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知らない話、知り得ない未来。
「君は神話が好きなのかい?」
「どうだろうなー。好きってほどじゃないかも?」
「はっきりしないね。好きということにしておきなよ」
「じゃあ、それで。神話がその漫画に出てくるの?」
「ふふ、どうかな?」
やっぱり教えてくれないみたい。
「どんな罪を犯したのかは知らないけれど、自分から話しかけることはできない罰を受けた妖精がいるらしいよ」
「妖精のエコー。こだまの事かな」
「もし、仮に。君の好きになった人が……ああ、仮の話だよ。その人が、君の言ったことを繰り返すことしかできなくなったら。君は彼女にどんな言葉を掛けたいかな?」
悪戯好きな黒い瞳が、僕の心をノックする。引きこもったまま、本人さえ知らない何かを引き出そうとするかのように。
彼女は次の本を手に取った。
面白いのかどうなのか。難しそうな表情で、漫画の頁を繰っていく。
彼女と居る間だけ、誰も僕を追って来られない。大人も、役割も、時間さえ。
だから、納得のいく答えにたどり着くまで考えられる。
「僕の……」
「うん?」
「僕の名前を彼女の名前と、同じ名前にしてしまおう。お互い呼び合えるように」
彼女は、はっと顔を上げた。珍しく全身で驚いてる。
「変なこと、言っちゃった?」
「ううん、思いがけない答えだよ。ボクも読んだことのない答え。ああ、面白いね、やっぱり」
あはは、と声を出して喜ぶ彼女は、何だかとても新鮮だった。
こんな笑顔も見られるのなら、もっと色々描いてみようと思えてくるんだ。
「もう、このお話はいらないね。君はこれ以上に面白い作品を描ける」
そう言って、彼女は読んでいた本を僕に見せた。
中身が見えた瞬間だった。ボンッと弾ける音と共に、頁が無数の羽に変わった。
真白の羽だ。
彼女がパチンと指を鳴らすと、窓から差し込む光の中をひらひらと舞った白紙の羽は、形を忘れたかのように崩れ、静謐な空気に飲み込まれていく。
「新しいお話をもっと描いて? ボクに読ませて? いつでもここで待っているから」
***
季節が秋へ移ろうと、彼女からのお誘いはぴたりと止まってしまった。
公園の入り口へ行ってみると、森はすでに上も下も真っ赤に染まっていた。
揺れて舞う梢の音。その騒がしさの中に、気が付いてしまう。森が僕を入れさせないようにしていることに。
彼女に呼ばれないと入れないのだろうか。ああ、そっか。彼女は夏以外の季節を知らなかったんだ。と言うことは、夏しか姿を現さないのだろう。
今、無理に入っていっても辿り着けないんだと悟った。
秋が過ぎ去り、冬。雪が降り積もれば、とても入れるような山じゃなくなる。寂しさをこらえながら、春を待った。この春がダメなら、当分会えなくなるから、どうにかして会いたかったんだけど……
雪解けの水を吸い上げた木々が、淡い色の新芽を伸ばし始める頃。一縷の望みに掛けて森の入り口に立ってみたものの、案の定、奥へと誘われることはなかった。
公園が見える距離を保ちながら森へと入る。
去年の夏はどんなに適当に歩いて行っても、不安は微塵も感じなかったというのに、今は少し無理をして先へ進めば、簡単に迷うことがわかってしまう。
「僕は来月から県外の専門学校へ行くんだ!」
森の深くへ届けとばかりに、声を張った。
「卒業したら、必ず会いに来るから! 絶対にプロになって、君が読んでいた漫画を描く。そのときは一緒に読もう! それまで、待っていて欲しい!」
ありったけの想いを乗せて、叫んだ。
あの夏の日溜まりまで届けと祈りながら。
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