですか?」
「それは愚問とも言う。面接での質疑応答なら不採用。俺は持て余した時間の消費をしたい。時間は有限やけど、俺とあなたは生きている時間が違う。あなたを見ていたのも、たまたま目についたから。実に滑稽で、実に無様で、もっとその姿を見ていたいと思った。それで、あなたの望みは?」
「私を元の場所へ帰してください」
「同じ事しか言われへんの? ああ、就職活動の面接は同じ事ばかり言うもんな。俺もしてみようか。何故同様の企業が多い中、弊社を受けようと思ったのですか? どこに魅力を感じましたか? 弊社でやってみたい仕事は何ですか? って。ククッ、あっはっはっはっはっはっは」
話が通じていない。景壱さんは壊れたねじ巻き人形のように手を叩きながら笑っていました。しかし、その目はとても冷たく、心の奥底からの笑いではないようでした。すいっと細まった瞳の奥に恐ろしい気配がしました。私の目の前にいる人は――いえ、彼は人なのでしょうか? それとも人ではない何か?
「貴方は人ですか?」
「俺は雨の眷属。人間と一緒にせんといて」
風がごうっと、吹きました。足元の草がざわざわ、音をたてて揺れています。空を仰ぐと、灰色の雲が流れて来ていました。一雨きそうです。彼は日傘をくるりと回すと、口を開きました。
「俺は雨の眷属であり、雨の末裔。あなたの知能レベルに合わせて言うと、雨の神様の親戚。いいや、神だったものとでも言うべきか。しかし、それだとややこしくなるだろうから、やはり親戚で良い」
「雨の神様の親戚がどうして私にかまうのですか?」
「あなたは同じ質問ばかりを俺に投げかけて楽しいの? 俺は楽しくない。だから、今度は俺から質問をしよう。雨の呼び名にも色々あるって知ってる?」
「雨の呼び名――」
「一口に雨と言っても、色々な降り方がある。そして、雨の名前も、降り方や降る時期、時間帯、また、季節や感情によって、色々な呼び名がある。例えば、弱く細かく降る雨でも、小雨、霧雨、糠雨、時雨と呼び名がある。さて、ここで問題。俺が今から降らせる雨は何と呼ばれるものか。見事に当てることができたなら、元の場所へ帰してあげるし、あなたに一番適する職の一流企業に就かせてあげる。はずしても違うご縁を結んであげる」
「承知しました」
「では、俺の傘に入って。心配しなくとも、俺はあなたに指一本触れない」
私は手招きをする景壱さんの傘へ入りました。
景壱さんはそっと、口ずさみます。なだらかで、心地よい歌声が大自然に響きます。
途端に、空は灰色の雲に覆われて、激しい雨が降り始めました。
この雨の呼び名は――……。
「呼び名はわかった?」
景壱さんが私に問いかけると、雨が止み、青空が広がりました。
急に降りだして、しばらくすると止む雨だから、この雨の呼び名は――……。
「驟雨」
「なるほどな。参考までに、どうしてその答えになったか教えてくれる?」
「それは、急に降りだして、しばらくすると止んでしまうからです」
「ククッ……あっはっはっはっはっはっは」
景壱さんはお腹を抱えて笑っています。目に涙を浮かべるほど笑っています。垂れ気味の瞳を覆う長い睫毛に露のように涙が乗っていました。
「違いましたか?」
「正解でもあるけれど、間違いでもある。ま……雨の呼び名を答えられただけ及第点をあげよう。ただ、それは俺が求めていたような答えではない。つまり、はずれ。俺はあなたに別の縁を結ぼう」
軽やかな足取りで彼は私を自分の傘から出しました。そして、再び口ずさみます。美しく透明感のある歌声が私の心に沁みるようでした。
私の頭上に雨雲が集まっている。私がそのことに気付くには少し遅すぎたようでした。
冷たい雨が私の体温を奪い去るまでに、そう時間はかかりませんでしたから。
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