第八夜『けだもののおはなし』

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第八夜『けだもののおはなし』

 つんざく悲鳴と過激な輪舞曲(ロンド)、ピアノが奏でる狂想曲(カプリチオ)。白い指先でなぞる生命の点と点。繋げていく星と星。完成した星座を見て、人々は物語を紡ぐ。また、想いを寄せて逸話を愛でる。英雄は星になり、死んだ人々も皆星と成る。あの星の光はどれほどの間、孤独に旅を続けて来たのか。我々の目に届いた時には、既にあの星は、消えているのかもしれない。それだと言うのに、ただただ五体を持て余し、五臓六腑に染み入る狂気に気付かず、少しずつ変わっていく景色。変わりきってからでは、時すでに遅し。他人の痛みを知るには、自らも痛みを知る必要がある。だのに、誰が好き好んで痛みを受けようか。痛みをわかりきった頃には、全てが終わっている。  見上げる先はメビウスの輪、取り込まれ、誘われ、迷い迷いて、行方不明。  螺旋階段を上り続け、意識を高く、プライド高く、他人は全て見下すもの。比べてみるのは優越感。自分より下のモノを見つけて手を叩いて喜ぶ様は、なんて愚かで幼稚で愛おしい。  壊れた猿のシンバル人形。崩れ落ちたシャンデリアの輝き。  自分が愛した女を目立たせようと奔走する日々。目立ち過ぎた彼女は自分とは別の性格の男に惚れていた。日陰で見守るだけで良かった。愛なんて知らなくて良かった。  だのに、だのに、ある日、彼は、愛を知ってしまう。愛を知ってしまったばかりに、彼は彼女に愛されたいと強く願った。  強く願った想いは歪み、破滅をもたらす。それはちょうど半月の浮かぶ頃のおはなし。  誰にも知られず、誰にも知らされず、誰にも認知されることなく、退治された哀しい、けだもののおはなし。  例によって、知らないままでは終わらせることができなかった。  知ろうと思えば、いくらでも情報はそこらに落ちていた。誰にも知られずに、誰にも知らされずに、消えていく哀しみを誰がわかるだろう。俺にはわかる。俺も消えかけていたモノだから。いいや、俺は、消えたモノだった。忘れられたモノだった。  誰かが言っていた。誰かが歌っていた。死んだ人と待っても来ぬ人は同じだと。忘れられた人は同じだと。  言い得て妙だ。忘れられた人は、どれだけ忘れられても、思い出されることはない。  死んだ人は、まだ、死んだという事実だけが残っている。死んだ、それだけの情報は残る。 人が死んだら最初に忘れられるものは何か。あなたはご存知だろうか? 俺は知っている。知りたいなら、教えて差し上げよう。その涙も俺は知っている。全て取り上げた運命を俺は知っている。  人が死んだら最初に忘れられるもの、それは――声。  顔は写真が残っているなら、思い出せる。写真がなくとも、こんな顔をしていた等の情報は記憶に残っているものだろう。だが、声はどうか。声は言葉での表現が非常に難しい。  俺の声だって、あなたにはどう聞こえているか。どのような高さで、どのような速度で、どこにアクセントがあり、どこで区切るか。それらを一言一句余すことなく伝えることができるだろうか?  俺の声が誰かに似ているとするならば、その人の声の特徴を伝えれば良い。それは声の仕事――例えるならば、声優、ナレーター、アナウンサー、レポーター等々。それらの職業の人々ならば、「声」は記録されており、容易に何度でも聞き返すことができる。だが、一般的な人々がそうそう「声」を残しておくことをするだろうか?  ま……あれこれ挙げていっても、特に意味は存在しない。  意味は存在しないという事実だけが、あなたに伝わるだろう。死んだら声が最初に忘れられる。それだけ覚えておいて損はしない。得もしない。  そしてこれは俺の持論であり「一説によると」を付け加えておきたい。なので、声高らかに言いふらす事柄ではない。ま……そんなに言いふらそうとするお客様はここにはいないだろうが……。  本題に戻ろう。哀しいけだものは、ただ、愛されたかった。自分の持てる技術を人に与え、教育し、自分の事を愛してくれる者が欲しかった。それがたまたま女だった。地味で飾り気がなく、主役には到底選ばれる事の無いような女だった。  だが、けだものは、彼女の声の美しさを知っていた。誰よりも努力家であることを知っていた。だからこそ、けだものは彼女を愛した。自分の持てる技術を彼女に教えようと思った。地味な彼女を目立たせ、表舞台で活躍できるような女優にしてやろうと思った。彼女はけだものを喜んで受け入れてくれた。優しい声をしていると気に入ってくれた。姿を見せることは無かった。見せる必要は無いと思っていた。しかし、彼女は、けだものの姿を見たいと願う。その目に焼き付けて、直接、触れて、教えを乞いたいと言う。  ならば、と、けだものは姿を見せる決心をした。誰からも愛されない醜い容貌を見せるには、心を落ち着ける必要があった。深呼吸を繰り返す。繰り返し、吸って、吐いて、吸って、吐いて。何度も繰り返す。  心を落ち着け、けだものは彼女を迎え入れた。取り繕った笑みが悲しかった。どれだけ自分の姿を呪っただろうか、けだものの心は、哀しさで砕けそうになっていた。彼女は笑って、ただ、笑って、「ありがとう」と言った。けだものは、それが嬉しくもあったし、哀しくもあった。  ――もう彼女は自分を愛してくれない。「私」を愛すことはない。  けだものは悟った。何もかも、悟った。彼女の背後に見えた男の影。男の香り。美しかった彼女が急に汚い物のように思えた。殺したいほど憎く思った。どうして、こんな思いをしなければならないのか。どうして、私が、こんなに哀しくならなければならないのか。 「              」  声は、出なかった。セリフを紡ぐことはできなかった。彼女に言いたい事は多数あった。だのに、けだものは、どれも言えなかった。止まってしまった彼の物語。それらを全て上書きするように、カビや埃が舞い踊る。光は闇があるからこそ、美しく見える。きれいはきたない。きたないはきれい。魔女の言葉が耳元で響く。  気が付くと、けだものは血の海に沈んでいた。彼女の亡骸を抱き上げる――という悲劇にはならなかった。  何故なら、それは、自分の血だった。  身体のあちこちに銃弾を受け、喉は切り裂かれ、美しい歌声もまた、夢のまた夢。すべては長い悪夢だったのだ。嘲笑うには早すぎた。どうして生きているかわからなかった。これだけの血の海に沈んでいるならば、死んでいるはずだった。だのに、彼は生きていた。生かされていた。顔の半分を仮面で覆った男が近付いてくる。ああ、それは、自分だったものだ。醜い容貌を隠そうと必死になっていた自分自身で間違いなかった。けだものは手を伸ばす。仮面の男は唇を真横に裂いたような笑みを浮かべる。  ――ああ、自分は、けだものだ。  誰にも知られずに、彼は、けだものは、死んだ。誰が彼を殺したのかはわからない。どうして彼が退治されたことを知ることができたのかは、誰も知らない。知っている者の仕業。事件の発端を知る人物の犯行。  本日はこれにて終演。それではまた、次の雨の日に。
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