第七夜・苛烈キネマ『本のあなた』

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第七夜・苛烈キネマ『本のあなた』

 カビと埃の舞う部屋。高い天窓から射し込む太陽光がそれらを美しく煌びやかに見せていた。  白い埃が舞う度に足音が一つ増える。  コツコツ、コツコツ、革靴の音。  手を伸ばせば届くであろうしあわせ。  ページを捲る度に、物語は結末へと向かっていく。ここの話、私のセリフだけが破られている。思考を放棄した結果、届かなくなったしあわせ。沁み込んでいく痛み。現世(うつしよ)に怯え、逃げ込んだ心理は誰にも理解されないまま。読者である私は、物語の主人公にはなれなかった。  今も、きっと、これからも、私のセリフだけは破られたまま、何も変わらずに、私は物語を進められずにいる。  あの時、こんなセリフを言えていたなら――こんな表情ができていたなら――こんな芝居が打てたなら、そう何度も思い返すことはあったけれど、残されたのは破れた台本だけ。 (とも)る明かりに目を細める。  狂気は、美しい青年の姿で現れた。  名状しがたい美しさを持った青年。物語の主人公に相応しい顔貌をしていると思う。快晴を切り取って貼り付けてきたかのような色の髪に、星の瞬きを閉じ込めたような紺碧の双眸(そうぼう)。垂れ気味の目を覆うのは長い睫毛。それには涙が露のように乗っている。乳白色をしたきめの細かい肌が、たった今灯ったばかりの明かりで薄く朱に染まって、血のぬくもりを感じられた。  青年は私の前に立つと、細長い指でついっ、と私の肌をなぞる。くすぐったくて、思わず笑った。  彼は薄い唇に傾斜を描く。  そのまま絵画になっていそうなほどに完成されていた、ように見えた。 「ああ、こんなところにあった」  ポツネン、とひとり呟く。  青年の言葉は私には向かっていない。確認の意味を込めたような呟き。自分の心の中で全てを終わらせるようなひとこと。  止まってしまった私の物語に、新たな登場人物として、彼が入り込む為のセリフ。  そして、読者である私には彼が必要だった。私の物語に、続きを求めていた。破られた私のセリフを上書きするように、彼なら言葉を紡いでくれるだろう。  私の厚かましい考えはきっと彼には届かない。狂気は、いつでも狂ったままでいる。  だから、正気の彼には、何も変わらない。  狂気を正気にして、狂気と共に在り、狂気を呑み込んでしまった、彼のようなものには――私は脇役よりも下で、どこまでも下で、そこらへんのモブよりも記憶に残らない。エキストラにもなれず、スタッフにもなれず、ただただカビと埃に塗れるだけ。  見つけてもらえた事を喜ぶだけで良い。  私の物語を覗いて、私の破かれたセリフを読んでくれれば、それだけで満たされる思いだった。  誰かと比べて劣等感を抱く。日陰で消えていくだけの私を開いて、愉悦に浸って。 「では、あなたの物語を始めよう」
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