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今から行くよ。
彼女と出会ってから2ヶ月が経った。
この頃にはもう、彼女が僕に会いたがっていることを、お昼休みには察知できるようになっていた。
開け放たれた窓から入り込む、風のにおいに――
通り雨が上がった後の、ちょっとぐずつく雲の色に――
気まぐれに口笛を合わせる、鳥たちのコーラスに――
――そういった些細な日常の気付きに、彼女の「今日、森へおいで?」って想いが乗っかっていた。
お誘いに気が付いてしまった日は、午後の授業なんて全く頭に入らない。ホームルームが終わったら、誰よりも早く教室から逃げ出し、自転車にまたがって一直線に公園を目指す。
森への入り口は、近所の公園の裏にひっそりと存在していた。みんなが通る散策路じゃなくて、特に変哲のない楓の木の間が、僕専用の入り口だった。
街灯の足下に自転車を立てかけて、ワイヤー錠を掛けたら、誰も知ることのない秘密の入り口へと駆け込んでいく。
いつ来ても、暗く湿っぽい。
鬱蒼と茂る木々の葉が、歩き続ける僕の頭上をしつこく隠し続けていた。本当なら、どこまでも延びる青い空が見えるはずなのに。
太陽の傾き、空の色、町の賑わい具合で気がつけるはずの時間の感覚が、この森にいるとわかんなくなる。
それでも、不安はなかった。
誰にとっても平等に経過していく一日の残り時間も、そして、自分でもどこを歩いているのかわかんなくなる道の行く先についても、不安はないんだ。
どれだけ歩き回ったとしても、あの日溜まりの庭に辿り着くのは、いつだって夕日に赤みが差し始める頃で、そんな世界に住んでいるあの子は、いつまでも僕が扉を開けるのを待ってくれてるって知ってるから。
奥へと進むほど木々の影は存在感を増していく。その中をひたすら進み続けた。
うねり狂う、名前も知らない樹を、右に左に躱しながら、道のない道を感に任せて突き進む。
毎回知らない場所を、好き勝手に進んでいるのに必ず目的地の場所に辿り着けるのは、あの場所が僕の方に近づいてきてくれてるからだって、未だに信じてる。彼女は毎回否定しているけど。
ゴールデンウィークに、将来の進路について父と喧嘩して、自棄になってこの森に迷い込んだ、あの日から。
座り込んでいる僕の目の前に、シロツメクサのまるい花に埋め尽くされた庭と、日溜まりに浮かぶ真っ白い洋館が姿を現した、あの時から。
僕は彼女に気に入られているって信じているし、僕は彼女に一目惚れをしたんだと気がついている。
だからこうして――
(濃密で重たい森の空気と、透明な日向の空気の境目は、プリズムが弾き出す色によく似ていた。もう、何度も通っているから心の準備も必要ないほど慣れている。
そんな小さな事にも幸福を感じられるほど、僕の心は満たされていた。この幸せな心を取り出すことが出来たなら、真っ白な花束と一緒に包んでプレゼントしたいな、なんて……)
――こことは違う世界へ、一歩を踏み出せるんだ。
ぽっかりと開けた場所。
暗みに慣れた目には、眩しいほどの光。
肌に降り注ぐのは、音を生まない空の色。
メロディが時空という波に変わるぐらい、遠くから見守ってくれている太陽は、ひたすら『生きろ』って歌ってる。
僕は、夏がこぼした日溜まりの中に、一人きりで立っていた。
光の濃さに、思わず目を細める。
瞑ってしまったら、また森の入り口に戻されるんじゃないかって不安になるから、細めるだけ。
両手を左右へ伸ばし、胸をめいっぱいに広げた。思いっきり吸い込んだ風に生き物の匂いが混じっていたから、驚いて目を開けた。
きょろきょろしてから気がついた。僕の汗のにおいだった。
誰にも聞かれないように、お腹を抱えて笑う。
雲になれなかったふかふかのシロツメクサたち。
誰の物にもならない小さな洋館。
大人になる前の僕。
大人になってみたいと言っていた君。
語り明かした夢に包まれる黄昏時。
大切な、夏だった。
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